「チェギョン、体調でも悪いの?」
ジュリエッタがチェギョンの空になったティーカップに紅茶を注いだ後、心配そうに口を開いた。
「来た時から青白かったわ」
マリーがチェギョンの手を取って、優しく甲を撫でてくれた。
「チェギョンは白い肌にピンク色の頬が魅力的なのよ。そんな青白い顔色って何かあったんでしょ?」
マリーが断言した。

「……マリーとジュリエッタは、シン君の事、知ってるでしょ」
「あら、彼のことを一番知っているのはチェギョンよ。だって妻なんだし」
「それに、幼馴染でしょう?」
二人が交互に言う。どういって説明したらいいだろうか。チェギョンは考え、それからぽつりぽつりと説明することにした。

「あのね、二人は『ポピー・ルイーズ』って女性を知ってるでしょ」
チェギョンがその名を口にすると、二人は一瞬黙った。よくない傾向。チェギョンは力なく微笑んだ。
「いいの、知ってるから」
「チェギョン…昔のことよ」
ジュリエッタが優しく声をかけてくれる。
「ユル君もそう言うから、きっとそうなんだろうと思う」
「『そうなんだと思う』って何?チェギョンはシンが今でもポピーと続いてるって思ってるの?」
マリーは白いローテブルを廻り込んで、チェギョンの隣に腰を下ろした。
きゅっと肩を抱かれる。

「みんなが、『チェギョンが一番シンのことを知ってる』って言うけど。私もそう思って来たの」
小さな頃からシンは身近な男性だった。だからこそ、父親から婚約の話を聞いた時も、二つ返事で「Yes」と答えたのだから。
「でも…今は違う気がする」
チェギョンはポロンと一つ涙をこぼした。

「可哀想に」
マリーがチェギョンの頭を抱いてくれた。
「チェギョン。誰でも過去はあるのよ。シンの今と未来は、チェギョンのモノだもの」
ジュリエッタの言葉に、チェギョンは震える声で答えることにした。
「わ、私も、そう、思うように、ど、努力してる」
努力してるのに、心は勝手だ。頭で必死に納得させようと試みるのに、心が痛い。最近は気づくと胸に手を置いていることが多い。バーバラ夫人が心配そうな視線を向けて来て、ぎこちなく笑って誤魔化す日々。


「ポピーの何が知りたいの?」
ジュリエッタが冷静な声で言う。
「そんなこと、知っても意味がないわっ」
マリーが叫んだ。
「わ、分からない…何が知りたくて、な、何を知りたくないか」
チェギョンは両手を顔に当てると、本格的に泣き出した。

シンは今までと変わりなく、チェギョンを甘えさせ大事にしてくれている。彼女だけでなく、周りの人たちも口をそろえてそういうのだから、彼は相当分かりやすい態度をしてるのだろう。
「何が不満?って自分に聞いてみるけど…」
チェギョンはジュリエッタが出してくれたハンカチで涙をぬぐった。
「二人は笑わない?」
チェギョンはそっと二人を見た。ジュリエッタもマリーも優しく頷いてくれる。チェギョンは息を吸い込むと、覚悟を決めた。とても恥ずかしいけれども、誰かに聞いて欲しかったのも事実だから。
「シン君は…私が初めて男性として好きになった人なの」
ジュリエッタがふんわりと笑い、マリーが肩をポンポンと叩いてくれた。
「だから。だから、誰かに恋するってどういうことか、私には全部が初めてで」
「分かるわ」
マリーが呟いた。
「戸惑っているのね、自分の気持ちに」
ジュリエッタがチェギョンの言いたかった続きを口にしてくれた。

 

「シン君の全部が、私のモノにならないと嫌なの」
二人は呆れた顔をしていなかった。チェギョンはほっとした。
「そ、それで。それで…シン君の過去も、私のモノにしたい」
呆れるほどの独占欲。自分にこんな強い欲望があるとは知らなかった。
「いいのよ、それで」
「恋する乙女はみんなそうなんだから」
マリーがいたずらそうに笑った。それからジュリエッタを見て、
「ジュリエッタの過去の恋人たちの写真は全部破ったし、画像も全部削除したわ」
「そうよ、私の許可なく、ね」
ジュリエッタが幸せそうに笑う。
「じゃあ、私はそう思っていてもいいってこと?」
「もちろんよ」
二人に肯定されて、チェギョンの心は少し軽くなった。こんな厄介な感情はごく普通の事らしい。

「さ、チェギョン。あなたに新しいバッグをプレゼントしたいの。どんなデザインがお好み?ジュリエッタは、私と服のセンスが全然違うから」
マリーが手を広げて肩をすぼめた。チェギョンは笑った。トレンドを強く意識した『尖がったスタイル』が持ち味のマリーのブランドは、確かにどこまでもコンサバなジュリエッタには似合わない。
「籠のバッグが欲しいわ。沢山、ワッペンが付いてるのがいい」
「うん、いいわね。じゃあ、こんなのはどう?」
ソファの脇に置いてったスケッチブックを開き、マリーがスラスラをデザイン画を描きだした。
「お揃いのサンダルと帽子も必要ね」
「可愛いっ」
チェギョンが歓声を上げた時、マリーとジュリエッタが視線を合わせふっと二人で笑った。




