チェギョン14歳の時のことをシンは話し始めた。

「あのとき、チェギョンは『発表会に出るのが嫌だな』ってしょっちゅう嘆いただろ?」
「そう言えばそうね」
妻が思い出したのだろう、微笑んだ。
「あの発表会は、どうしても納得できるだけの演奏ができなかったの。練習が足りなかったから」
「難しいって言ってたしね」
「難易度が高い曲を選んだからかな」
チェギョンは今でもバレエやらクラッシックのリサイタルやらが好きだ。そのために、シンはホールのオーナーであることを利用して、よくチケットを手に入れてやっている。

「大人になりたかったのかなぁ。先生が見せてくれた候補の曲が、子どもっぽく感じたの」
シンの胸に手を当てて頬を寄せているチェギョンが、彼の胸を撫でながらつぶやいた。再び欲望に火がつきそうになる。

「そしたら、シン君が『当日、ブーケを贈るよ』って言ってくれたのね」
「よく覚えていたな」
「うん、だって嬉しかったから」
毎年、チェギョンの発表会には顔を出していた。弟のユルは、だんだん足が遠のいていたが、シンは必ず聴きに行った。ひとつは、彼女の晴れ舞台を観たいから。もう一つは、彼女がすこしでも緊張を和らげてくれるといいと思ったから。
そして―――

「可愛いドレスだったね」
「えー?ドレス?…まさか?シン君は全部のドレスを覚えてるの?」
がばっと起き上った妻が、驚いた顔でシンを見下ろしてきた。
「覚えてるよ。僕がチェギョンの事で忘れるなんてあるわけがないだろう?」
白い頬を撫でる。チェギョンのドレス姿を見たかったと言ったら、笑われてしまうだろうか。毎年少しずつ大人びていく彼女のドレス姿を、シンは楽しみにしていた。まだ見ぬ未来の花嫁姿を想像するのが、楽しかったのだ。その隣に立つ幸福な花婿が、自分だったらいいと儚い夢を抱いていた。
「シン君…」


あの日、チェギョンが身につけたドレスは、真っ白なドレスだった。まるでウェディングドレスのような。ウエストのリボンはパールピンクで、ほんのりと付けたリップと同じ色だった。

「演奏前にチェギョンの顔を見に行ったとき、僕は自分を抑えるのに必死だった。君があまりにも輝いて見えて…そして、花嫁のように見えたからだ」
「大学生のシン君がわざわざ来てくれて嬉しかったのを覚えてる。だって、ユル君は来なかったでしょ」
「そうだな。でも僕は、ユルが来なくてよかったって思ったよ。チェギョンの可愛い姿を誰にも見せたくなかったから」
チェギョンが笑った。
「しん君ってば、昔から独占欲が強かったのね」
「チェギョンに関してはそうだ」

演奏はそつなく終わった。舞台でブーケを渡したとき、シンはそっとチェギョンの頬にキスをした。どうにもこうにも自分を抑え切れず、無意識にしてしまったのだ。
あの時、チェギョンははにかんで、それでもいつものように「シンお兄様、ありがとう」と答えた。

「兄だと思い知らされて、ガツンとされた気分だったな」
「ごめんね」
チェギョンが申し訳なさそうに眉を下げた。
「いいんだ。それでも僕は、心のどこかで満足していた。『いつか必ず』と闘志も抱いたよ」
あの時からだろう。たった14歳の彼女の白いドレス姿を見て、どうしてもチェギョンが欲しくなったと感じたなど、誰にも言えない秘密だった。

けれども、今のチェギョンにならその秘密を話しても大丈夫だろう。


シンは二人の体を反転させ、彼女の背をマットレスに押し付けた。枕に広がるはちみつ色の髪。
それを指に絡めながら、彼はそっと妻に口づけた。

「―――あの日僕は誓った。チェギョンを僕のチェギョンにしようと。ハードルは沢山あったし、最大はチェギョンだ。君は…僕のことを、単なる幼馴染だと思っていたから」
「シン君…」
チェギョンの細い手がシンの頬を撫でた。彼は彼女の手を取ると、手のひらを自分の唇に押し当てた。

「夢がかなったよ」
「私、幸せよ」
チェギョンが微笑みながら言ってくれた。無理矢理奪うように結婚してしまったというのに、こうして『幸せだ』と答えてくれる。
「ありがとう…。僕こそ幸せだ」
「あの日、こんな風に弾けたらよかったのにな」
流れているBGMを指しているのだと、シンは気づいた。
「プロの演奏よりも、チェギョンの演奏の方が好きだよ」
「夫のひいき目よ、それは」
シンは二人の唇を触れさせた。そして微笑む。
「そうだね。世界中で僕だけだろうな。でも…“夫のひいき目”ができるのは、僕だけの特権だ―――」
チェギョンから甘い声を引き出しながら、シンは、あの日からずっと想い続けていた願いが叶った喜びを、噛みしめていた。





