「えっ?1か月も出かけるの?」
思わず金切り声になりそうな自分を、チェギョンは必死に抑えた。折角シンと自宅のダイニングで夕食を共にしているというのに、高揚した気持ちは一瞬でペチャンコになってしまった。
彼は「どうってことない」という素振りでワイングラスに手を伸ばしている。

ゴクンと動く彼の喉仏をぼんやりと見つめながら、普段のように胸を高鳴らせることができない。どういうわけか彼の喉が動く様に、ドキドキとするのがいつものチェギョンなのに。

「海外の不動産を視察してくるよ」
「そ、そう…」

―――私は?私は一緒に連れて行ってくれないの?


トマトソースを絡めたペンネはチェギョンの好物だけれども、今夜はもうこれ以上口にする気にならない。

「チェギョンは―――」
「私は?」
もしかして彼は一緒に連れて行くというつもりだろうか。彼女は期待に胸を膨らませて、顔を上げた。
仕事帰りで少しだけ疲れた顔の芯は、とてもハンサムだ。
「実家でのんびりしておいで。結婚して、そろそろ3か月だろう?疲れもたまっているだろうし」
「疲れてなんかいないわ」
尖がった声にならないようにしながら、チェギョンはフォークの先でペンネをつついた。
それなのに、彼は
「やっぱり疲れてるな、その声は。チェギョンは機嫌が悪いと、昔からその声を出しただろう」
そう言って勝手に納得している。

「疲れてるとしたら、誰のせいなの?」
シンが『掴みどころのない態度』をしてるからだと、言ってやりたい。
「僕のせいだね」
やっと気づいてくれたの?

チェギョンが勢いよく顔を上げると、シンが少し眩しそうないわくありげな顔をして自分を見ていることに気づいた。その顔でチェギョンは気づいた。
「あっ…。ち、ちがのっ」
彼女が言った言葉に『ベッドでの二人の行為を暗に示すような含み』があると、彼は勘違いしているのだ。

「僕がチェギョンをなかなか寝かせてあげないから、疲れもたまっているだろうなって思ってるんだ。だから、実家でゆっくりしておいで」
優しいけれども、有無も言わせぬ威圧感がある。7歳も年上の彼は昔からそうだった。チェギョンにとって、シンの決定は絶対を意味してきた。

「分かったわ」
シンがいないと思うだけで、胸の中に大きな穴が開き、冷たい風がビュービューと吹き抜けていく気がする。美味しそうな料理も全く食指が動かない。
チェギョンは膝に広げた薄いイエローのナプキンで口を拭い、
「お腹いっぱいなの。それに、なんだか眠たくなってきたかも」
肩をすぼめて見せた。クリーム色のノースリーブのニットは、薄手でピッタリと体のラインを浮き上がらせてくれる。シンに見せたくて選んだのに、彼はチラリとも見てくれない。

「部屋まで送ろう」
「いいの。シン君はまだ食事中でしょ。ゆっくり食べてて」
落ち込む気持ちを無理に奮い立たせ、微笑んで見せた。







クリーム色のピッタリとしたニットに、黒く細いプリーツのスカート。折れそうな腰とプルンとした形の良い胸についつい視線が吸い寄せられてしまう。シンは彼女の首から下は、あえて見つめないようにした。そうでなければ、このダイニングでチェギョンを奪ってしまいそうになるから。

まだまだ完全には“開花”していない妻は、寝室のベッド以外でことに及ぶなど考えもつかないだろう。

チェギョンが疲れているのは事実だ。最近の彼女はふさぎ込むことが多いし、弾けるような笑みが影を潜めている。
自分との結婚生活はそんなにも彼女を疲弊させるようなものだろうか。

だからシンは、わざわざ1か月もの間、家を空ける―――チェギョンと離れる―――ことにした。少しでも彼女が元気を取り戻してほしい。そして、自分と別れると言い出してほしくない。

例えチェギョンが自分へ愛を向けてくれなくてもいい。少なくとも家族として情を持っていてくれるなら、満足だ。
―――満足しなければならない。
それ以上の感情を妻に求めるとしたら、叶わない想いが溢れそうになり、きっと自分は苦しくて彼女と一緒に居られないだろう。

