「今日はこれぐらいにしておこう」
シンの一言に部下たちが頷いた。雪と氷に覆われた国。室内の温かさがありがたい。

滞在先のホテルのロビーで肩についた雪を払いながら、シンは細々とした打ち合わせを、同行の部下に任せ、黒い革の手袋を外しながら部屋へ向かった。
ふと、ラウンジの外に広がる白い世界に視線を向けたのは、薔薇の氷像が見えたためだ。あの透明に輝く薔薇を見るたびに、妻のチェギョンが思い浮かんできて胸が締め付けられる。

―――どうしているだろうか。少しは寂しがってくれていたら…。

シンは首を軽く振った。バカなことを考えるは止せ。かえって落ち込むだけだ。

チェギョンからは特に連絡はない。時々、こちらから「どうしているか?」と尋ねると、数日間の彼女の行動を事務的に知らせる返事が届くだけだ。余り頻繁だと彼女に『詮索好きな夫』だと烙印を押されてしまう気がして、本当なら毎日連絡を取りたいところを我慢している。

「二日前に聞いたんだ。今日、連絡してもおかしくはないよな」
誰に尋ねるわけでもないのに、毎回独りごちてしまう。いい加減ブツブツと呟くこともやめたいと思っているのに。

シンは黒コートのボタンを開けると、ジャケットの内ポケットから端末を取り出した。

スライドさせてロックを解除する。パスワードはチェギョンの誕生日。


『今日はもう仕事を終えたよ。チェギョンはどうしている?』

シンが送信を終えると、すぐに返信がある。それはいつものことだ。
だから彼はじっと液晶画面を見つめて、チェギョンからの返事を待つ。そんな子どもみたいな姿は誰にも見せられないけれど。


ブルルルと振動がして、返信の着信がある。


『昨日、マリーとジュリエッタの家へ招待されたの。楽しかった』

「―――僕がいなくても、チェギョンは普段通りってことだな」
妻が元気なのは良いことだ。分かっているのに、どこか寂しさが募るのは、自分の我がままだろう。チェギョンはシンのことを“家族”だとは感じているようだけれども、“一人の男性”としては見てくれていないのだから。

返事は部屋に戻って一杯やってからにするとしよう。今すぐに返事をしたら、感情的な文面になってしまいそうだ。それだけは避けたい。

けれども―――。
「チェギョン…君が恋しいよ」
小さな液晶画面で花嫁姿の彼女が微笑んでいる。








窓の外は真っ白で、おとぎの国へ来たような気がする。冬が長いこの国は、室内のインテリアが温かい。自宅へ帰ったら、自分たちの寝室とリビングのインテリアに、少しこのテイストを取り入れてみようか。

チェギョンは窓ガラスに反射する自分の姿を見つめた。

シンは怒るだろうか?

「そんなことないと思う」
あのシンが本気でチェギョンに怒ったことなど、今まで一度もない。年上らしく“アドバイス”をしてくることはあるけれど、ほとんどのことは受け入れてくれるのだから。

思えば、昔からシンは自分に優しかった。年の近いユルとケンカをしてふくれていたチェギョンの機嫌をとってくれたのもシンなら、泣きべそをかいているチェギョンを慰めてくれたのもシンだった。

困ったとき、気づくとシンが傍に来てくれたものだ。いつだったか、高い木の上に登った仔猫が下りられなくてなって泣いているのを見つけたチェギョンは、どうしようかと悩んでいた。父にねだって飼い始めた仔猫。バンブス家の庭で少しだけ遊ばせてみたら、木に登ってしまったのだ。

自分が脚立を取りに行く間に、仔猫が落ちたらどうしよう?と思うと、そこから1歩も動けなかった。
「どうしたんだ?」
声をかけてくれたのは“シン”だった。ユルだってあの時、家にいたはずなのに。


「少しだけ、期待しても大丈夫かな」
マリーとジュリエッタは、「シンはチェギョンのことが好きよ」と断言してくれた。家政婦のバーバラ夫人もそんなことをほのめかしていた。

