シンが鏡の前で母校の友人たちとの会へ出かけるために、レジメンタルのネクタイ―――もちろん、出身大学の柄(レジメンタル柄は、本来私立大学のスクール柄でフォーマルな場所では着用しない)―――を締めていると、
「―――何時に帰ってくる?」
妻のチェギョンが背後から抱き付いてきた。
細い腕が彼の臍の当たりで組まれた。シンは微笑んだ。鏡の中の自分は、見たこともないほど柔らかな顔だ。最近、オフィスでも穏やかな表情をしているらしく、同僚や部下たちから「角が取れて丸くなった」と年寄り扱いをされている。

「先に寝てなさい。僕は遅くなりそうだ」
「起きて待ってる。何時になってもいいから、待ってる」
チェギョンが言い張る。シンは彼女の白い手をポンポンと叩き、
「待ってるつもりで寝込んでしまうよ。大事なチェギョンが風邪を引いたら、僕は困るな」
「そんなに遅くなるつもりなの?」
チェギョンが脇から顔を出した。シンは笑った。
「僕が学生時代に戻って羽目を外すのかって心配してるのか?」
そう言ってから彼女を顔を見て、シンは笑いをとめた。チェギョンの目が潤んでいたから。

「どうした?」
急いで彼女の細い腕を手繰り寄せ、胸に抱いた。
「……学生時代は、楽しかった?」
チェギョンが小さな声で問いかけてきた。それはとても小さな声で、シンはうっかり聞き逃しそうになった。
「チェギョン?」
「きっと楽しかったのね。だから、いそいそと準備してるんだわ、シン君は」
顔を上げた彼女が、にっこりと笑った。
「私は、まだ大学を卒業したばかりだもん。シン君みたいに“懐かしがる”年齢じゃないわ」
いつものチェギョンらしく、悪戯そうに目を輝かせている。

「チェギョンも一緒に行くか?」
シンはそうしたかった。実際、妻や恋人を連れてくる友人たちは多く、彼が彼女を連れて行っても誰も気に留めないだろう。
チェギョンが首を横に振った。
「ううん、遠慮しておく。シン君の邪魔になりたくないもん」
「邪魔になんかならないさ」
彼の答えにチェギョンが寂し気に微笑んだ。妻のこんな表情はあまり見たことがない。何故だか、胸が締め付けられる。

「シン達ってば、学生時代の回顧録になるか、ビジネスの話になるんだもん」
ぷっと頬を膨らませたチェギョンを見て、彼はほっとした。普段の妻だからだ。
「チェギョンが好きなパンケーキが美味しい店なんだ。こんど、ティータイムに二人で行こう」
「うん、約束よ」
シンは返事のかわりに大きな身を屈めて、キスをした。




*****




「まだ、だよね」
チェギョンは窓の外を眺めている。夏の陽射しは遅くまで翳らない。一日が長く感じられて、いつものチェギョンは夏が好きだった。
でも、今日は早く夜になってほしい。夫が「帰宅しよう」と思ってくれるように。

彼の友人たちといるのは、苦にはならない。そもそも社交的な性格のチェギョンは、年上ばかりが集まっている場所でも、特に気負うこともなく楽しんで過ごすことができる。
チェギョンのそう言った性格をシンが
「夫婦で出なくてはならない会合が多いから、チェギョンの人懐こいところは助かるよ」
と褒めてくれた。

そのチェギョンが、シンの誘いを断った理由は、ひとつだ。

―――ポピー・ルイーズ


彼女とシンは同じ大学の出身で―――所属しているカレッジは違ったらしい―――、共通の友人も多いだろう。もしもポピー・ルイーズが来ていないとしても、彼女の話はきっと話題になる。それを聞くのが嫌だった。

窓ガラスに額を付けると、チェギョンはため息をついた。
「気にしないようにするのが一番だけど」
あのシン・バンブスが夫なのだから、こんなことは当たり前なのだろう。
ユルだって似たようなものだ。大ぴらに恋人をとっかえひっかえしていたユルと比べたら、シンはずっとましなのだから。
けれども、その事実がかえってチェギョンには堪えた。

ユルのようなプレイボーイなら、アリアナのように真実の愛を勝ち得たことで“安心感と信頼”をもてるのかもしれない。
シンは違う。
彼は気軽に恋人を作るような人ではない。そんな彼の恋人だったポピーと言う女性に、チェギョンは何故だか敗北感と屈辱を感じてしまっていた。

「私ってワガママね」
チェギョンはガラスから額を離し、トボトボとベッドへ近寄った。バタンとふかふかのマットレスにうつ伏せに倒れると、手を伸ばしてシンの枕を引き寄せ、胸に抱いた。

