オフィスの窓から外を眺めながら、パトリックは必死に気持ちを落ち着かせようとしていた。自分好みにブレンドしたコーヒーをゆっくり味わう時間は、忙しい彼のホッとできる数すくない時間なのであるが、ここのところ、それがうまくいかない。

原因は分かっている。―――ジュディだ。

どういうわけか、ジュディは大して知らない人間と一緒に演奏をする、と決めたようなのだ。

パトリック・ハミルトンは直感だけで人を判断しない。例外はジュディだけだ。彼女だけは、最初にあった時からどういうわけか、ひどく体も心も反応した。
―――それは今も変わらず、そうであるのだけれども。
彼女に対しては、理性がどうだとか、理屈がどうだとか、そういう部分をすっ飛ばしてどうしても手に入れたかった。

しかし、普段の彼は自分の直感だけを頼りに、ビジネスをしない。
直感も判断材料の一つとして考慮するが、あくまでも『一つとして』だ。

ビジネスのプロである自分でさえも、他人との交渉には慎重になると言うのに、ジュディは、数回顔を合わせただけの男たちと演奏しようとしてるのだ。
こんな馬鹿げたことを許せる男がいるとしたら、パトリックはその男の顔を見てみたいと思った。そんな男は、絶対にいない。

パトリックは必死に彼女の気持ちを『断る』方向へもっていかせようとした。ありとあらゆる屁理屈を並べて。
ところが、ジュディは
「決めるのは自分であって、パトリックではない」
の一点張りだ。

「今日こそは、断りの電話を掛けさせる」
窓に反射する自分の顔を睨みつけると、パトリックは決意を新たにした。






自分でも意固地になっているとわかっている。
ジュディはため息をついた。本心は、あまりよく知らない人間と演奏をする気にならないのだ。個人宅で行われるごくごく小さな演奏会なのだが、一度も一緒に練習をしない、というわけにはいかない。

けれども、いろいろと御託を並べて、なんとかジュディに『不参加』の返事をさせようとするパトリックに、腹を立てている。
自分はパトリックの何だというのだ。

―――恋人…?

『恋人』とはずいぶん都合のいいポジションだとジュディは思った。少なくともパトリック・ハミルトンのような社会的地位がある人間にとって、恋人とはファッションの一部だと言い逃れができるだろう。
今この瞬間にも、彼の恋人の地位は、他の誰かにすり替わってるやもしれないのだ。
確かなものが一つもない『恋人』なんて、意味がない……。

だから、絶対にパトリックに屈指しない。ジュディは決意を新たにした。




****




「ジュディ!」
パトリックのオフィスに、おずおずと入ってきたジュディに彼は満面の笑みを見せた。
―――今日は絶対怒り出さず、にこやかに攻めると決めたらしい。
ジュディは、黄色の細かいギンガムチェックのワンピースに、白いカーディガンを羽織っている。無造作に後ろに一つで束ねられたはちみつ色の髪によく似たゴールドのボールの形のピアスが、彼女が動くたびに揺れる。

「さあ、座って。ジュディは紅茶が好きだろう?でも、今日は僕好みでブレンドしたコーヒーをご馳走したかったんだ」
白いワイシャツは、ネクタイを外し、襟のボタンが2つ外され、喉の動きがよく分かる。濃いグレーのパンツはすらりとした彼の脚の長さを強調するかのように、ピッタリとしたデザインだ。

大きなデスクをぐるりと廻り、パトリックは恋人の背中に掌を当てた。ウッカリ撫でまわしそうになり、パトリックは己の見境のなさに叱咤した。ジュディに触れるといつもこうだ。
経験豊かで、欲望を完全にコントロールできる大人のパトリック・ハミルトンの仮面がはがれ、そこにはただただ、愛しい彼女をこの腕の中に閉じ込めておきたい、単なる男になり下がってしまう。


「なんだか、落ち着かないわ」
もぞもぞとお尻の位置を動かしてジュディが呟いた。
「どうして?」
二人分のコーヒーカップを持ち、ソファの前に置かれたセンターテーブルへ置いたパトリックは、誰もいないことをいいことに、ジュディの横にピッタリと張り付いて座った。

「だって…ここは、パトリックのオフィスよ。お仕事の場所にいるなんて、なんだか、不謹慎だわ」
―――ジュディの言う通りだ。

パトリックの頭の中には、今すぐにでもこのソフアで彼女を組み敷いてしまいたいという願望が、グルグルと渦巻いているのだから。
パトリックは、コホンと空咳を一つつき、ジュディがいる方の背もたれに腕を伸ばした。そうすると、彼女の細い首に彼の腕が当たる。彼女が動くたびに、彼のシャツの薄い生地を通して、産毛が擦れるのが感じられる。


「ここは仕事場だよ?不謹慎とはもっとも離れた場所だと思うけどね」
よこしまな想いが渦巻く胸の内側を隠し、パトリックはなんでもない、と言う風にそっけなく答えた。
そんなパトリックを疑わしげな眼でちらりとみて、ジュディは人一人分だけ、パトリックから離れた。
ジュディの行動にムッとしたパトリックは、すかさず、二人の間を狭める。先ほどと同じように、、ジュディの柔らかい太ももと自分の筋肉質なそれを貼り付けた。
彼女が訝しげな視線を彼に向けたが、パトリックは素知らぬ顔で切り抜けることにした。


ジュディが手を伸ばして、センターテーブルからコーヒーカップを取り、体をソファに戻すタイミングで、二人の間に微妙な距離を取って離れた。

パトリックがコーヒーを取る。彼も又、体を戻すタイミングで、またもやジュディに張り付く。そんなパトリックをジュディが睨みつけたが、彼はジュディの視線に気が付かないふりをして、呑気にコーヒーカップに口をつけた。


「ジュディ、このチョコレートを食べてごらん」
そう言うと、パトリックはセンターテーブルの上にセンス良く盛り付けられたチョコレートを一粒、ジュディの口元に持ってきた。ジュディが指でそのチョコレートをつまもうとすると、パトリックはそれを無視して、彼女の唇にチョコレートでそっと触れた。そして、優しく唇の中に押し込んだ。

ただ、それだけなのに、パトリックの何か言いたげな瞳に見つめられながら、チョコレートを押し込まれると、ジュディの心臓はドキドキと音を立て始めた。
ジュディの口の中で、チョコレートが甘く溶ける。何故だか、彼の視線にからめとられ視線を外すことができず、ジュディはじっと彼に見つめられながら、チョコレートが溶けるがままにした。
見つめたままのパトリックの親指が、ジュディの下唇に沿って撫でる。

ほう…、とジュディの声なき声が、こぼれたかに思ったが、最後はパトリックに飲み込まれてしまった。

一瞬、熱く重なる唇。

「チョコレートのあとに、このコーヒーを飲むんだ」
そう言うと、パトリックはジュディの手に自らの手を重ねて、カップを持ち上げた。

戸惑いながらも、パトリックの言うがままコーヒーを飲んだジュディに、
「そして…また、チョコレートを食べるんだ」
パトリックが、また一粒彼女の口の中に押し込んだ。ジュディは一言も話さずに、パトリックをぼんやりと見つめ、彼が言うがままにチョコレートを溶かした。

「ついてるよ…」
パトリックは舌で、ジュディの唇に残ったチョコレートを舐めとる。ジュディの瞼が降りたのを見届けると、今度は大胆に舌を差し入れ、チョコレートの甘さが残る彼女の口腔内を、十分に堪能した。