そろそろ、顧客が来店する時間だ。ティナ・レイフォードは、軽く身なりのチェックをしてから、店舗へ続く扉を開けた。もうすぐ結婚式を挙げるカップルを、姉のリズが紹介してきたのだ。

 

店舗の細かなところまで目を光らせながら、大好きなテキスタイルの仕事に携わることができる幸せを、ティナは感じた。随分と幼いときから、このレイフォードのデザインを好み、まさか将来自分がレイフォードの名を名乗ることになるとは、少女の自分には思いもつかなかったことだろう。
見本のクッションの位置を少し直しながら、ティナは考えた。

 

外国資本のテキスタイルメーカーで何年も働いていたが、あの大胆な色遣いとデザインは心底愛着を覚えることができなかった。仕事のやり方を叩きこまれたことは感謝してるが、自分は身近な植物をもとにした、このレイフォードの伝統的なデザインが、一番しっくりなじむ。

 

ダンとの別れを決意したとき、もう一つ心がひどく傷んだのがこのレイフォードのデザインと距離を置かねばならなくなったことだった。
――― でも、夫にはそれは内緒にしておこう。賢い彼はきっと気づいているだろうけれども。


 

*****



 

「どのようにテキスタイルをお使いになられたいのですか」
1ミリも隙間がないほどピッタリと寄り添った、クリフ・マックレーンとキャロル・ウィズビーは、とても幸せそうだった。
「自宅をクリニックと兼用するつもりなのです。それで、患者さんが落ち着けるような壁紙にしたいのです」
クリフの言葉に、キャロルが同意した。
「それならば、こういった柄はどうでしょうか」
ティナは候補の見本をいくつか広げた。
大学の時からの同級生だという二人は、好みも似ているらしく、すんなりと壁紙を選び終わった。ついでに、自宅のクッションやカーテンも選ぶという二人に、いくつかのアドバイスをしていたところ、クリフのスマホが鳴った。

 

「キャロル。職場から呼ばれてしまったから、僕は行くよ」
素早くキャロルの頬に唇を寄せると、
「君のセンスを信頼してる。プライベートな部分は、任せるよ」
少し大きめの口から白い歯をみせ、恋人に微笑みかけた。笑うとたれ目になり、実際よりも幼く見える。きっと、小さな子供や、年寄りから愛される医師なのだろうと、ティナは思った。





 

ティナと相談しながら、キャロルは大方の物を選び終わった。
「紅茶はいかがでしょうか」
ティナが声をかけると、キャロルはうなずた。

 

「ふぅ…。結婚って思っていたより大変ですね」
キャロルが呟いた。ティナはその言葉に肯定する意味で、微笑んだ。キャロルは、カップを両手で包み込むと、カップの中身をじっと見つめながら、小さな声でぼそぼそを話し始めた。独り言のように。
「彼に、、クリフから、もう何年も前にプロボーズされたんです」
ティナは何も言わずに、耳を傾けていた。
「おめでうございます」とも「そうなんですか」とも言わないティナに、かえって気持ちが軽くなったキャロルは、誰にも打ち明けたことがなかった自らの不安を口にすることにした。
「時々…思うんです。彼は、自分のプロポーズに責任を感じて、私と結婚するのではないかって。プロポーズした自分を悔いているのではないかって。」
顔を上げたキャロルは、ティナの顔を見て
「クリフにこの結婚を負担に感じてほしくないんです」

 

その時、ティナが落ち着いた声で聞いた。
「彼のことを、愛していらっしゃるのでしょう?」
キャロルは、即答した。
「ええ、愛しています」
柔らかく微笑んだティナが、
「それが答えなのではないでしょうか」

 

「ご存じのように、私と夫は、愛し合っていたのに一度は別れました」
ダン・レイフォードが前妻と離婚し、かつての恋人と結婚するという報道は、メディアの恰好の餌食となるはずだった。ダンが、事の成り行きを赤裸々に明らかにし、当事者たちにとってベストな選択を今度はしたいと真摯に述べたことで、このスキャンダルはあっという間に鳴りを潜めることとなった。
そういった経緯があったため、ティナはキャロルが、夫と自分の間にあった出来事を、一般的な範囲で知っているだろうと思ったのだ。

