「だって、リンジー医師がそうお話になったそうよ。ね、アレックス。あなたも聞いたのでしょう?」

リズが隣に座る夫に同意を求めた。兄のアレックスはきまり悪そうに頷いた。シンは奥歯を噛みしめた。この場所で―――チェギョンと仲直りをしたばかりで―――聞きたくない話だ。
「リズ…!その話は今度にしてくれ」
シンは震える声を絞り出した。
―――リズのやつ、一体何を考えているんだ?

「もう、パパったら、そんな恥ずかしい話をしたの?」
チェギョンは小さく切った肉片を、さらに細かく切りながらもじもじと話し出した。シンの顔を下から見上げるようにすると、
「ずっと。小さなときからあこがれてたの…」
あろうことか頬を染めた。

 

彼女の上気した頬を見るのが辛い。とうとう彼女の気持ちを告白される決定的な瞬間が来たのだ。ここは大人の寛大さを試されているんだ。

シンは固く目をつぶると、この試練に必死に耐えることにした。それは恐ろしく辛いことだ。麻酔なしでオペされるよりも体中が痛いのでないだろうか。
兄は、しきりにワインを口にしている。平然とした顔をしているけれども、きっと内心困っているのだろう。そしてリズ。義姉は呑気に、モグモグと何かと咀嚼していた。こんな状況に追い込んだ張本人だと言うのに。


そんな3人の様子に無頓着な様子のチェギョンが、しばし躊躇した後、立ち上がって彼女のバッグの中を引っ掻き回していた。それれから何か小さな布きれを大事そうに取り出した。テーブルに戻り、大事そうにその布きれを広げた。
「シン君、見て」

そう言われてシンは渋々その布切れを見ることにした。何か彼女にとって意味がある物らしい。それが『憧れの君』の関するものだとしたら、苦しくて見たくはないのだけれども。
 
チェギョンがシンの顔を見ると、彼はやけに気難しい顔をしていた。どうしてそんなふうに強張った顔をしているのだろうか。彼女には彼がそうしている理由がさっぱりわからなかった。
「シン君?見て」
彼の腕を軽く引っ張ると、シン「は明らかに嫌そうなそぶりで視線を向けてくれた。そして急に大きく目を見開いた。
「これは…!」
「これ…」

シンとアレックスの呼吸がピッタリと合った。

 

彼が驚いた顔をしたままチェギョンを見つめてきたから、彼女は首をかしげて彼に微笑み返した。
「覚えてる?」
確かめるようにシンを見ると、彼がかすかに頷いてくれた。
「そうなの」
注射器の刺繍がされた小さなストライプのハンカチに優しく触れた。
じっとハンカチを見つめた。
「このハンカチで迷子の私の涙を拭いてくれた王子様に」
シンをまっすぐ見て、すぅっと息を飲むと最後の言葉を言い切った。
「ずっと、あの時から、憧れていたの、シン・ジェラードに。」


「シンのことだったのね、チェギョンの『憧れの君』って。」
リズが聞いた。
チェギョンは首を縦に振ると、答えた。
「その時だけだったもん、シン君が私のこと見てくれたのは。その後、何度もシン君に会ったのに、全然気づいてくれなくて……何年たったのかなぁ。」

「チェギョン、僕は…」
「いいの。シン君の事、責めてもないし、怒ってもいない。」
シンが彼女の手を握りしめてくれた。チェギョンはシンと繋がれた手を自分の頬に当て、その温かさに目を細めた。
「ただ、ちょっとだけ寂しかった。」
彼が小さく唸った。

「このハンカチは、ずっと私を支えてくれた。」
刺繍の部分をいつものように指先でなぞる。長い年月彼女がそうしたせいで、刺繍糸が細くなってしまった気がする。
「最近も、そう。シン君に会えなくて、私…。」
チェギョンは震える声で囁いた。それから彼を見つめてみると、その目は後悔の色が見えた。
「毎日すごく不安だった。でもね、ハンカチがあったから。『きっと大丈夫』って信じようとしてたの。」
絶望の淵で辛うじて踏みとどまっていたのは、このハンカチがあったからだと思っている。