本当は怖い。

彼の気持ちが自分へ向いていなかった場合のことを考えると、この先の長い結婚生活が息苦しくてたまらなくなるだろう。

それでも、わずかな希望にかけてみよう。
こうしてウジウジと悩んでいることにも、辟易しているのだから。


カチャリとカードキーでロックが外された音がする。チェギョンはピクンと体を強張らせた。
彼への想いを示したくて、白いワンピースを選んだ。上質なフラノの生地をギュッと握る。これぐらいの皺なら、このワンピースはあっという間に取れてしまうはずだから。


「チェギョン…?」
部屋の入口から彼が入り、リビングへ向かって歩いてくる気配がする。彼を直視する勇気がなくて、チェギョンはこの部屋の入口に背を向け、窓ガラスを見つめた。
黒いコートを着たシンが、驚いた顔で立ち止まっている姿が窓ガラスに写っている。






カードキーでロックを外し、部屋に入った時、一瞬彼女の香りがした。とうとう嗅覚までもチェギョンに恋焦がれているのかと、シンは自分に呆れた。

寝室に入るにはまだ早い時間で、彼は真っ直ぐリビングへ向かった。どういうわけか、チェギョンの香りが強くなる。
幻覚は香りまでもつれてくるらしい。


リビングのドアを開け、シンは信じられないものを見た。


彼女が、チェギョンが、ポツンと窓の外を見ている後姿があったのだから。


「どう、したんだ…?」
我ながら間抜けな問いかけだ。ここにこうして彼女がいるということは、“何か”理由があるに決まっている。ゆっくりと彼女が振り返った。

白いワンピースは、チェギョンによく似合っている。ふわりと肩に羽織っただけの同じ色のカーディガンが、彼女がこちらを向き、突然シンへ向かって走り出した瞬間、宙に舞った。
チェギョンが何か言っているけれど、シンには自分の心臓の音しか聞こえてなかった。耳鳴りのように大きく脈打っている。

何かが。

二人の間の何かが。


今、変わろうとしている気がして。





彼の声を聞いたら、我慢ができなかった。ううん、違う。
頭が反応する前に、心が反応してしまった。

あの広い胸へ飛び込みたい。

沢山の言いわけの言葉も考えたのに、シンを見たらそんなことは吹っ飛んでいった。

今はただ、彼に近づき、そして触れたいだけ。

チェギョンは自分を凝視する彼の視線を受け止めながら、迷わず彼の胸に飛びんだ。

―――大丈夫。シン君ならきちんと抱き留めてくれるはずだから。

チェギョンの考えた通りだった。
頼りがいのある腕が体に回され、すっぽりと抱き入れられた。

「シン君の香り。―――この香りがもう、消えてしまいそう」
「何が?」
掠れた彼の声が聞こえる。チェギョンは目を閉じて夫の腕の温かさに浸った。カーディガンが脱げてしまったのに、どうして?彼の腕の中にいると、温かくて満たされる。
「枕」
「枕?」
少しだけ彼が面白そうな声色になった。反対に抱きしめてくれる腕に力が入った気がする。
「そう、枕」
チェギョンは顔を上げた。決意をもってシンを見つめるために。





飛び込んできた彼女。あの真剣な眼差しと抱き付いてくる力強さに、シンは心打たれている。まるで“この世にはシンしかない”とばかりのチェギョンの必死さ。

―――期待してもいいのだろうか。

自分の胸に顔を埋めていた彼女が、くいっと顔を上げてシンを凝視してきた。
だから彼も見つめ返した。震える彼女の唇に、一筋の髪が貼り付いている。彼はそっとそれを払いのけ、そのまま白い頬を手をあてた。


「シン君が出発してから、一度も枕のカバーを替えてないの」
チェギョンが恥ずかしそうに笑った。
「そうか」
のどがカラカラになって声が出ない。彼女が言う一語一句を聞き逃すものか。
「そうなの」
チェギョンが繰り返す。次の一言が決定打になるのか?
シンはじっとチェギョンの薄いブルーの瞳を覗きこんだ。昔から大好きだったこの瞳。


「チェギョン、好きだよ。愛してるんだ。もうずっと」