「ルーシー!」

通りの向こう側にルーシーを見つけたチェギョンは、彼女の名前を呼んで手を振った。
「チェギョン、そこにいてちょうだい」
ルーシーがそう答えてきた。チェギョンは親指と人差し指で丸を作ると、『OK』とサインを見せた。
車の切れ間を縫ってルーシーがやってくる。

「いいところでチェギョンに会えたわ。今日にでも連絡しようと思っていたの」
「私に?シン君ではなくて?」
「そうよ、チェギョンに。こんなところで話すのなんだから…今、時間あるかしら?」
チェギョンは左手首の時計―――時計好きの夫がプレゼントしてくれたピンクレザーのクレドゥカルティエ―――を見て時間を確かめた。
今夜はリンジー家へ夫と行く予定だ。彼は父のクリニックの診察の日で、チェギョンは父の好きなイタリアワインを買いにここへやって来た。その用事さえ済めば、後はまだ5,6時間は自由。
「ワインを買ったら、後は用はないけどぉ」
「そう。じゃあ、一緒に買いに行きましょ。その後、私のアパートメントへ来てほしいの。いい?」
「ルーシーの部屋へ?」
チェギョンは突然の展開に戸惑った。ルーシー・リーディングとは確かに夫を通じて仲良くしているが、個人的に家を訪問するほど親しい仲になってはいない。チェギョンにとってルーシーは『ブラッドの友人』という位置づけであり、『自分の友人』と言うカテゴリーには属していなかったからだ。

けれども、何故か必死な顔をしているルーシーを見ると、
「うん、わかった」
そう返事をしていた。

彼女のことは嫌いではない。むしろ好きな部類だ。けれども、優秀な医師であるルーシーといると、何も取り柄の無い自分が益々情けなくなってしまうのも事実。
それで『自分の友人』へステップアップする1歩を踏み出せないでいる。

「決まりね!じゃあ、ちょっとティータイムのお菓子も買っていきましょ」
ルーシーがスタスタと歩き出し、チェギョンは慌ててベージュのスーツ姿の後を追った。




****



ルーシー・リーディングらしい真っ赤なスポーツセダンが止まった場所は、広い公園の近くに建つ近代的なアパートメントだった。
「ここ?」
「そうよ、さ、行きましょ」
サッサと荷物を持って歩き出した彼女の後から、チェギョンはちょこちょこと付いていった。


「まだ新しいのね」
「ええ、そうなのよ」
ガラス張りのリビングに、真っ白なインテリア。
「綺麗っ」
ルーシーそのもののようだ。ところが、チェギョンが褒めるとルーシーが困った顔をした。
「どうしたの?褒めてはダメだった?」
「ちょっとこっちに来てくれる?」
グイグイと背中を押されて、続きの部屋へ押し込められた。

「まぁ…」
チェギョンはドアの向こうに広がるとんでもなく混とんとした空間に、唖然として口を開けた。
「これがね、エリーナをここへ呼んだ理由」
ルーシーが恥ずかしそうに、それでいてあっけんからんとした顔で言った。



****



白いソファに座り、ルーシーとティータイムをする。
チェギョンは黄色のマカロンを摘まんだまま、顔を上げた。
「こっちが綺麗なのは、ハウスキーパーに来てもらってるからよ。でも寝室はダメ。あっちは書斎にも使ってるから、勝手に触られたくないのよ」
「うん。シン君も書斎は自分で掃除するの。私が触ると分からなくなるって言うから」
「そうでしょうね」
ルーシーが納得した顔で頷いた。

「これまで困ったことはなかったのよ」
「うん」
「でも、今回困ったことになったの。だからチェギョンに相談したくて」
チェギョンは首を傾げ、彼女が話し出すのを待った。

「…あの、何て言うか」
ルーシーが恥ずかしそうに頬を染めた。こんな彼女を見たことがある。
「あ、もしかして…サムのことかな」
チェギョンはピンときた。ルーシー・リーディングにこんな表情をさせる人物がいるとしたら、サムしかない。
「ええ、そう。彼よ、サム」
ルーシーが頬を染めながらも、チェギョンと視線を合せた。

