■「真ん中っ子」は能力主義VS甘えん坊主義の因果(カルマ)の対立構造
私、中西豊は、真ん中っ子である。
兄貴が2個上で、弟が1個下にいる。
真ん中っ子は、自分のポジションが無い、と友人から聞いた。
ほぅ。
兄貴、姉貴という存在は、しっかり者、ちゃんと兄弟の面倒を見る、という
ポジションが与えられる。
末っ子である弟、妹は、母親の愛情を全部、受け取ることができる
「甘えられる私」という役割をしっかり全うできる。
そんな上、下のポジションは「がっつり」安定したポジションをキープできるが、
中、つまり真ん中っ子は、上にもなれず、下にもなれず、
中途半端に右往左往する。
してしまう。
兄貴分のような、しっかりと突き抜けたリーダーシップの舵を取る
「頼られる私」でもなく、
全ての存在を1点に集約されるようなブラックホールのような
「愛を全部注がれるぜっ!」的な愛情無限大な受け皿を得れる
「甘えん坊な末っ子の私」でもない。
そんな兄貴、姉貴のように頼られるわけでもなく、弟や妹が生まれてくる前に
「瞬間最大風速」のような一瞬、愛情をもらったような、もらってないような。。。
そんな頼られる、愛情もらえる、という存在意味を見出せるようなポジションではない。
真ん中っ子は。
なので、真ん中っ子の特徴としては、自分の役割、ポジションがないから、
何とかして、母親の注目を集めたいと思い、
「変顔したり。」「あからさまに、変態チックな行動」もしくは、
「訳のわからない悲惨、惨め、哀れむような乞食キャラ」を演じるようになる。
母親の愛情をもらうため、注目されるため、必死。
無我夢中。
では、そんな状態の真ん中っ子の自分が、どんな人生を歩んでしまうのか?
歩まざるを得ないのか?
それを実体験をもとに解析してみよう。
■真ん中っ子、豊ちゃんの物語
どの切り口から説明したらいいのか分からないけど、まずは、
「能力主義」の観点で解析してみたいと思う。
能力主義。
これを聞いて、何を感じます?
自分は最高の状態であり、行き着く先は、完璧主義で、効率よく、サクサクと
スピーディーに「そつなくこなす」という
「能力主義」には、憧れの状態のイメージがある。
だから、いまだに、AIのような完璧な人間になりたい、という欲望が
無意識にある。
なので、完璧主義なので、何かを喋った後に、こんな言葉が自分にささやく。
(今、言ったことは間違ってないだろうか・・・・。)
何かを喋ったことだけじゃなく、何かを行動した後にもこんなフレーズが
脳裏をかすめる。
(今、やった行動って、間違ってなかったかな。。。。汗)
究極言っちゃうと、喋ってなくても、行動してなくても、
朝、ぱっと目が覚めた瞬間に、
(自分の存在は、間違ってないだろうか・・・・。。)と自問自答を
繰り返してしまう。
もう、自分という自我を認識した瞬間に、もう、間違ってないか?をクエッションする
ってことは、その大前提には、
私は間違った存在だ、というアイデンティティー(自分で自分をどう思うのか?)
の確認作業になってしまう。
なんてこったい!
なんて、滑稽だぃっ!
自分の存在を無意識深くから、もうすでに、「間違った存在」と決めつけてやがるぜ!
ったく、本当に、もうーーっ!
正しい、間違い、ってあるのかよー!っと無意識の自分の思い込みを、ひろゆき、ばりに
論破したくなってくる。
けど、無意識に勝手に、オートで、そう思っちゃうから仕方がない。
(ある意味、これは、熱いヤカンを触って、あちっ!と手を引っ込める整理現象的なレベルの
思い込みだから、どーしようもない。。と思いがち。)
■さらに、さらに、恐ろしいことに(涙)
能力主義については、ざっと説明したけど、実は、能力主義で突き抜けて
行き切ってしまえばいいけど、
そうは問屋が卸さない。
ゴムをびーーーっ、と伸ばしたら、引っ張った分だけ、ばちんっ!と伸縮して
もとに戻るように、能力主義とは対照的に、真逆なイメージも同時にあることに
気づき、愕然としてしまう。
それが、末っ子の甘えん坊キャラを演じてしまう。
そんな真逆なイメージ、対照的な無意識の叫び。
どういうことかというと、自分は、何かお金持ちになろうとして
お金を稼ぎ始めるが、
儲けそうになると、それをわざと、STOPしてしまう。
え?