 

「あの時の自分を、私はずっと後悔しています」
ティナは一口紅茶を飲むと、静かに言った。
「こうして夫と再び縁を結ぶことができた今でも、後悔しています」

 

優しく微笑むと、
「ミス・キャロル、想像してみてください。彼がいない人生を」
そうティナに言われて、キャロルは初めてクリフがいない人生について考えてみた。キャロルの表情を見て、
「ね?彼がいない人生なんて、全く意味がないって思うでしょう。一生モノクロの世界なのよ」
そして、続けた。
「彼を、ダンを失った何年間は、地獄でした。夢も希望も全て…私にはなかった。生きるって息をして食べて飲んで、ってそれだけじゃないのよね」
分かるでしょ?と言わんばかりの視線をキャロルに向けた。


 

「私、一目ぼれだったんです」
照れたようにキャロルが笑った。
「あの時から、クリフは私の一番大事な場所にいるんです。ーーーだから、幸せになろうと思います」
吹っ切れたような爽やかな笑顔をティナに見せた。





 

****





 

暖炉の薪がパチパチとはぜる音を聴きながら、ティナはラグに座ってボンヤリを炎を見ていた。

 

「風邪をひくぞ」
夫が肩にストールをかけてくれて、ダンが帰宅したことに気が付いた。ティナはダンの顔を見上げると、
「お帰りなさい。考え事をしていて、気が付かなかったわ」
すまなさそうに眉を寄せた。妻の額に優しく口づけをおくると、ダンはティナ後ろから彼女を抱きかかえるように座り、耳の後ろに鼻をこすり付けた。
家に帰ってほっと寛ぐことができるなんて、以前の自分には考えられないことだった。誰かと二人でこうしてただ暖炉の前に座り時を過ごすことが、こんなにも心落ち着かせることだなんて思ってもみなかった。
モノクロだった自分の世界に、再び灯をともし彩色してくれた、この愛すべき存在を二度と失うことがないように。


「ねぇ…ダンは知ってる?」
暖炉の炎を見つめたままで、ティナが呟く。炎に照らされて、長い睫毛が影を作り、彼女をひどく神秘的にしていた。ダンは妻を抱きしめる腕に力を入れると、彼女の耳元で囁いた。
「僕がティナのことで知らないことがあるのは、悔しいな。君が知らないと思っているなら、是非伺いたいものだ」
ティナは夫の顔を見つめると、
「今日ね―――」
キャロルとクリフの話を始めた。そして、
「彼女が言ったの。彼に初めて会ったときに一目ぼれしたって。―――私もなのよ。知ってた?」
そっと、夫に口づけた。

 

++++

 

「素敵」
ほぉぉと感嘆の声を小さくあげ、ティナ・ワトソンはしばしその場にくぎ付けとなった。子どもの時から慣れ親しんだ、レイフォードのテキスタイル第一号のデザイン画が、すぐ目の前にあるのだ。それは、鉛筆の手書きで丁寧に描かれていた。線の一つ一つに、デザイナーの愛情が込められているように感じて、息をひそめてじっと佇んでいた。
いつか自分もこのレイフォードのようなテキスタイルメーカーに勤め、毎日大好きなこれらに囲まれて過ごしたい。それが、ティナ・ワトソンの今現在の夢であり、希望であり、目標であった。

 

美術館のショップで、特別展のコーナーがつくられていた。手ごろなポストカードを何枚か選び、
「これは鉄板よね」
一人つぶやきながら、レイフォードのデザインが網羅された本を手にした。家に帰れば、同じような本が山ほどあるのだが、ここへ来た記念の品として買うことにしよう。

 

―――明日も、来週も、再来週も足を運ぶつもりだけれど。

 