*****




「シン君、お疲れ様でした」
シンが両親の家へ行くと、チェギョンが玄関へ迎えに出てきた。今日、彼女はシンの母と出かけていたのだ。息子しかいない母は、チェギョンとアリアナを可愛がっている。アリアナは妊娠しているため、ユルが過保護になっていて
「ユルが付いてくるのですもの。邪魔で仕方ないわ」
と、母が嘆いている。その点チェギョンは、小さな頃からよく知っている仲で、自由の身。
バンブス夫人は暇さえあれば、チェギョンを呼び寄せてあちこち出かけている。


「今日はどこへ出かけたんだ?」
チェギョンが最近路面店がオープンしたブランドを口にした。
「それでね…」
おずおずと後ろで組んでいた腕を前に出してきた。ほっそりとした腕に、パールの4連のブレスレットがはまっている。
「これ、お母さまが買ってくれたの…。いいのかな?」
「似合ってるよ」
「でもぉ、フェイクではなくて、本物のパールなのよ。高価すぎるぅ」
「まさか、バンブスを名乗るチェギョンに、フェイクのブレスレットなんてはめさせるわけにはいかないよ」
シンは笑い飛ばした。

サマーニットの赤いワンピースのチェギョンは、とても可憐だ。
体の線に沿ったニットのワンピースは、スカート部分がフレアーになっていて、彼女が動くたびにユラユラを揺れている。フレンチスリーブも同じニットのレースで可愛らしい。
「そのワンピースにぴったりだ」
「そうでしょう?チェギョンのワンピースにブレスレットがないと、締まりがないわ」
二人でリビングへ足を踏み入れると、バンブス夫人が声をかけてきた。

「私には娘がいないから。チェギョンに贈りたかったのよ」
「お母さま…」
シンは涙ぐんでいる母と妻を見つめ、穏やかな笑みを浮かべた。

「ユルとアリアナは?」
「アリアナ、つわりがピークなんですって」
家族そろって夕食を共にする予定だったけれども、弟夫婦は来ないようだ。
「それは可哀想だな」
「ユル君がつきっきりよ、きっと」
チェギョンが笑う。シンも笑った。
ユル・バンブスと言えば、遊び人の代名詞のような扱いをされていたのに、今では妻一筋だ。
「バンブス家の人間は、本来、愛する人に全てをささげるタイプなんだ」
シンはそう言うと、チェギョンを腕の中に抱き寄せた。
「じゃあ、シン君もそう?」
「当たり前だよ。僕がその最たるものだ。ずっとチェギョン一筋なんだから」
彼の言葉に、ローズが一瞬体を堅くした。
「―――それって、本心?」
彼女が不安そうな目で彼を見つめ、ギュッと彼の腕を掴んできた。
「僕が嘘をつくわけないだろう?」
「う、うん…」
彼女の歯切れの悪い答えに、シンが問いただそうとした時
「シン、チェギョン!そろそろダイニングへ行ってちょうだい」
母の声が聞こえてきた。







夕食は和やかで美味しかった。チェギョンは「お腹がはち切れそう」と言いながら、最後のデザートまでしっかりと食べた。
「今夜はここへ泊ろう」とシンが言いだして、チェギョンも同意した。今から家に帰るのは面倒だった。

泊まるとなると時間を気にせずゆっくりとできる。
「あなたたち、新婚ですからね」とバンブス夫人が、変な気を利かせて、義父母はさっさと自分たちの居間へ下がって行った。
家族用の居間に残された二人は、
「折角だから、庭を散歩しようか」
シンが言いだして、二人で夏の夜を楽しむことにした。


「夜に来たのは初めて」
昔から出入りしていたバンブス家。
「そういえばそうだな」
家族の集まりがあっても、小さなチェギョンはお留守番のことが多かったし、付いて来ても一足先に自宅へ帰されてしまった。年頃になってからは、ボーナムの両親を一緒に来たけれど、庭に出ることはなかったから。

「月が綺麗すぎて、星が見えない」
チェギョンが空を指さした。
「寒くないか?」
ふわりとシンの上着が肩にかけられる。

―――心に隙間風が吹いてるの、シン君…。
嵐のような激しさはないけれども、どこかいつも寒々とした風が心の中を通り抜けていく。

「シン君…ぎゅってして、お願い」
「願ったりだよ」
逞しい腕が彼女の体に回され、広い胸に抱きしめられた。
こうして彼の腕の中にいると、隙間風が吹いても、温かい。

「24時間365日、こうしていられたらいいのに」
「24時間365日、こうしていたいよ」
シンのブルーの瞳は、月夜のせいで黒く見える。
彼の本心だと―――。


「―――信じていいの?」
チェギョンは胸に頬を寄せて呟いた。彼には聞こえなかったのだろう、返事がないから。その代わりに、
「チェギョン…愛してる」
甘い囁きと、温かい唇が彼女を包んだ。