こちらは、妖精シリーズの脇役ティナがヒロインの話です。

→カテゴリーは『ピンクの綿菓子』。第1話はここから飛べます

 

昨日更新した『刺繍に愛を込めて~番外編~』にティナが出てくるので、ついでに、こちらの小話も更新します。

 

☆☆☆

 

「どうして…?」
ティナ・ワトソンの胸は激しく痛み出した。最近やっとこの痛みが薄らぎ―――というよりは、慢性的な痛みに慣れたという方が正しいかもしれない―――概ね穏やかな日々を送れるようになったばかりなのに。彼女の視線の先に居るのは、別れた恋人ダン・レイフォードだった。
左胸に当てた拳に力が入り息を止めていたティナは、彼が顔をこちらに向けそうになった瞬間、柱の陰に隠れた。
大きくゆっくりと息を吸い、そして吐いた。この痛みが少しでも消えるといいと願いながら。
 
瞼を閉じると今この瞬間も彼の姿が正確に浮かんできた。
濃紺のスーツにほんの少しブルーかかったシャツ。ちらりと見えたネクタイは、パープルだった。ネクタイの色に気づいた時、ティナの心は乱れた。彼に「ダンはパープルのネクタイが似合うと思うな」と言いながらキスをしたのは自分だった。あの時のティナの言葉を彼は今でも忠実に守っていてくれるのだろうか。
 
「もうやめて…」
自分が彼を忘れられないのと同じぐらい、彼もまたティナを忘れてほしくないと思う。けれどもそんな切ない願いはかえってお互いに苦しいだけだ。ダンが綺麗サッパリ、ティナのことを過去にしてくれたら、きっと自分だって前を向いて歩いて行けるはず。
 
それなのに、こうして彼がネクタイをはめていることに喜んでしまう。
 
――――私って、弱虫ね。
 
姉のリズが「無理に忘れなくてもいいでしょう?そんなことしても、傷が深くなるだけよ。自然に任せるのが一番」だと慰めてくれたけれど、ことはそんな簡単ではない。
リズには分からないのだ。姉はまだ『運命の人』に出逢っていないのだから。
 
 
はぁぁ
 
ため息ぐらいは許してもらおう。
彼女は高い天井を見上げた。自分の迂闊さを罵りたい。どうして今日、この場所へ来てしまったのだろうか。同業者があつまる展示会。けれどもそれほど大規模ではないこの展示会に、レイフォードの役員に就任した彼――――ティナと別れて、ビジネス上の結びつきでとある女性と婚約したと同時に彼は役職についた―――が来るなんて思わないのが普通だ。
 
それでも、頭の片隅にダンの情報が欲しいと願っていたことも事実。
まさかその本人に出くわす羽目になるとは思ってもみなかったけれど。
 
 
 
ダン・レイフォードはさり気なく会場を見渡し、目当ての女性の姿を探した。
彼女はもうピンクは身につけていないかもしれない。無意識にピンク色を探している自分を戒める。あんなふうに一方的な理由で彼女のもとを去った自分に対して、ティナが想いを寄せていてくれるなど思い上がりも甚だしい。
分かっているけれども、まだ期待してしまう。
 
「バカだな…」
婚約者がいる身分で、そんなことを思うなんて。
それとも愛するティナと別れてまで会社のためにこういった決断をした自分が、バカなのだろうか。
 
―――多分、後者だ。
 
今ならあの時の決断が間違っていたことがハッキリとしている。こんな選択をするのではなかった。後悔しても後悔しても、どうしようもない。
父は床につき、自分はレイフォードの人間であり、ティナはごく普通の家庭の子女だ。今更彼女の前に膝をつき許しを請うとしても、世間も自分の家族も彼女に冷たいだろう。
愛する彼女にそんな不遇なことをさせたくない。
 
 
 
「…ティナ…」
誰かの声が聞こえ、ダンは振り返った。国外の大手テキスタイルメーカーのブースの中で数人の女性が動き回っている。ダンはじっくりと視線を向け彼女たちを見つめた。けれども見つめる前から分かっていたことだ。
黒いリブタートルのワンピースに、白いレギンスを合わせきびきびと動いている女性は、彼の探していた、そして彼が今も愛しているティナ・ワトソンだと。
ダンの知っているティナは、あんなふうに黒と白だけのモノトーンでいることはまれだった。そんなコーディネイトをした時は、必ずアクセサリーやグローブ、シューズなどにピンクが入っていた。
それでなければ、『ピンクの綿菓子』ではないではないか。
 
ダンが愛してやまない栗色の巻き毛は、頭の高いところで緩くシニヨンになっていた。サイドに下ろした一束の髪が、クルンとカールしている。あの髪に指を絡ませ二人でクスクス笑いあったのは、まだそれほど遠い過去ではないはずなのに、とてつもなく昔のように感じてしまう。
 
―――ティナ、こちらを向いてくれ。
 
祈るような気持ちで見つめていたけれど、彼女は一度たりとも彼の方を向かなかった。
 
きっと気づいていないのだ。そう自分を納得させる。
ティナはダンの視線に敏感な女性で、どんな人込みでも瞬く間に視線を合わせる特技を持っていた。いつだったか彼がそのことを彼女に聞くと、ぽっと頬を染め「愛している人の視線はすぐに感じるのよ」と恥ずかしそうに答えてくれたことを思い出した。
 
もう少し彼女に近づきたい。
彼女が身にまとうあの『ピンクの香り』はまだ同じだろうか。黒と白を着ていても、あの『ピンクの香り』は同じだといいのに。
 
 
 
 
****
 
 
ふぅぅぅぅ
 
ラヴァトリーの鏡を見てティナは軽くメイクを直した。結局、ダンの姿はあれっきり目にしていない。小さな展示会とはいえ会場は広く、彼女は自分の会社のブースにこもりっきりだった。同僚たちが他の会社のブースへ行くときも残っていた。本来ならいろいろと回らなければならなかったけれど「体調が悪いの」と言い訳をして、特別に留守番をしていた。
 
ダンはレイフォードの人間だから、自社のブースを確認してさっさとこの会場から去って行ったのだろう。彼がレイフォードの跡継ぎであり、彼女とは別の世界の人間だということは、二人が恋人であるときは互いに触れないようにしてきた。
 
―――こうなることは最初から分かっていたことでしょう?
 