会計へ向かいながら、ティナはこのコーナーに傘が置いてあることに気が付いた。
「まぁ…」
そっと広げてみて、一瞬で気にいってしまった。ティナが愛してやまない、『あのデザイン』を使った傘だったからだ。普段はモスグリーンの色を愛用している――― オリジナルのデザインがその色だったからだ―――でも、今は、大好きなピンク色の傘に惹かれた。
どんよりとした憂鬱なこの国の曇りがちなこの国の空に、こんなピンクの傘をさしたら、少し気持ちが明るくなるような気がしたからだ。

 

「ああ…」
しかし、思い出した。財布に手持ちが少なかったことを。がっかりして傘を元の場所に戻すと、名残惜しそうに柄を何度のさすって、やっと手放した。






 

特別展の仕事に駆り出されていたダン・レイフォードは、ショップで美術館の職員と一緒に勤務していた。今回の展示に合わせて、このためだけに作られた商品がいくつかある。その売り上げをもとに、店舗でも商品化するか検討材料にするためだ。

 

コンスタントに売れるのは、ポストカードだろう。定番のデザイン以外にも、いくつかのデザインを混ぜた少しポップなもの今回は作ってみた。若い人たちは、こちらを主に買っていく傾向がある。

 

もう10分は確実にポストカードの前でどれにしようか悩んでいる女性がいる。くるくるとした巻き毛で、サイドの髪を後ろで緩く纏めていた。
ダンは、あのほつれ毛に指を巻き付けてみたい。ボンヤリとそんな想いが彼の胸に広がる。
――― 巻き付けてみたいだと?
彼は慌てて自分の頭に浮かんだ考えを振りはらおうと、頭を振った。


 

ポストカードの陳列を直すふりをして、彼女に近づいてみた。彼女の手にとったカードを見て、ダンは思わず足を止め凝視した。
――― 全部、定番のデザインのカード
驚いたことに、彼女が購入すると決めたであろう左手に持っている何枚かのカードも、全て一つのデザイン画がただプリントされただけのシンプルなものだった。そして、『伝統柄』とのカテゴリーに属するであろうデザインがその多くを占めていた。
ひとつだけ新作の柄が選ばれていた。それは、ダンが昨今の中で一押しにしているものだ。

 

やっと決まったようで、ダンが立っている横をすり抜けて行った。彼女の甘い香りがあたりに漂い、ダンは目を閉じるとゆっくりとその香りを味わった。
と、順調に足を進めていた彼女が立ち止った。傘の前で。

 

傘はダンがどうしても店舗で商品化したいものだった。今までも何度か商品化してきたが、思ったように売り上げが伸びなかった。一つには、値段の割に商品の価値が高くないと客に判断されたことと、色合いが原画に忠実であったためインパクトに欠けることが原因ではないかと、ダンは考えた。
そこで今回は、色をはっきりとしたものにしてみたのだ。

 

巻き毛の彼女は、ピンクの傘を広げて、目を輝かせた。

 

―――彼女があの傘をさしている場面を想像してみた。間違いなく似合うだろう。


 

ダンは目を細めて、彼女の様子をうかがった。彼女は傘を開き、目を輝かせていたが、急に残念そうに傘を元の場所に戻すと、何度も柄を撫でてからその場を離れた。

 

ショップの大きな窓から外を見ると、雨雲が広がっている。そろそろ、降り出すであろう。件の彼女は見たところ、傘を持っていなかった。彼女が地下鉄かバスに乗るまでに、雨が降るのは間違いないだろう。

 

そう考えた時、ダンはショップの在庫置き場に直行し、彼女がいつまでも手を離さなかったピンクの傘を掴んだ。そして、美術館のロビーを足早に横切り、彼女の姿を探した。







 

「やだ…降り出しそう」
泣きそうな気分だ。欲しいと思った傘を買うことができなかったばかりか、雨まで降りだしそうだ。これでは、地下鉄のホームにつく時には、濡れネズミだろう。乾燥した気候だから濡れてもすぐに乾くだろうが、気持ちのいいものではない。

 

