夜になり、窓の外が暗くなると彼女は買い物に出た。どうしてそうしてるのかはわからなかった。ただ、誰のものであれ視線を感じるとそれだけで疲れた。すべての人が私を見てる。私のことを話してる――そう感じることがあった。美以子は胸に手をあて呼吸を整えようとした。吸うべきなのか吐くべきなのかもわからなく、しばらく立ちすくむこともあった。
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実穂から電話のあった幾日か後、街灯が照らす細い道で美以子はなにかを怖れた。誰かが背後から近づいてくるようだった。立ちどまり、振り向いても人はいなく、美以子は首を弱く振った。しかし、バッグを抱くようにして持ち、道の端を歩くようにした。糸のような月が行く先の空にあった。雲は目まぐるしくかたちを変え、鈍い月の光がそれをまだらな青にみせていた。美以子はふたたび立ちどまった。ギチギチギチという音が聞こえたように思えたのだ。彼女はゆっくり振り返った。その者は確かにいた。電柱の影に潜み、自分をじっと見つめていた。
美以子は首を伸ばして電柱の向こう側を覗こうとした。マンションから若い夫婦が出てきて、怪訝そうに見ながら立ち去っていった。その視線を気にして美以子は歩きだした。背後にいる者が動きだしたのもわかった。私はあなたを知ってる――美以子はそう思いながら足早に進んだ。子供の頃からあなたは私のすぐ近くにいた。そして、じっと見つめていた。あなたが私を間違った方へ導こうとしてるのも知ってる。だけど、なぜ? どうしてそんなことをするの? あなたは誰? なんで私につきまとうの?
部屋に着いたときには全身に汗をかいているのがわかった。美以子は鍵をかけてからドアに耳をあてた。くぐもってはいるけれど、ギチギチギチという音は聞こえていた。その者はまだ近くにいるのだ。美以子は暗い部屋の中を走り、ベッドルームへ行くとタオルケットに包まって身体を震わせた。
――助けて欲しい。周くん、強士くん、助けて。私を助けて。
◇
会場は暗くなり、大きな扉にだけライトがあたっていた。司会者が高らかに声をあげると美以子は鍵盤を叩きだした。拍手が巻き起こり、スモークが焚かれ、その中から周と実穂があらわれた。強士はあてがわれた席からそれを見ていた。周はシルバーグレーのタキシードを着て立派な新郎を演じていた。実穂は扉が開く前から泣いていたようで、会添人に渡されたハンカチで目許をおさえていた。彼女にとっても美以子が弾くピアノの音は、ある意味、心を揺さぶるものだったのだ。
新郎新婦が席につくと、美以子は強士の隣に座った。会場は広く、人も多かった。すべての者が高いところにいる二人を見つめていた。まるで見世物だな――と強士は思っていた。観衆はこれからどのようなものを見せられるか知っている。すべては予定されたことなのだ。
「強士くん、また真顔になってる。笑顔よ、笑顔」
美以子が小声でそう言ってきた。
「ああ」
「スピーチするんでしょ? そんな顔でしたら駄目よ。それとも緊張してるの?」
薄いブルーのドレスを着た美以子は背筋を伸ばして椅子に浅く座っていた。強士はその顔を見て、目を細めた。
「どうしたの?」
「いや。美以子、さすがだな。よかったよ、ピアノ」
「ありがとう。でも、ちょっとだけ間違っちゃったわ。強士くんにはわかったでしょ? ほら、終わりの方で音を飛ばしちゃったの」
強士はしばらく美以子を見つめていた。美以子の目つきはいつか見たのと一緒だった。ただ、いつのものか思い出せなかった。強士は肩をすくめさせ、正面を向いた。
結婚式は誰のものであってもさほど変わらない。仲人の挨拶があり、上司のスピーチがあり、キャンドルサービスがあった。周と実穂は二人の座るテーブルにもやって来た。中央にある蝋燭に火をともし、恥ずかしそうに笑った。強士と美以子は拍手をしながら周の顔を見つめていた。
「周くんも緊張してたみたいね。あんな顔してるのはじめて見た気がする」
美以子はそう言ってきた。
「そうか? 余裕があるようにみえたけどな。周は演じるのが上手だ」
「演じる? 強士くん、そういう言い方はあまりよくないわよ。周くんは精一杯やってるんだから」
強士は目許をゆるませた。新郎新婦は会場から出ていった。お色直しをするようだった。
「なんで笑うの?」
「いや。美以子に叱られるのも久しぶりだと思ってさ。昔よく言われたもんな。『もうちょっと笑って』とか『もうちょっと話しなさい』って」
「さっきも言ったわ。ほら、顔がまた硬くなってる。もうちょっとわかりやすく笑った方がいい。強士くんの顔は怖いんだから」
顔を手で覆い、強士は昔したように表情を整えさせた。それを見て、美以子は笑った。
「うん、それでいい。自然な笑顔になってる」

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