「なんか、うわごとみたいの言ってたな。いや、あんときは中まで入れてもらえなかったんだ。シゲ兄さんが看病っていうか、横になってるボスの顔を雑誌で扇いでてね。俺たちには『濡れタオルとか持ってきてくれ』って言ってきたんだ。
ボスはネクタイゆるめてシャツのボタンも外してた。なにか小さな声で言ってんだよ。きっと、シゲ兄さんは聞いてたと思うんだけどね。俺たちはその断片しか聞けなかったんだ」
子供はカラフルな車のオモチャを咥えはじめた。まるでしゃぶっていれば味が出てくるかのようにだ。
「なんて言ってた? 断片だけでいい。聴かせてよ」
「ええと、『落ちる』って言ってたな。それは、はっきり聞こえた。あと、康夫は『結膜』とか『角膜』とか聞こえたって言ってた。あいつ、『ボスは目が悪くなったってことですかね?』なんて訊いてきたから、それは憶えてる。ま、あいつもあんなことになっちゃったから、もう話も聴けないけどね」
僕が「ヤッちゃん」と呼んでいた『なんとなく康夫』は、これを書いてる時点から四年前に亡くなっていた。ずっと糖尿病に悩まされていた彼は引退したも同然になっていて、自宅マンションで白骨死体となったのを発見された。
「それは、『結末』じゃないかな? 父さんは自分の『結末』がどうなるかわかったんだ。その舞台の上で知ったんだよ」
僕は呟くように言っていた。声がうまく出なかったのだ。
「ああ、『結末』か。その方がしっくりくるな。『結膜』じゃ意味がわからないもんな。――いや、だけど、ボン、それもおかしいんじゃないか。あの時点でそんなの知ってるわけがない。ボスが死んだのはまだ先、あれがあってから一年以上も後のことだぜ」
僕は頭を激しく振った。
「ボン、どうしたんだよ」
「いや、なんでもない」
額に手をおき、僕は馬鹿げた考えを消しこもうとした。
父さんが見ていたのは井田隆徳だったのではないかと考えていたのだ。死んだはずの魔術師が目の前にあらわれ、父さんは自らの物語がどのように終わりを迎えるか知った――いや、実に馬鹿げた考えだ。
しかし、だったら父さんはなにを見ていたのだろう? 言葉を失い、呆然と立ち尽くすほどに。
オモチャを床に叩きつけ、子供が突然激しく泣きだした。僕は鋭く顔を向けた。子供は僕かその背後を見ながら泣いていた。
「どうしたんだよ。なあ、いったいどうしたっていうんだ?」
ゴンちゃんはその背中を擦りだした。子供は一度逆側を向いたけど、すぐに僕がいる方を見て、さらに激しく泣いた。
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