「サムを、ここへ呼ぶ予定なの。私、恋人を自分の部屋へ呼んだことがないのよ」
ルーシーが話し出した。
「自分の領域に他人が入り込むことが嫌なの。ここは私だけの空間で、誰にも何も言われたくないわ」
チェギョンは頷いた。ルーシーらしい言い分だと思ったから。
「でも…彼だけは違う。サムだけには、ここへ来てほしい」
カタンとティーカップを置くと、ルーシーは寝室のドアを指さした。
「でもね、ちょっとどうかしら?あの部屋の状態って」
苦笑いをしていた。

「あのね、一つ聞いていい?」
チェギョンは摘まんだまま口に入れるのを忘れていたマカロンを、ティーカップの載るソーサーに置いた。
「うん、いいわよ。何でも聞いて。チェギョンには隠し事しないわ」
「ありがとう」
ルーシーの言葉がこそばゆい。自分は彼女に対してちょっとした壁を作っていたというのに、彼女のほうは『友達だ』と思っていてくれたのだから。

「どうして、サムなの?」
「え?」
「だってね、サムはドクターじゃないでしょ」
チェギョンはずっと疑問だったことを口にした。
「ブラッドとアレックスの妻だって、ドクターじゃないわよ」
ルーシーが笑い出した。
「う、うん、そうね。…だから、聞きたいの」
「シンと仲良しなのに?」
悪戯そうにルーシーが見つめてきた。
「…私、ルーシーみたいな知的な女性じゃない自分が嫌っ。シン君だって、ルーシーやリズみたいな賢い妻だったら、もっと毎日楽しいと思って」
「チェギョン?」
「あ、勘違いしないでね。サムに知性が無いって言ってるわけじゃないの。ただ、余りにも…いろいろと、ルーシーとは、違いすぎるでしょ?」
チェギョンはずっと胸の奥にあった想いを伝えることにした。夫に話しても彼は「愛してる」という言葉で全てを済ましてしまう。

チェギョンが不安なのは、今ではなく未来。

「シン君は、今、私のことを大事にしてくれるけれども、そのうち気づくんじゃないかなぁ…。『自分の妻には知的な話をすることが出来ない』ってことに」
「チェギョン、そんなこと―――」
「言わないでっ『そんなことないわよ、チェギョンだって十分知性はあるわ』って言う慰めも気休めも、今は欲しくない。誰が見たって、ルーシーのほうが優秀だもん…」
チェギョンは紺色のワンピースのスカートをぎゅっと握った。
「チェギョン、そんなこと言うつもり、ないわ」
「ルーシー?」

彼女はゆったりと笑っている。

「私はね、サムといるとリラックスできる。みんなが私のことを『Dr.リーディング』って目で見てるのに、彼の目にはただの『ルーシー・リーディング』なのよ。いつだってね」

ルーシーが立ち上がり、チェギョンの横に座った。
そしてチェギョンの手をそっと握ると、話し始める。
「仕事の話は同僚たちとすればいい。私だってサムが仕事の詳細なことを話しても意味が分からないわよ」
「うん」
「でも…サムには何でも話せるのよ」
「何でも?」
「そう、何でも、よ。―――時々、仕事のことで弱音を吐きたくなる。私の決定が患者さんの運命を決めてしまうのではないかって怖くなることだってある。多くのスタッフが私の研究を手助けしてくれてるけども、もし、私が立てた見通しが間違っていたら?って眠れなくなるときだってあるのよ。だって、莫大な予算を無駄にするんだから」
チェギョンは驚いた。いつだって自信に満ち溢れているルーシーがそんなふうに悩んでいるなど、思いもよらなかったから。