せっかく、お金儲けできそうなのに、なんで、わざわざ。。バカじゃないのか、こいつは!と
思うのも分かるけど、
分かるけど、しゃーない。
自分の意識を司る無意識が「そーしなさい。」と引っ張るのだから。
じゃぁ、具体的に、どうなるかというと、
月々、権利収入で、10万円は確実に稼げる状況を作ったとしても、
意識化では、
楽してお金を稼ぐのは申し訳ないな、という罪悪感に駆られる。
かられまくって、カラカラしてしまう。
そして、ネット上で英語教材を販売してて売り上げも順調に上がっていく中で、
販売を打ち切りにしてしまう。
うわ!もったいねー!って声が聞こえてきそうですが、しゃーない。無意識の叫びが
「そうしなさい。」と言っているので。(号泣
お金儲けするぜ!っていう高さの能力主義をバンバン発揮しようとし、億万長者になるぜ!って
イキリ撒いていても、
ゴムが伸び切って、それが伸縮するように、わざと、お金儲けができないように、足を引っ張る。
そう。
つまりは、自分は、貧乏で、惨めで、情けなくて、哀れない私なんだ、という演技をする。
しちゃう!
なんで、そんなことをしちゃうのかというと、
中途半端な末っ子甘えん坊のキャラを、一瞬でも味わった、飴玉があるので、それを演じてしまう。
そう。
母親に愛情をもらうために、母親に「大丈夫?」と心配され、注目され、愛されるためには、
わざと、
自分が惨めて、情けなくて、できない、どーしようもない構ってもらう状況を作り出さないと
いけないのだ!
のだ!とか言っているけど、この演技は意識化じゃなく、無意識にやっちゃうから、やっかいであり、自分の人生を破壊的なまでに、翻弄する。
よく、自己啓発などで、自分の人生は思い通りになる、とは言っているけど、
確かにそうだが、無意識に思っている通りになることは、なる、けど、それを自覚するのが
超、スーパー、ミラクル難しいっ!
無意識に自分の思った通りになる人生って頭で分かっていても、その無意識を自覚し、その無意識を
変化させる方法は、
おそらく、この世界には1つもない、と思っている。
(たった1つだけあった。それは最後に紹介します。)
ちょっと、ごちゃごちゃ整理ができなくなってしまったので、プチまとめを
したいと思う。
■プチまとめ
真ん中っ子は、上(リーダーのような頼られるポジション)にもなれず、下(甘えられる、愛情を一身に受けるポジション)にもなれないので、
中途半端になり、ポジションがないので、強烈な不安定にさいなまれる。
そのために、自分のポジションを獲得するために、注目されるために、自分の能力を発揮して、
認めてもらうという兄貴的な
「できる俺」に向かうため、能力が磨かれて、とても能力が高くなる。
けど、けど。
けども、弟的な甘えん坊な甘い蜜というか、幼少期に飴玉の愛情を知っているので、
甘えん坊のキャラも同時に演じてしまう。
それが、母親の愛情をもらうために、自分だったら、
悲惨で、惨めで、情けなくて、こんなに困ってるんだぞ自分は、という構ってもらう、注目を集める、愛情をもらうポジションを演じてしまう。
ちなみに自分のエピソードとしては、悲惨な自分を演技するために、
わざと、正月に家族で集まった時に、お寿司の丸々っとした団子のような「わさび」を
お団子と「わざと間違えて」口いっぱいに、ほうばり、
物凄い顔をして、ペッと、口から吐くようなそぶりを見せて、家族一同から「大丈夫?」と、半分心配し、半分笑われるという演技をした。
または、観覧車に乗った時に、一番高いところにきた時に、全然怖くないので、怖いフリをして
ギャンギャン大泣きをした、という思い出もある。
(小さいながらも、戦略的に、母親の愛情もらうために、したたかにやっているなぁ、と改めて思う。)
なので、こういったことからも、子供が泣いたり、何か両親を心配させたりする行動は、
周りに家族がいるのを確認してから、しめしめ、と、本当は、したたり顔をして決行するのだ!