そうだ。分かっていたはずだ。いつか訪れる別れに対して覚悟をしていたはずなのに。いざその時が来たら、みっともないぐらい取り乱してしまった。そして今もまだ取り乱している。
 
もう一度鏡を見てリップを引き直し、ティナはドアを開けた。
 
 
 
「こんなところにいたのか」
「え?」
急に柱の陰から誰かが声を掛けてきて、ティナは驚いて立ち止った。
落としていた視線を徐々に上げて行く。ダークブラウンのピカピカに磨かれた革靴、濃紺の嫌味なぐらいセンタープレスのかかったスラックス、ほんのりとブルーかかったシャツ。
そして、あのパープルのネクタイ。
 
だから彼女はそれ以上視線を上げることはやめた。
 
「ま、まだいたの?い、忙しいんでしょ、こんなところにいないで会社に戻るといいのに」
つっかえつっかえ言葉を出す。こんなことを言いたいわけではないのに。本当は彼の広い胸に飛び込んで、その温かさに抱きしめられたいと願っているのに。
「ティナ…」
彼の腕が少しだけ上がり、そして伸ばしかけていた長い指が握られた。バカみたいだけれども、そんな彼の仕草に小さな希望と喜びを感じてしまった。まだ彼は自分のことを『欲しい』と思っていてくれるのではないだろうか。
 
 
 
 
「毎晩夢に現れる人が、すぐ手を伸ばせば届く場所に居るのに?帰るわけない」
ダンは小さな頭を見つめた。彼女がピクリと反応する。未練がましい言葉を掛けたところで、二人が傷つけあうことは分かっているのに、どうしてもティナの傍に居たかった。
「ティナ…」
「ダメ」
一歩後ろに下がった彼女は、顔を上げてくれなかった。
「―――分かっている」
分かっているとも。骨の髄まで分かっている。自分がこうしたのだから。
くるりと体の向きを変えた彼女が、去っていく。一度もダンの顔を見ることもなく。残された香りは、彼が馴染んだ彼女の香り。
 
 
+++++
 
 
「もぉ、どうしていつもこの香水なの?違うのを買ってくれてもいいのに」
ティナ・レイフォードは夫のダンに向かって文句を言った。
「ティナはこれが好きだろう?」
「そうだけど」
ピンクの瓶はもういくつ空にしたことだろうか。そろそろ中身がなくなるから、今度こそ他の香りにしようと彼女が考えているのに、彼が先回りして今までと同じ香水を用意してるのだ。
「ティナにはこれがベストだ」
「たまには他の香りに包まれるのもいいのに」
彼女がブツブツと不満を口にしているというのに、彼は笑いながら抱きしめてきた。風呂上がりの夫はとても温かい。
 
目を閉じて体の力を抜き、その大きな体に身を任せた。
 
「ティナにはこれがいいんだ」
「横暴ね。今時、そういう夫は人気がないのよ」
顎を上げてダンを見ると、彼はそんな言葉を無視していた。
「人気がない夫でもいいさ。ティナが僕を愛してくれるなら、それでいい」
「自信過剰ね。そう言うのも、人気がないのよ」
高い鼻をつまんでやった。
 
 
細い指が自分の鼻をつまんでいる。ダンの仕事が遅くなったから、彼女は既に寝支度を整えていた。本当は一緒にバスタイムを楽しみたかったけれど、それはまた別の日のお楽しみにしておこう。
 
ピンク色のティナ。今もピンクのナイトドレスを着ていた。
 
彼女の姉のリズは「ティナは性格がきついのよ。それなのに、ダンはティナの事『ピンク綿菓子』って随分乙女チックな言い方をするのね」といつもからかってくる。
リズは知らないのだ。
ティナがどれほど愛らしく可愛らしい女性なのかということを。
「人気がなくも気にならないな。僕はティナだけだから」
「ダンったら…そればっかり」
ほら、可愛いだろう?
ぽっと頬をピンク色に染めたのだから。
 
 
「この香りはピンクなんだ」
「なぁに?どういう意味なの、それ」
妻が首をかしげた。ふわふわと巻き毛が揺れている。
「ピンクの瓶だろう?」
「まさか、それがこの香水を選ぶ理由なの?他にもピンク色のパッケージは沢山あるのに」
知ってるとも。
「ほぅ、そうか。それは知らなかったな」
「レイフォードの社長が?ダメね、そんなふうでは。トレンドから外れてるじゃないの」
呆れた顔のティナも見飽きることがない。
「今度ダンと一緒に香水を選ばなきゃ。沢山あるから、ダンは驚くと思うな」
「楽しみだよ」
楽しみだとも。ティナと一緒に居られるのなら、どんなことも。
 
けれども、他の香水は買わない。それはもう決めてある。
 
彼は妻を強く抱きしめた。
小さなピンクの耳たぶを噛む。ティナが身をよじった。
 
「愛してるよ」
 
愛しているとも、僕のピンクの綿菓子。
 

~end~