「やぁね、チェギョン。そんなに驚いた眼で見ないで。私だって普通の人間。サイボーグじゃないわよ」
「う、うん」
ルーシーがチェギョンの手をギュッと握った。
「だからね!シンだって同じよ。サムにはどんなことも話せる。彼に話を聞いてもらうだけで、すっきりするの。それでね、彼が話してくれることも全部楽しいわ。自分が知らないことを知るのって楽しいでしょ?」
「そう、なのかな…」
「そうよっ。私はシンと同じだからよく分かる。だって、私たちの周りには同じような医師や医療スタッフばかりいるのよ。もし、彼が『自分と似たような仕事の人間をパートナーにしたい』って価値観だったら、とっくの昔にそうしてるわ」
「うん」
チェギョンは笑った。笑うことが出来た。

「で、どうしたらいい?あの部屋」
ルーシーが肩をすぼめた。チェギョンは首を傾げて答えた。
「あのままでいいんじゃないかなぁぁ。何となくだけど…サムはルーシーのそのままを受け入れてくれる気がする」
「そうね、私もそう思っていたのよ、実は」
チェギョンが笑うと
「でも、チェギョンにそう言ってほしかったわ」
ルーシーが真剣なまなざしで見つめてくる。
「ルーシー…」
「シンがあなたを選んだ理由、私にはなんとなくわかる。私がサムに惹かれるのと同じよ、多分。―――シンはチェギョンといると、本当の自分でいられるのね」
チェギョンの胸の中に喜びと、感謝の気持ちが溢れる。
「だから、ね。そんなチェギョンが『あのままの部屋でいいわよ』って言ってくれたら、ありのままの自分をサムに見せる勇気が湧いてくるでしょ」
ルーシーがパチンと音がするほど大袈裟なウインクをした。

チェギョンはルーシーの首に抱き付いた。
「きっと、きっと、サムは笑うと思うな。『ルーシーらしいね』って」
「そうね、そうかもね」
クスクスとルーシーが肩を震わせている。
「でも、きっと最後は…そんなルーシーのことも全部、サムは受け入れるはず」
「そう言ってくれるといいな。希望的観測よ」
「言うに決まってる、絶対だもんっ」
チェギョンは言い張った。

サムなら言うだろう。

―――『そんなルーシーを愛してる』って。


****


「そんなにひどかったのか」
シンがネクタイを外しながら呟いた。
「うん、すっごく」
チェギョンは彼の脱いだジャケットをハンガーに掛けながら頷いた。
「混とんとしてるって言うのがピッタリの表現ね」
「まあ、僕の書斎だってかなり散らかってるからな、人のことは言えないよ」
シンが肩をすぼめた。

シャツを脱いだ夫の上半身にチラリと視線を見たチェギョンは、頬を染めた。
シンはそんな妻の仕草に気づくと、口の端を上げ目を光らせた。

「今日は暑かったね」
1歩チェギョンに近づく。
「そ、そうかな。いつもと同じ気がするけどぉぉ」
チェギョンは床に落ちたシャツを掴むと、彼から離れた。
「そんなことはないな。暑かったよ。シャワーを今すぐに浴びたいくらいにね」
「そ、そう。じゃあ、どうぞ」
チェギョンは窓の外をちらりと見た。夏の夕暮れはまだまだ先のことだ。明るすぎる陽射しが窓から差し込んでいる。

「きゃぁっ」
突然夫に抱きしめられた。
「一緒にどうだろう?」
「な、何を?」
「いつも一緒にシャワーを浴びてるくせに、どうしたんだ?」
シンがいたずらそうに笑った。
「それは私たちの家のことでしょ。ここは、私の実家だもん。ダメよ…」
チェギョンは夫を睨みつけた。すぐそばに両親がいる家で、シンと一緒にバスルーム籠る気にはならない。

 
―――だって、ただシャワーを浴びるだけで済むわけがないんだからぁ。



「分ってるよ」
そういうとシンは『降参』とばかりに、両手を上げた。
「もしかして…からかったの?」
チェギョンはホッとした。それと同時に少しだけ寂しくなったけれど。

チェギョンの問いに笑みで答えた夫が、彼女の手を掴み甲にキスをした。

「チェギョンと一緒にいると、僕はとてもリラックスできるな」
それだけ言うと、彼はバスルームへ消えて行った。

―――シン君