子供は、たった1人で、周りに誰もいなくなると、泣き止むのは、その理由。。。
(子供、って結構、賢いっ!)
■能力主義と、甘えん坊主義の対立構造
今まで解析したように、能力主義で、高さの幸せをゴムで「びーーーーっ」と伸ばすように
引っ張る力と、
甘えん坊主義で、そのひっぱったゴムをもとに戻す力と、両方の力が同時に
働いているので、
まるで、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような、
まったくの効率悪い動きをしている。
そう、そんな無駄な動きをしているのが、私、豊ちゃんの人生、そのもの。
である。
と完結したいところだけど、実は、これは内容は違えども、人間が共通に持っている
生きる、という人生そのものの仕組みにもなる。
そう仕組み。
仕組みであり、人間共通の幸せになれない原因でもあり、人類800万年間、争い、摩擦、衝突、戦争が終わらない根本原因でもある。
じゃぁ、その根本原因とは一体なんなのか?
それが、因果、カルマ、生まれ変わり、死んで、生きて、死んで、生きて、という
謎のグルグルでもあり、メビウスの輪のように、
矛盾した繰り返されるループであり、
人間がいまだに真理が分からず、人間とは何か?も分からず、なぜ、生まれて、なぜ死ぬのか?
その原理、原則も知らず、ただ、プラス思考に幸せになろう、という薄っぺらい
自己啓発や、仲良しこよし主義に翻弄されている実態がある。
実は、人間という自我というエゴは、この世界、この宇宙とつながっているにも関わらずに、
頭、手、足、皮膚の内側が自分という、個体として存在して、個体として
他の存在の影響もなく、
自分で自立して生きていると思い込んでいるし、
思い込まされている。
それが300年前から、自分と他人を分けて、自分というエゴを自我を膨らませるという
教育が出発になって、誰も、自分とは?自分という形を作っている人間とは?
という問いすらも起きない教育によって、人間は、露頭に迷って、ずっと、苦しみ、悩み、悲しみ、
人と人が分かり合えない恐怖、不安から、
ずっと戦争をし続けている人類史がある。
それを突破できるのが、自分を超えた自我(エゴ)じゃない、本当の自分に出会い、本当の自分は
なんのために、
人間という存在を作り、何をしようとしているのか?
その目的、意図、宇宙の仕組みを知ることで、因果(カルマ)から、脱出可能になる。
■まとめ
プチまとめがあったあとで、本チャンのまとめになりますが、
自分の場合は、能力主義で完璧にやりこなすAIのような人生が最高であり、それが正しいという
思い込みがあり、
そのAIになりたいという欲求は、自分のポジションがないという恐怖、不安から出発していることが
実感レベルで、腹落ちした。
なので、問題は、自分のポジションがないという恐怖、不安になってしまう。
その仕組みを知ることであり、なぜ、自分のポジションがない、つまりはアイデンティティーがないという不安を自ら作り出してしまったのか?
その不安になるメカニズム、恐怖してしまう仕組みを、本当の自分という真理に出会うことで、
よくよくみえてきて、それ自体が、
因果(カルマ)から抜け出て、自由になっている開放感に満たされている。
なので、ポジションがないという恐怖、不安から、能力主義に走る自分が❌、悪いじゃなくて、
そこに掴まれている、その選択をしているね、と客観的に仕組みで整理できることが
重要になる。
それが、同時に、ポジションがない私という恐怖、不安が、愛情をもらい安定しようとし、
悲惨、残獄、みじめな私を演じて、愛情をもらう、構ってもらうという行動パターンをしている。
という重畳現象のように、2つが同時のパターンで発動していることを理解した上で、
能力主義に走ってもいいし、甘えっ子主義にも発してもいい。
もちろん、この仕組みを理解することで、今後は、無能な自分を選択もできるし、甘え0の甘ったれない自分も選択もできる。
(※正し、今までにない習慣化は、繰り返し習慣化する必要はある。右利きの人が、急に左手で箸をもってご飯を食べるのが、難しいように。)
それでは、ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
人間が因果、カルマ、人類800万年間繰り返してきた、苦しみ、悲しみ、悩み、絶望から
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。