「お嬢様、お嬢様」
昨晩デパートのバイヤーとの食事会で帰りが遅かったクララは、メイドの控え目な声で目を覚ました。ドアの向こうから呼んでいるようだ。
「なぁに?もう少し寝るわ。今日は休みなのよ」
寝ぼけた声で返事をすると、
「クララ!起きてちょうだい。」
ガチャリとドアが開き、義姉のティナの鋭い声が返ってきた。緊迫した声にクララの頭は一気に覚醒した。何かあったのだ。それも良くないことが。
素早く身支度を整え家族のリビングへ降りていくと、レイフォードの社員達が
慌ただしくあちこちに電話をかけ、兄のダンは難しい顔で報告を聞いている。
「何があったの?」
妊婦とは思えな素早い身のこなしで、こちらも社員達とやりとりしているティナを捕まえて、クララは尋ねた。
「副社長と重役が搭乗している飛行機が、トラブルなの」
とつけっぱなしの大型テレビを指さした。
クララが画面を見ると、空港上空で旋回する一機が映し出されている。
あれは、エリックの会社の機体だ。
クララは、画面に近寄り音声と画面から情報を得ようとした。
キャスターがひっきりなしに状況報告を繰り返している。その声も冷静さを装いながらも、内心の動揺を隠しきれない。
『……乗務員は……エリック・バードン副操縦士………』
「エリック…?」
テレビの真ん前で石のように固まっているクララに、ティナは心配そうに声をかけた。
「クララ?クララ?どうしたの?顔が真っ青よ」
そっとクララの肩に手をかけると、義妹は震えていた。
「大丈夫?ねぇ、クララ?」
「…エリック…」
絞り出すような小さな言葉に耳を傾けると、クララは、『エリック』と呟き続けている。
テレビから流れるキャスターが乗務員の名前を繰り返している中に、『エリック・バードン』という副操縦士がいることに気づいた。クララが繰り返し呟いている『エリック』とは彼のことだろう。
「クララ…エリックは、きっとあなたのところに返ってくるわ」
ティナは、優しくクララの手を握りしめた。
クララに恋人らしき影があることに、ティナは薄々気が付いていていたけれど、たぶんそれが、この『エリック』なのだ。クララの動揺具合から考えると。
「クララ、こんな時にあなたには酷だけど、いち役員として仕事をしてちょうだい」
ティナの言葉に、クララは我に返った。義姉の言うとおりだ。
自分は、このレイフォードのオーナー一族なのだ。個人的な理由で不安に黙り込んで済む立場ではない。
「はい。…ごめんなさい、私ったら」
「クララ…」
優しく名を呼ぶティナを見つめると、慈愛に満ちた瞳にぶつかった。
「私たちにできるのは、祈るだけよ。クララ、きっと大丈夫」
ね?とティナがクララの肩を優しく撫でた。
―――エリック。絶対よ、絶対、私の目の前にいつものように少しトボケたあなたの姿を見せて。
クララは、流れてくる情報に耳を傾けながら、レイフォードの役員としてするべきことに集中した。
そうすることで、辛うじて己を支える。ともすれば膝から崩れ落ちそうになる自分を叱咤激励しながら、目の前のことをこなしていく。
1時間ほどたった。状況は芳しくないようだ。燃料の残りから逆算して、最後の着陸を試みるとキャスターが話している。
皆が固唾をのむ中、エンジントラブルで片方のそれが停止し、車輪も格納されたまま出てこないと言うダブルトラブルを抱えた機体は、高度を下げ地面すれすれまで近づいた。
が、すぐさま上空へ上がっていく。今日何度目かのタッチ&ゴーに、無念のため息が漏れ、もう駄目なのでは?との雰囲気さえ、漂い始めた。
―――エリック。私、あなたに伝えたいことがあるのよ。
クララは眼を閉じ、一心に祈った。
神様、お願い。彼にこの想いを直接伝えるチャンスをください。
「ああ!!」
大きな声が広がる。
周りの声に目を開けると、テレビの画面に火花を散らして着陸する機体の姿が映し出された。
「無事着陸」
アナウンサーの言葉がクララの目の前を通り過ぎていく。
我慢していた涙が頬を伝い、クララはいつまでも震えていた。
―――エリック
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「やっと解放されたな。お疲れ」
ポンと本日の英雄になった機長に肩を叩かれ、エリックは
と労った。肩をすぼめてぐるりと首を回した機長が、家族の待つ場所へ足早に去って行く後姿をホッとしながら見つめた。
操縦士は、非常事態の訓練をそれこそ山のように繰り返してきている。
最近のシュミレーターの完成度はすばらしく、リアルの風景と区別が付かないほどだ。
「まぁ、それでも実機には僕たち以外の人間が乗ってるし。緊張感はあったな、十分すぎるほど」
エリックは一人呟いた。
私服に着替えると、妙な緊張感から解放され、途端に気が抜けて疲れがどっとでてきた。
クララに会いたい。
操縦士としてのエリックから、一人の男のエリックになると、頭に浮かんでくるのはクララのことだけだった。
クララは、見ていただろうか。
「彼女なら、『大丈夫よ』って笑ってお終いかもな」
エリックは苦笑いをした。他人の目がある環境で育ったクララは、どこか冷めたところがあり、大袈裟な感情を見せることが少ない。いつも控えめな彼女の上品な顔を思い浮かべた。
ビルから出ると、夜風が心地いい。空には星が輝き、いつも変わらない現実がそこにあった。
エリックが階段を下り愛車へと足を向けると、細く頼りなげな影がぽつんと佇んでいた。
「クララ?」
足を止めたエリックが、彼女の名前をつぶやくのと同時に、クララが彼の胸に飛び込んできた。紺色のワンピースに薄いグレーのノーカラーのジャケットを羽織った彼女は儚げだった。
「エリック……」
クララは、ありったけの力を込めて、大切な存在に抱きついた。
この逞しい体は、今ここにある。
顔を上げてハンサムな彼を見つめると、クララの肺の息が無くなってしまうほどきつく抱きしめられた。