体罰 | 士別市議会議員 渡辺英次 オフィシャルブログ「絆」Powered by Ameba

体罰

大阪市立桜宮高2年でバスケットボール部主将の男子生徒が、


顧問の男性教諭から体罰を受けた後に自殺した問題。


大きく報道で取り上げられております。



体罰やいじめで子どもが自ら命を絶つということは


私にとっても胸が締め付けられる非常に辛いことです。


身近で「自死」というものを経験すると、


嫌でも生命の尊さや心の問題については真剣にもなります。



「社会の中で生きる人間」と考えると


法律を遵守しなければならないことは言うまでもありません。


法律がないと社会として成り立たないということも当然のことです。



しかし本来は「人間あっての社会」のはずであって


法律は人間が人間らしく安全に暮らせるためのもののはずです。


そういった意味で法律は全てそうなっているのか?


という疑問を抱くときもあります。




さて、今回のことでテレビでも


色々なコメンテーターの意見やまちの声が聞こえてきます。



「体罰は一切だめ」


「昔は絶対服従だった」


「この人はこういう人だと割り切っていた」



様々な考え方があるわけです。



教員による体罰は学校教育法により禁止されています。


○、×で言うと当然「×」なわけです。


しかし「体罰」に対しての明確な定義はありません。


殴る、蹴る、、小突く、肩をパシっと叩くなどなど、


一切合切体罰に該当します。


ちなみに廊下に立たせる、正座させるなども該当です。



私はここにも問題があると常々感じております。


物凄く大切なことなのに明確な定義が示されないのは


精神的なもの(心)が大きく関係してくるからです。



基本的に「体罰」に該当するのは児童生徒に対する


「懲戒」に対しての行為を指します。要は罰するときですね。



行為自体に線引きをするから痛ましい事故が絶えないと思うのです。


本当に大切なことは、


教員の気持ちが子どもに伝わっているか


ということのはず。


それが絶対であるなら、このようなことは全て無くなるのです。


殴られて同じ苦しさでも自分を強くするための苦しさと感じられるのです。



これは体験したことがある人は理解してもらえると思います。


逆に体罰を体験していても理解いただけないのであれば


叩かれたことが本当に苦痛だったのか伺いたいです。


そこではないのではないか?と思うのです。



私も納得のいかない体罰を受けたことも当然あります。


しかしそれがその行為自体が苦痛なのではなく、


感情で叩かれたり、思いを感じないときに苦痛となるのです。



また、「体罰=叩くこと=暴力」と考える方が多いですが


これもまた全くもって違うと考えています。


暴力というのは己の力を持って相手をねじ伏せることであって


相手を導くための手段の場合には暴力ではないと思います。


そこに通じる愛情があるのであれば。



ちなみに上記のように、行為自体で「体罰」というのであれば


どこにでも存在しています。恐ろしい数の体罰が。


学校だけではなく家庭でも、社会でもです。


しかし全く問題化せずになっていることのほうが絶対的に多いのです。


そしてそのことで生まれ変わって今の自分がいると


考えている人も山のようにいるのです。



もちろん体罰全てを認めるなんて全く考えていません。


それ自体がどうこうではなく、心はどうなのだということです。


ですから、教員も最大限に子どもの気持ちを考えなければならないのです。


全ての生徒に同じような手法で接することも駄目に決まっています。


要は、子どもに対してどう接すれば自分の思いが伝わり


信頼関係が取れるのか。そこれはないでしょうか。





今回もテレビでは「30回は叩かれた」とかのインタビューに対して


コメンテーターも同調するような意見を話されていますが、そこか?と思います。


もっと真実を突き詰めるような報道をするべきです。



学校ではどうだったか。


部活動では?


友人関係は?


家庭では?



など、まわりに取り巻く環境全てがその人の人生なのです。


一人の悪者を決め付けて終わらせるような社会や報道は


改めなくては同じ痛ましいことを繰り返します。


そんなことよりも、


全ての環境で一人を救える環境を作ることのほうが急務なのです。



人ひとりの命はとてつもなく重いのです。


本当に尊い命を思うのであれば、


格好の良い能書きばかり言わないで、真実を追究し、


これ以上繰り返さないようにしなければなりません。



なにより子どもにとっての一番は家庭であるということを


再認識しなければならないと思います。



この度のことに心からお悔やみを申し上げます。


皆さん、いい加減に目をしっかり見開きましょう。