大宰府と言えば、菅原道真公( ☆∀☆) | とひよ記

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寺社仏閣を中心に参拝、訪問した日記です。


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ブログはおサボりですが、寺社参拝はガンバっておりますアセアセ

 
福岡県太宰府市にある「大宰府天満宮」。
こちらは皆様もご存じの、平安時代の貴族:菅原道真公をお祀りする神社で、学問の神様として広く知られています。

 この日は、仕事YouTuberの取材も兼ねて、この菅原道真公が、右大臣から大宰府へ左遷された際の生活に縁の有る地を訪ねましたニコニコ

 

先ずはこちら、榎社(えのきしゃ、別称:榎寺)です。
 
 
こちら榎社は太宰府天満宮境内飛地にある神社で、菅原道真公が901年(昌泰4年・延喜元年)大宰府に左遷されてから903年(延喜3年)に逝去するまで住居としていた場所で、当時は「府の南館」とよばれた大宰府政庁の官舎でした。
 
菅原道真公はこの地で命の危険に会いながら、謹慎生活をおくっておられたのでした。
 
ちなみに菅原道真公が大宰府に着任されたときには、この官舎は使用されていなかったため、井戸をさらい直し、軒を修理してやっと雨露をしのげる程のあばら屋だったと伝えられています。
 
菅原道真公がお亡くなりになると、次々と天変地異や罪に陥れて左遷に関わった者が亡くなるなど、祟りと恐れられる事態が発生し、菅原道真公の霊を弔うために浄妙院というお寺を建立したのが始まりで、境内に榎の大樹があったのでいつしか榎寺(えのきでら)と呼ばれるようになったそうです。
 
現在、その榎の大木は道路拡張の為に境内中ほどに移植されていましたが、堂々たる姿を見る事ができます。
 
境内には、いくつかの社がございます。
榎社殿のすぐ裏に、浄妙尼社という境内社がございます。
 
菅原道真公が刺客に襲われた際、近くの家に逃げ込みました。その家にはおばあさんが暮らしていて、自分が咎められることも顧みず道真公をかくまいます。
刺客からの難を逃れた後もこっそりと菅原道真の住まいに行っては、不自由な暮らしをする道真のお世話をされたそうです。その際、麹で作った飯を梅の枝に添えて差し入れたものが、梅ヶ枝餅の始まりとされています。
 
菅原道真公の生涯の恩人ともいえるこのおばあさんは、  後に「もろ尼御前(浄妙尼・じょうみょうに)」とよばれ、人々に敬われました。
こちらのお社:浄妙尼社は、そのおばあさんを祀る境内社です。
 
その「梅」、天満宮の紋章にもなっており、左遷される道真公を思い、京都の旧邸宅で栽培されていた梅が一夜にして大宰府へ飛んで来た「飛梅」伝説があったり、実際にその飛梅とされる梅が大宰府天満宮の拝殿近くに鎮座していたりと、天神様(菅原道真公)と縁深い伝説ですが、実はその「飛梅」に原木が存在しています。
これがこちらです!
 
 
「飛梅」の由来は、菅原道真公の恩寵(おんちょう)にあずかった伊勢神宮の神官が、道真公を慕って大宰府に西下りする途中、都の旧邸宅より、道真公遺愛の紅梅を根分けして携え、「南館」の庭先に植えたと伝えられています。
この原木はそのあかしとして、幾世代もこの地に植え継がれたそうです。(掲示板より)
 
榎社境内に戻りますが、供養塔がおひとつございます。
 
 
道真公は大宰府へ転勤する際に、隈麿と紅姫という幼子を連れて行くことを許され、体調の悪い奥方を残して大宰府へ着任したそうです。
しかし、大宰府の地に移って僅かで隈麿が無くなり、その後奥方も他界され、その数日後に道真公自身も亡くなることに。
残された幼子の紅姫は長兄を頼って大宰府を出るも、藤原氏が仕向けた追手にかかり非業の最後を遂げます。その悲運を憐れんで、こちらの紅姫供養塔が作られました。
隈麿供養塔も榎社から歩ける距離にございますので、合わせて訪れるのも良いと思います。
 
大宰府へやって来てからの菅原道真公は悲運の一途でしたが、お亡くなりになった後に政治や学術での功績を称えられ、現在は学問の神様として親しまれる存在になったのでした。
 

動画でもまとめてみましたウインク

 

菅原道真公の晩年、九州での生活の逸話は、本当に虐げられていた話題ばかりですえーん

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