8月6日。黙祷。今年も酷暑でした。昨日、野暮用で広島に行ったので、平和公園を散策しました。記念式典の前日の平和公園はカオスでしたね。右翼、左翼が大きな音でマイクアピール。そこに民族派や、在特会、それとは真逆のリベラ。それぞれがマイクアピール。そこに式典のリハーサルの音も混ざり。広島の人はもちろんですが、旅行者やバックパッカーの姿も多かった。一眼レフを抱えた若い人もたくさんみかけた。子供からお年寄りまで、まさに老若男女の姿があり、外国の人もたくさん訪れていた。この日に合わせて修学旅行や平和学習で訪れていた制服の中学生も多かった。思想、年齢、性別、そして国籍。全方向から人が集まっていて、なんとも言えない空気が流れていました。この日を政治利用する団体が増えれば増えるほど、取り巻く警官の姿も増えます。結局はみんな、戦争の無い世界を望んでいて、そこに至るやり方を主張しているんだ。ゴールは同じなのに、なぜ喧嘩腰になる必要がある。日付けが変わる頃に、公園を再訪してみた。数時間前の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ドーム前の石のベンチには、独り独り、ポツンと座ってはそれぞれがドームを見上げていた。年配の方、俺ぐらいの男性。色々な思いや過去、悲しみを噛み締めているんだろう。原爆死没者慰霊碑へ行き、手を合わせ黙祷した。祖父母への黙祷は当然だが、あの灼熱の地獄の中で亡くなった多くの方々の苦痛への労い。皆さんの想いと屍と悲しみや怒りを越えて、ここまでの街になっています、広島は。この時間に黙祷に来られてる方々は、黙祷の時間が明らかに長かったし、深々と頭を下げていた。印象的だったのは、一人で黙祷に来ていたアングロサクソンの若者。身なりと行動からして旅行者ではなく、住んでいる人だろう。随分と長い時間の黙祷と、90度近くまで深々と頭を下げていたその姿に感動した。世界にこんな人ばかりならば戦争は起きない。1年ごとにキナ臭くなってる日本の情勢。それは、日本が参加するこの世界がそうだからでしょう。地球の裏側では平和の祭典が始まった。大きな力がうねっている、暗躍している2016年。戦争を避ける、抑止の為の武力や核。理屈は解ります。でも被爆三世の俺はそれに首を縦に触れない。俺らはただ、夜が来て、朝が来ればそれでいい。そんな毎日を繰り返したいだけ。その為にはまずは平和の意味や歴史を勉強し、バランス感覚を身に付ける事が大切。今日も世界が健やかでありますように。