会計を済ませ(レアなクレジットカードの登場というわけだ)、僕たちはエレベーターで地上まで降りた。雨はまだ降っていた。篠崎カミラはタクシーで帰ると言った。まあ、荷物の多さを考えればそうせざるをえないだろう。
「あっ、あの、と、途中まで、い、い、一緒に、の、乗って、い、いきませんか?」
篠崎カミラはそう言ってきた。僕は「それにはおよばない」とこたえた。一緒に帰るのが嫌というわけではなかった。ただ、一人になりたかったのだ。一人でじっくりと考えたかった。タクシーがドアを開けた。篠崎カミラは大量の荷物を先に入れた。僕は一段高いところに立っていた。それでも彼女の顔は僕の胸辺りにあった。
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「あっ、あの、」
「なに?」
「そ、その、ほ、本日は、い、いろいろと、あ、ありがとう、ごっ、ございました」
「いいよ、そんなの。それに、もとはといえばこれは昨日の礼だ。ま、美味いもんも食わせてもらったしね」
すこしのあいだ篠崎カミラはうつむいた。僕もつられて同じようにした。後ろにはタクシーを待つ客が並んでいた。
「ほら、早く乗れよ。あとがつかえてる」
ふっと首をあげ、篠崎カミラは僕の立っている段に足をかけた。顔には真剣そうな表情が浮かんでいた。そのまま僕の右頬に顔を寄せてきた。
「お家に戻ったら肩を見てください。左肩です」
囁くように彼女は言った。まったくどもらずにだ。
「は?」
「でも、大丈夫です。怖れることはありません。佐々木さんは守られています。私が守ってみせます」
マジかよ――と僕は思った。まあ、当然の反応だろう。なんで帰り際に地雷を仕掛けるようなことをする。こうやってじわじわと脅迫するつもりか? どうにもこうにもセックスしなけりゃならない状況に追いこもうってわけか? そう思いながら僕は雨の中へ消えていくタクシーを見送った。
帰りの電車でも僕は左肩をじっと見つめていた。トイレにでも入って見てやろうかと思いもしたけれど、それはそれで怖いからやめておいた。僕は雨が降る中を肩を気にしながら歩いた。街灯はマンションにたどりつくまで消えたりしなかった。まあ、そっちの方があたりまえではあるけれど、ビクビクしながら細い道を進むことになった。
あらかた片づけの済んだ部屋に入って僕がまずしたのは洗面台の前に立つことだった。それから思い直し、テレビをつけた。ボリュームを上げ、賑やかさを演出した。その上ですべての部屋の明かりをつけた。満を持して僕はワイシャツを脱ぎ、アンダーシャツを捲った。
「かんべんしてくれよ」
僕はそう呟くことになった。左肩には後ろから手をかけられたかのような痕がついていた。それは赤黒く濁った痣みたいにもみえた。「怖れることはない」なんて言われたって、これは怖いだろう。僕は鞄からスマホを取りだし、暗くなっている画面を見つめた。ボタンを押すとラインに幾件かメッセージが来てるのがわかった(きっと小林からのに違いない)。僕はしばらくそのまま悩み、しかし、スマホをベッドに放った。篠崎カミラに説明を求めでもしたら、さらにドツボに嵌まりそうな気がする。意味不明なことの解明ができたとしたって、その代償が大きすぎる。
守られてるはずだ――僕はそう思うようにした。守護霊様ってのもいるわけだし、いますぐ最悪な事態にはならないだろう。信じるより他はない。そう考えてる時点で篠崎カミラの手中に落ちこんでいるようにも思えたけど、しょうがない。なにしろこれは僕にとって管轄外の出来事なのだ。
半目を開けたままで髪を洗い、歯を磨くときも鏡の前に立たないようにして僕はその恐怖をやり過ごすことにした。どうしようもなくなったら電話をすればいい。母親であり、『先生』でもある人物だっていることだしな。そう考えながら僕は明るい部屋でテレビの声を聞きつつ眠りについた。
※明日からすこしだけ『見える人』はお休みします。

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