「おまけに―――この靴」
ティナは足元を見て、再びがっかりした。
今日は大好きなデザイン画を見ることができるのだから、とわざわざ新品の靴を履いてきたのだ。それは、華奢なピンヒールで――姉のリズに言わせると、「そいういう靴はね、車で出かける人の物よ。運転手付きの」だそうだ――とても、地下鉄の入口まで、走る気にならない。
「でも、やるしかないのよ!ティナ・ワトソン!」


 

ティナがそう自分を励ましていた時、後ろからクスクスと笑い声が聞こえた。くるりと振り返ると、美術館のショップにいた職員と思しき男性が、笑いながら立っていた。ぽかんと彼を見つめたティナは、この男性が、背が高く上品でとても逞しい体つきをしていることに気が付いた。

 

「あ、あの。私に何かご用ですか?」
どう考えても、この場所には自分とこの男性しかいないし、彼が笑っているとしたらそれは自分を見て、ということになるだろう。
「この傘を使ってください」
低く響く男らしい声。こんな声で囁かれたら、どんな気持ちになるのだろう。

 

―――きっと。きっと、なに?

 

ティナは自分が考えたことが信じれなくて、瞬きを数回した。それを彼女の戸惑いだと勘違いしたダンは、
「遠慮しないでください。雨が降りそうです。その靴では、雨が降る前に地下鉄かバスに乗ることはできないでしょうね」
傘を彼女の手に握らせた。

 

彼が自分の手を取り、指を広げさせて傘の柄を握らせてくれた。目の前で動く彼の一挙一動が、まるでスクリーンの一こまのようで、ティナは固まったように立ってることしかできなかった。気が付いた時には、ぎゅっと柄を握りしめている自分がいた。

 

「あの」
傘を見て、それからダンの顔を見上げたティナは、続ける言葉を探しているようだった。その無防備な顔がひどく愛おしく感じ、今すぐこの腕の中に引き寄せたい衝動を、ダンは感じた。このままあと1秒でもこうしていたら、我を失って、驚く彼女を抱きしめてしまいそうだ。
「君には、ピンクの傘がとても似合いそうだ―――ティナ・ワトソン」
だから、顔を彼女に近づけることで、よしとしよう。

 

ゆっくりと彼の顔が近づいてきて、思わず目をつぶって―――口づけを交わしたいと、ティナは思った。でも彼は、あと少し、というところでピタリを動きを止めると、自分の名前を呼んだ。
「どう、し、て?」
不思議そうに小さくてぽってりした唇を動かした彼女。
「今、自分で名前を呼んでいたじゃないか、ティナ」

 

彼に名前を呼ばれて、心臓が一気にドキドキと動き出した。顔が赤くなるのが分かる。
「…確かに私は、ティナ・ワトソンです」
うつむいて彼女が呟いたと思うと、急に顔を上げて、ダンを睨みつけ
「ご自分の名前を先に名のるのが、マナーだわ」

 

「それは失礼した」
ダンは大袈裟にマナー違反を悔いているような顔を作ると、
「ダンだ。ダン・レイフォードだ」
ゆっくりと名乗った。


 

「ダン・・・・・・レイフォード?!」
ティナは美術館とダンを交互に指さすと、
「レイフォードって、レイフォード?」
と何度も繰り返した。そんな彼女を面白そうに眺めながら、
「僕は生まれた時から、レイフォードだったね。他のファミリーネームは、興味があるけれど名乗ったことはないよ」


 

「そういうわけで、レイフォード展に来てくれたティナに、雨が降りそうだから、このダン・レイフォードが傘をプレゼントしてもいいような気が、僕はするんだけど?」
混乱した彼女の手を取り傘を広げ、「さあ、行って」とダンは優しく背中を押した。


気がつけば、雨が降り出していた。
何度もダンを振り返りながら、ティナは地下鉄の入口に向かった。
「明日も絶対来なきゃ。」
―――そうよ、この傘の代金をお返しするため。それが目的よ。彼にもう一度会いたいってことが、理由ではないの。
自分に言い聞かせながら。