チェギョンは震える体をぎゅっと抱きしめた。
ここから逃げ出すことが出来たら、どんなにかいいだろう。
結婚式の日の夜もそうだった。
でも、あの時のほうが実際は良かったのかもしれない。夫のことを何も知らなかったから。
この1か月でチェギョンはシンのことを沢山知った。
今まで兄のユルの陰に隠れていたシンが、実はジャックに負けず劣らず賢い王太子であると分かった。本当の彼は、ユルより数段優秀なのではないだろういか。
ユルがどこか人を見下したような態度をそこはかとなく漂わせていたのに比べて、シンはどこまでも控えめだ。周囲に気を配り、けして無理難題は言わない。むしろ自分を抑えてまでも、周りを立てるようなことさえある。
それでいて、事柄を熟知しているようだった。
チェギョンの目から見ても、ユルは側近たちの意見をそのまま取り入れていたようだったが、シンは違う。
彼は、明らかに“彼自身の脳みそで”判断しているのだ。
明るく闊達で、人に平等で、それでいてとびきりのハンサムな夫。
チェギョンの誓いと裏腹に、無意識にシンの姿を目で追ってしまう自分が居た。
そんな自分に気づくと、チェギョンはひどい後悔に悩まされた。自分が汚らわしい低劣な人間のように感じる。
少しばかり素敵な面を持っていたとしても、彼は自分に最低なプロポーズをしたのだ。そう、まるでチェギョンのことを感情の無い「物」のように扱ったのだから。
知らなければよかった。彼の優れた点など。
もし、彼とのベッドが素晴らしかったら、どうしたらいいだろうか。夫を恨み続けることができるのだろうか。
チェギョンの物思いは、二人の寝室を繋ぐドアが開く音でかき消された。
あの時のようだ。いや、むしろ、もっと打ちひしがれている。
シンは内心苦笑した。チェギョンはきっと嬉しそうな顔はしていないだろうと思っていたが、自分が想像する以上に悲壮感が漂っているではないか。
部屋に足を踏み入れた瞬間、暖炉の前に座り込んでいた妻が、ハッと立ち上がり後ろに逃げるように下がったのだ。両手はガウンの袷を硬く掴んでいる。
一歩一歩近づくと、彼女はそのたびごとに体を硬くしているようだ。
「チェギョン」
すぐ目の前に立つと、妻の薄茶色の瞳を覗きこんだ。人差し指で顎の下を押し上げ見つめると、チェギョンの睫毛にアクアマリンのような水滴がついていることに気づいた。
妻は泣くほど、自分と肌を重ねることが嫌なのだろうか。
シンは自分が傷ついたことに驚いた。
これまで、女性に拒絶されたことはないが、例え拒絶されたとしても、痛くもかゆくもないだろう。相手にどう思われようと、自分が傷つくことなどあり合えない。
何故なら、相手に想いを寄せることなどなかったからだ。
―――-じゃあ、何故チェギョンの涙にこれほど胸が痛むんだ?
シンは頭を軽く振った。
相手が『妻』だからだ。
そうだ、『チェギョン』だから傷ついたのではない。
―――今は、妻をその気にさせるんだ。
シンは首を傾け、震えるチェギョンの唇にそっと自分のそれを重ねた。
驚くべきことに、彼女はキスも初めてのようだ。その証拠にキスの仕方をまるっきり知らない。口を固く閉ざしなされるがままでいる。
その事実はどういうわけか彼の心に一抹の幸福感を運んできた。彼女が誰のものでもなく、自分だけのチェギョンだという事実。
思いがけず優しいキスにチェギョンはほっとした。重なってくる唇は、ゆっくりと下唇の端から端まで、なぞるように動いていく。緊張していた体から、力が抜けていく。
夫の大きな手が腰を掴みぐっと体を寄せられ、頬を掴まれた指が口を開けるように促してきた。彼女はおずおずと口を開けた。その途端、滑るように彼の舌が侵入して彼女のそれに絡みついてくる。
優しく絡みつかれ、吸われ、チェギョンの頭は霧がかかったようにぼんやりとして、体の方はぐにゃりと倒れそうになる。
夫の逞しい腕を掴むと、倒れかかった体がどうにかそのままの姿勢を保った。
それにしても、キスがこんなにも蕩けるようだとは、思いもよらなかった。
夢中になっていると、いつの間にか夫の唇は口の端から顎を上り、耳たぶに到達している。優しく耳朶を噛まれ、チェギョンは堪えきれなかった小さなため息を吐いた。
ふぅと熱い息を耳の中に吹き込まれた時、チェギョンの体中が痺れた。
―――私、どうしたの?
夫の息が体に魔法をかけたようだ。
自分の体なのに、まるでいう事を聞かない。そればかりか、彼の硬い体にしがみつくように抱き付いている。
気づくと夫が少しずつ自分を後ろに押している。
一歩一歩押されるままに下がると、膝の裏がベッドのマットレスにぶつかった。
「怖いことはしない。約束する」
シンはとろんとした目で自分を見つめる、チェギョンの緩く編まれた髪をほどいた。ふんわりと広がる長い髪。ふっくらした頬を撫でながら、ゆっくりとマットレスに押し倒していくと、彼女は大人しくマットレスに背を預けた。
これは『王太子夫妻の義務』だと、言い聞かせたはずだ。もしかして、妻に欲情できなかったら、と一抹の不安がなかったわけでもない。何しろ、妻は自分のことを避けているようなのだから。
ところが、それは杞憂だった。
チェギョンは美しい。そして、魅力的だ。
ラベンダー色のナイトドレスに身を包んだ彼女は、最初こそぎこちなかったが、キスを深めるほどに、積極的に絡み合ってきた。
無垢な彼女の決して上手とは言えないキスに、自分がこれほど反応してしまうとは意外だ。
シンは苦笑した。この目で見なくとも、自分の分身が痛いほど大きく昂ぶっているのが分かる。今すぐに妻の中に入り、優しく包み込まれたい欲求をどうにか脇に置き、チェギョンの小さく開いた唇に自分のそれを重ねる。
――――落ち着くんだ、シン。
チェギョンは初めての夜なのだ。不快な思いをさせたくない。
ここから先は、Amebaだとはじかれてしまうので、こちらから続きをどうぞ。