「チェギョン、ごめん」
シンがチェギョンを強く抱きしめてくれた。大きくて温かな体にすっぽりと包まれていると、それだけで十分だった。
 


「僕はなんてバカなんだ…。」
チェギョンの『憧れの君』が自分だなど考えたこともなかった。自分勝手に想像のライバルを作り出し、挙句の果てには彼女を遠ざけ傷つけてしまった。
大の大人がなんてみっともない間違いを犯したのだろう。これほどまでにバカな行いをしたのは、自分の記憶の中にはない。
それだというのに、この小さな妖精は自分を許してくれたばかりか、『憧れの君』である自分のことを想いつづけていてくれた。

 

シンはチェギョンを見つめた。純粋な彼女の瞳には自分の姿が映っている。

「ありがとう、チェギョン」
「シンくぅぅん」
小さな彼女の顔を両手で包み、見つめあう。それからチラリと兄たちを見た。
穏やかな顔をしている兄たちにニヤリと笑うと、シンは顎をクイッと上げて合図した。リズが眉を上げ、それから頷く。兄の方は澄ました顔でワイングラスに手を伸ばしていた。
 
―――それならば、少々長めのキスをしてもいいだろう。
 
シンはそう結論付け、食事の席に似つかわしくないほど長いキスを、大事な妖精とすることにした。




****


「チェギョン」
夜風にあたりながら彼女の小さな手を引く。ほっそりとした指が優しく絡まってくる。シンは彼女の顔を見下ろした。
「なあに?」
大きな目が優雅なカーブを描きながら、彼を見上げた。
「ひそかに憧れてた王子様は…」
「本物のほうがずっと素敵」
シンが言い終わる前に、チェギョンが答えてくれた。

「ずぅぅぅっと素敵っ」

ぎゅっと腰に抱き付いてきた彼女が、顔を上げて見つめてくれる。
「それでね、私は目の前にいる実物の王子様が、とても好き。」
「それなら、良かった……」
艶やかな髪に手を滑らせて、シンは答えた。想像上の『憧れの君』のほうが、実在の自分より好きだと言われたら、それこそ自分自身に嫉妬しなくてはならない。
「どうして?」
不思議そうな彼女に彼は微笑み返した。
「チェギョンの中の王子様が、本物の僕よりも完璧だったら、大変だろう?僕は誰に文句を言ったらいいんだ?」
彼の言葉に彼女が笑った。
「文句なんて言う必要ないもん。だってね―――」
爪先立ちになった彼女が、彼の首に腕を絡ませてぐっと体重を掛けてきた。彼は素直に彼女に従い、顔を下げた。

 

「私の王子様は、白馬じゃなくて、赤い車に乗って、連れ去ってくれるの。」
 
チェギョンは小さな声で彼の耳元でそう囁いてくれた。




~end~

 
 
弟たちが帰った後、アレックスとリズはキングサイズのベッドに並んで座りながら、映画を見ていた。

リズのお気に入りの『美女と野獣』のアニメーション。何度も聞かされたために、すっかりメロディーも歌詞も覚えてしまった歌を、隣に座る最愛の妻がうっとりと口ずさんでいる。
「気づいてたな?」
アレックスがリズに聞いた。
「んー?なんのこと?」
まだ歌い続けている。
「ハンカチのことだ」
リズの肩に自分の肩をぶつけ、横倒しにする。
「知ってたわ」
歌はサビに入り、高音を出すのに妻は苦労している。横向きでは腹に力が入らないのだろう。起き上がろうとする妻の上にのしかかり、耳元で囁く。

 

「いつ知った…?」
耳の周りを舌で濡らす。
「ああっ。チェギョン、の…」
歌声が止まった、画面ではまだ流れているというのに。
「チェギョンの…?」
首から順に唇を這わせ、鎖骨のくぼんだ部分は念入りに口づける。
「うーん…ああ!やめてったら!」 
急に妻が夫を押しのけると、いくつか外されたパジャマのボタンを留め直し、
「チェギョンのカバンの中に入ってるのを見たのよ。注射器の刺繍がしてあったから、ピンと来たわ」
得意げに話し出した。

アレックスは、ベッドにうつぶせになると顔を横に向け
「僕の愛しい人は、本当に目ざといよ」
腕を伸ばしてリズの髪を撫でた。

「自慢の妻かしら?」
「ああ、自慢だよ」
今度は素早く妻をうつぶせにさせると、その背中に乗り、あとは二人で愛をなぞることに没頭した。