彼のことは昔から知っていたのに、まるで全く知らないシン・バンブスがもう一人いるような違和感。
「シン君、早く帰ってきてね」
時計を見たくない。ノロノロと動く針を見ることに飽きてしまった。
大好きなファッション雑誌も、ブランドから届けられるカタログも、チェギョンは楽しめないと分かっていた。
「ミュージカルでも観ようかな…」
それもとことん明るいミュージカルを。チェギョンはノロノロとマットレスに起き上がると、壁にかかっている大きなテレビ画面を見つめた。サイドテーブルの引き出しからリモコンを取り出し、つまらない顔をしてそれを操作した。

ちらりと時計を見る。
やっぱり針は絵に描かれたように1ミリも動いていな気がした。




****




「チェギョンは寝てるかも、な」
シンは迎えの車の中で呟いた。
「お屋敷を出る時には、寝室のライトが付いているようでしたよ」
運転手が答えた。シンはピクリと眉をあげた。もう日付が変わっている。夜更かしが苦手なチェギョンは普段ならぐっすりと夢を漂っている時間だ。
シンより7歳も年下の妻の口癖は「美容は夜に作られるのっ」だった。
シンが寝室で映画でも観ようものなら、
「シン君は、私のお肌が荒れてもいいのね」
そう言ってプリプリと文句を言うのだ。その妻が、こんな時間まで起きて自分を待っているかと思うと、シンの心は急に自宅へと飛んでいった。

「夜ですから、道が空いています。普段より30分は早く着くはずです」
彼の気持ちに気づいたのだろう、運転手が笑いを含んだ声で告げた。
「そう願うよ」
シートに深く背中を預け、シンは答えた。


運転手の言う通り、昼間なら1時間はかかるところを、30分ほどで家に着いた。
シンは運転手に手で合図をすると、さっさと車を降り大股に玄関へ向かった。

「シン君」
「チェギョン、起きていたのか?」
玄関ドアを開けた瞬間、彼女が飛びついてきた。彼は大きな手で妻を受け止め、ドアを閉めた。黄色のコットンのワンピースは、チェギョンが自宅で寛ぐときによく着ている。
「まだ、シャワーも浴びてないんだな」
「シン君と入ろうと思って」
可愛らしい答えに、シンは頬を緩ませた。
「眠たくないのか?」
チェギョンが首を振る。
「眠たいの。すごーく。だから、早く寝室へ行きましょ」
そう言いながら、彼の腕を取って彼女はグイグイと歩き出した。

「楽しかった?」
見上げてくるチェギョンにシンはネクタイを緩めながら答えた。
「そうだね。でも、チェギョンと家で寛ぐ方が何百倍も楽しいよ」
「何百倍?そんな少しだけ?」
チェギョンが口を尖らせた。その目は笑っているけれど。
「言葉が足りなかったな。何百万倍も、だ」
「それなら許してあげてもいいわ。私を置いて出かけても」
二人の寝室のドアの前でチェギョンが、唇を押し付けてきた。

「―――お帰りなさい」
「ただいま」
二人はもう一度唇を重ねると、彼はドアを開け、キスをしたまま寝室へ入った。







「うん?ミュージカル鑑賞してたのか」
バスルームから出てホカホカと湯気を立てた身体をタオルで拭きながら、シンは付いたままのテレビ画面を見た。
「3本も観たんだから」
チェギョンが乾かしたばかりの髪を撫でながら、ベッドの上に乗った。そのままリモコンを操作したから、シンが見つめていた画面は真っ暗になった。
「目がウサギになっちゃう」
「ホットタオルがいるかな」
「ううん、いらない。それより早くぅぅ」
もそもそとシーツの中に潜り込んでいるチェギョンは、もう半分瞼が閉じている。シンは苦笑した。
「だから先に寝てればよかったんだ。僕を待ってくれなくていいんだよ」
彼もベッドに乗ると、チェギョンの隣に寝そべった。すぐに彼女がすり寄ってきた。柔らかな体を抱きしめる。ふわりとバラの香りがする。
「シン君がいない夜は、もうこりごりだもん」
1か月の海外出張のことを指しているのだろう。あれ以来、チェギョンは1泊の地方への仕事へも必ず付いてくる。
「今日は帰ってきたよ」
「でも、私が眠りにつく時にいないでしょ、寂しいからダメ」
ツンとチェギョンがシンの喉を押した。シンは低く笑った。
「可愛い妻の言葉に、僕がメロメロになるのを知ってて、そう言ってるんだな」
「そうよ」
チェギョンが鼻の先を彼の喉元にこすり付けてきた。
「シン君は、私のシン君だもん。メロメロになってほしい」
「僕はいつだって、チェギョンにメロメロだよ…」
彼が囁くと、妻の体は既に力が抜けて、夢の世界を漂い始めていた。







―――シン君は、私だけのシン君でしょ

―――私の事だけ、見てるでしょ

―――どこにもいかないでね


シンの眠りが浅くなったとき、どこからともなく、チェギョンの声が聞こえた気がした。

『もちろんだ。チェギョンの傍にいるよ』と答えようとしたけれど、睡魔が襲って来て彼はまた深い眠りへ落ちて行った。