チェギョンがダイニングを去り、急に味気なくなった料理を一通り食べ終えると、シンは食後のコーヒーは自分たちのリビングへ運ぶように家政婦に指示した。




「チェギョン、寝たのか?」
二人の寝室はライトも絞られ、物音一つしない。
「…おやすみ。いい夢を」
シンはそっとドアを閉め、隣へ続く二人のリビングで時間をつぶすことにした。しばらく一人で寝かせてやろう。チェギョンの眠りが深くなったころに、自分はベッドに入ればいい。
階下はパブリックなスペースであり、上階はプライベートエリアだ。だからシンの書斎は1階にある。仕事をするならば書斎の方が効率はいいだろうが、なとなくチェギョンから離れがたい。

『家を空ける』と彼女に告げたからだろうか。
己の本心とは違うことを口にし、行動するということは、自分で感じている以上にストレスになっているのだろう。最近のシンは仕事に対して熱意が足りない。もちろん、今まで通りの判断をしていると自負しているが、そこまでのテンションを保つために自分自身で気持ちを高ぶらせる必要があった。以前ならば、そんなことはごく自然にできていたことなのに。

「―――厄介だな」
落ちてきた前髪をかき上げながら、シンは天井を見上げた。

この部屋の天井のように、チェギョンへの想いも上限があるといいのに。そうすれば自分の気持ちをうまくコントロールできそうだ。今のように常に彼女へ想いが飛んでいく状態では、落ち着いて日常を送ることができない。

結婚生活は、シンにある種の幸せ―――チェギョンに自分の名前と庇護を与え、ベッドを共にする権利を得た―――と、深い絶望感―――傍にいる愛しい相手に、自分を見つめてもらえない―――という相容れない二つの感情を連れてきた。


窓際に立つ。
カーテンを開けた。

厚い雲が今にも雨を落としてきそうだ。あれは自分の涙なのだろうか。
この1か月間で、チェギョンと過ごすこれからの生活のために、自分の気持ちに鍵をかけてこよう。

『彼女が妻になってくれた』という事実で満足できる自分になろう。








シンが寝室のドアを開けた時、チェギョンは息をひそめた。
彼は「寝たのか?」と言っていたけれど、眠れるわけがない。“シンがいないベッドで”熟睡ができるはずないでしょう?

チェギョンは薄々気づいていた。自分はたぶん、シンを「好き」なのだと。兄として好きなのではなく、ひとりの男性として彼を想っている。

これが、『愛』なのだろうか。

両親や弟への愛情をは違う。シンの家族である、バンブス家の面々への愛情とも違う。

シンだけが特別な存在。今すぐにでも彼の胸に飛び込んで抱きしめてもらいたい。そうすることでしか、この胸の中のもやもやは消えて行かないだろう。

「でも、誰も教えてくれない。誰かを愛するってどんな気持ちのことを指すのか」
彼が使う枕をぎゅっと抱きしめた。

一方通行の愛で満足できる?

何度も考えた。彼に気持ちを告げたらどうなるだろうかと。けれどもいつも臆病な自分が顔を出し、結局言えずじまいだった。
シンはとても心が広く優しい人だから、チェギョンの告白をきちんと受け止めくてれるだろう

―――それが問題なのよ


彼のことだ。“真面目な夫”の役割を果たそうと、真摯な態度を示してくれるだろう。チェギョンの世話を焼き、ベッドでは情熱的な恋人となり、他の人の前でも大事に扱ってくれるであろうことは、想像に難くない。

けれどもチェギョンが欲しいのは、そんな事ではない。

シン・バンブスの心が欲しい。
彼に“唯一の存在だ”と想ってもらいたい。


皮肉なものだ。形式上には夫婦になり、誰にも文句を言われることなくシンを独り占めできる妻の立場にいるというのに、その彼の心がつかめなくて悩んでいるなんて。

「1か月も…耐えられる?」
シンがいない1か月間をどう過ごしたらいいか、分からない。友達もいるし、実家も近い。でも、彼が傍に居なかったらどんなことも色あせて見えてしまう。

「アナグマになってしまいそう」
ずっと部屋に閉じこもってシンのことを考えて過ごしてしまう自分が、浮かんできた。

『社交的で明るいチェギョン・ボーナム』はどこへ消えたのだろうか。

チェギョンはそっとベッドを抜けだし、窓際に立った。カーテンを開ける。
空は今にも雨が降り出しそうな厚い雲に覆われていた。
あれは自分の涙だろうか。

「シン君…どうして…?」
1か月もチェギョンと離れていても彼は平気なのだ。その態度が全てを示している。
すなわち、シンはチェギョンの事を“妹”としてしか想っていないと。