*****






ふふふふ


「なんだよ。思い出し笑いなんてして」
バンブス家に集まり、家族一同でBBQをする。広い裏庭は昔からチェギョンのお気に入りだった。
木陰に木製のチェアを持ち出し、チェギョンはワインを飲んでいた。気づくと目の前にユルが立っていた。
「いいの。それよりもこのワイン、美味しいね」
「そうだろ?僕のお勧めだよ」
隣のチェアに義弟が座った。
「ふん、兄さんに見とれてたのか」
チェギョンの視線の先を追うと、ユルが鼻で笑った。
「いいでしょ、別に。夫なんだから」
「もちろんさ」
再びワインを口にする。
「思い出し笑いの理由は?」
「何よぉ、覚えてたの?」
チェギョンが睨むと、ユルは澄ました顔をして頷いた。
「……シン君がね、いろいろ昔のことを教えてくれるの。『あの時、こうだったね』って。それって…、“本当に”私のことを想っていてくれなかったら、話せない事でしょう?」
14歳のピアノの発表会のこともそうだ。あの時、自分にとってシンは兄のような存在でしかなかった。まさかその10年近く後に、彼の妻になっているなんて。運命の面白さを噛みしめている。

「兄さんの一途さには、頭下がるよ」
ユルが感心したように言い、
「もっとも、人が運命の人に出逢う瞬間は、人それぞれ違うってことだろうけど」
そう言って、屋敷の方を見つめた。赤ん坊の泣き声で風に乗って聞こえてくる。
「そうね…」
ユルにとって運命の人は、アリアナだったのだろう。
「良かったぁ、シン君が途中であきらめなくて」
「諦めるわけないだろう?あのシン・バンブスだぞ?狙ったターゲットは、時間がかかっても絶対手に入れるんだ。粘り強さが兄さんの強みだ」
「そうなの?」
「そうだ」
ユルが笑う。


「僕の悪口かな?」
ふいに夫の声が聞こえ、チェギョンはふり返った。手にグリルされた食材を載せた皿を持った夫が、悪戯そうに口の端を上げて立っていた。
「美味しそう」
「アリアナを呼んでくるよ」
ユルが立ち、その空いたチェアにシンが座った。
「何の話をしてた?」
「ん?」
グリルされたチキンをフォークに刺していたチェギョンは、顔を上げた。
「内緒」
シンが右の眉毛をグンと上げた。
「僕に言えない事か?」
「そうよ」
彼が不思議そうな顔をした。チェギョンは笑い出す。
「シン君が大好きってことを、ユル君に話してたの」
彼が眼をすがめた。
「疑わないで。本当よ」
チェギョンはシンの唇に可愛らしいキスをした。
「シン君が、ずっとずっと…私の知らない間から見つめていてくれて、嬉しいってユル君に話してたの」
彼が表情を和らげた。
「僕はずっとチェギョンだけだよ」
大きな手がチェギョンの頭を撫でてくれる。
「そうね。私のこと、そんなふうにずっと思ってくれた人って、シン君以外、いないだろうし」
チェギョンの言葉に、彼は答えなかった。







「ゼイン・レイノルズ?」
「ああ、そうだ」
シンはようやく薄暗くなってきた夏の空を見つめる振りをして、呟いた。
開け放れた窓から、夜風が入ってくる。昔から父の書斎は男たちだけのものだった。父に叱られる時は、決まってこの部屋だったし、人生の分岐点で父に相談するときも、この部屋だった。
年代物のソファに各々腰を下ろし、のんびりとブランデーをすする。
この部屋の主である父は、初孫にとりこになっていて好々爺だ。妻たち女性陣と一緒に、居間でユルの赤ん坊の一挙一動にわいわいと盛り上がっている。

「ああ、あの店のオーナーか」
「そうだ」
「まだ、若いのにな。確か僕ぐらいだろう?」
やはりユルも覚えていたらしい。あの若さで一等地のビルに店を出したのだ。弟が目を付けていても当然だろう。

「それが?今は流行のスポットとして人気だよ。客の入りもいいし、有名人たちも来店してる」
シンはムッとしたまま頷いた。
「兄さんが、気になるのは何だ?」
シンは足を組み直した。
「…ゼインは、チェギョンの幼馴染だ」
ユルが眉を上げた。父親似の自分と、母親似のユル。女性受けする弟だけれども、こうした仕草や表情は自分とよく似ている。
「それで?」
「それで?―――気になるだろう。当然だ」
ユルが口の端を上げた。
「確かに気になるね。何で今になってチェギョンの近くにやってきたのか」
シンは一口グラスの中身を飲んだ。全くその通りだ。今まで音信不通とも言っていい状態だったくせに、突然、姿を現したゼイン。
気にならないと言ったらウソになる。大いに気にしている。

「いいよ。僕の部門で調べさせよう」
ユルは調査部の仕事を任せている。その昔シンも携わっていた。
「そうしてくれ」
「分かった。さあ、そろそろ、妻と子供を寝室へ連れて行く時間だな」
滑らかな動きでユルが立ち上がった。
「じゃあ僕は、妻と寛ぐことにしよう」
「フン、“寛ぐ?”もう“ひと運動"の間違いだろう?」
弟の言葉を聞き流し、シンは立ち上がった。

いずれこの屋敷のこの部屋の主になるのだ。まだまだ現役の父だけれども、父が元気なうちに「私は、安心したから退くことにしよう」と言わせたい。


――――まずは、ゼイン・レイノルズと何とかしないと。


書面で見た黒髪の男を思い浮かべた。