大きな窓ガラス越しに真っ白な世界が広がっている。控えめに感嘆の声を漏らしたチェギョンに、シンは微笑んだ。細い肩を抱き寄せ彼女の頭に唇を寄せた後、甘く囁いた。彼本人は甘く囁いたつもりはないけれども、他人が利いたなら「甘い声だ」と断言するだろう。
「気にいったかな」
目を輝かせながら彼女が彼を見上げてきたから、彼は彼女が返事をしようと口を開く前に自分自身のそれで覆った。親友のジュノの家族が持つこの別荘は、ゲレンデに近くそれでいて完全にプライバシーが守られるような立地だ。王女のチェギョンを連れてくるのにぴったりだろう。既に世間では非公式に認めらえた恋人同士だとはいえ、プライバシーがないのは困る。なにしろ、シンには思惑があるわけで、そのためにここへ来ているのだから。
「どう?気にいった?まだ答えが聞こえないね」
「シン君ってば!だれが、そうさせてるの?」
濃厚なキスの後で赤くなった唇を尖らせたチェギョンが恥ずかしそうに頬を染めて抗議してきた。
「それは僕の事かな。それとも…チェギョンが可愛すぎるせいかな」
いつからこんなに歯が浮くようなセリフを口にする男に成り下がったのだろうか。自分自身に笑いながらも、彼女といるとどうしてもこうなってしまう。
 
――――――仕方がないだろう?目の前に愛しい彼女がいたら。
 
「後でゲレンデに行くことにして、少し休もうか」
「そうね」
ジュノの別荘はモダンな造りだった。伝統と格式の権現のようなチェギョンの宮殿と対照的。シン自身も古い家柄に生まれたおかげで、好むと好まざると一族から代々受け継がれているものに囲まれている。
オレンジ色の大きなソファに並んで座り、ほっと息を吐く。大きなラブシートのせいで、チェギョンが一層華奢に見えた。
「うぅぅーん、なんだか寛げるね」
「そうだな」
二人で見つめあって頷いた。自分の家だとはいえ、巨大な宮殿には多くの人々にかしずかれている王女には、完全に他人の目がない生活はほぼしたことがないだろう。ジュノが気を聞かせて、料理人と家政婦を派遣しようかと言ってくれたけれど、シンはそれを断っていた。夕食は外に行けばいい。朝食程度なら、自分が作ろう。
 
「きゃあ、シン君っ」
シンはチェギョンの体を持ち上げると、自分の膝の上に横抱きにした。
「誰もいないんだから、好きなようにさせてもらうさ」
鼻先を互いに擦り合わせ、もう一度好きなだけキスをしよう。シンがそう決意したときだった。
 
ぐぅぅぅ
 
「ヤダ…聞こえた…?」
チェギョンが腹を押さえて恥ずかしそうにしている。
「そう言えば、昼を食べてなかったね」
「うん、そうね」
「町に下りてティールームに入ろう」
恐ろしいほど迅速に大きくなった“彼自身”のことは忘れよう。どちらにしても、こんな昼間から彼女を奪うつもりもない。夜ならいいのかと聞かれると、曖昧な答えしか言えないけれど。
「町に素敵なお店があったね」
車で通りすぎた小さな町のメインストリートに、これまた小ぢんまりとした愛らしいティールームがあったのだ。
「じゃあ、そこへ行こうか」
「うん。あの…シン君」
「うん?」
チェギョンの甘い唇がそっと重なってすぐに離れて行った。
「連れてきてくれてありがとう」
「僕もチェギョンと来たかったんだ。だから僕の方こそ『ありがとう』だ」
シンは自分の言葉が本心から出たものであることに気づいた。礼儀として答えたわけではなく、彼女とこの静かな山荘でゆったりと流れていく非日常の時間を大事にしたかった。二人の出逢いはあらかじめお膳立てされたものだったのかもしれないが、それさえも今になって思えば『運命』だったのだと感じる。
 
 
****
 
 
小さなティールームで取るクリームティーは素朴で、それでいてお腹も満たされた。チェギョンはスコーンにクリームを塗り、添えられたブルーベリーのジャムをたっぷりと載せた。店の主人も客たちも、チェギョンとシンに気づきながらも、そっとしておいてくれることがありがたい。
「この町がお気に入りになりそう」
「そうだね。また来るといい」
「うん」
何気ない会話にチェギョンの心はドキンとした。シンが「また来る」と言ったということは、二人の未来はきっと重なっているという意味だ。周りには「鈍感な王女だ」と思われていると彼女自身も気づいている。弟妹達までもがあからさまに「シンがプロポーズのチャンスが無くて、気の毒だ」と言う。
 
気づいてないふりをしているけれど、彼がプロポーズの言葉を言おうとしていることは何度も気づいていた。
 
自分でもどうしてこんな場面で臆病になってしまうのか分からない。シンの事は愛している。この先の未来、共に歩んでいきたい相手は彼だけだ。それなのに胸の奥に何かが引っかかっている。それが解決するまでは、シンの口からプロポーズの言葉を聞きたくない。
そう思いながらも、こんなふうに未来の二人のことを自然に口にしてくれる彼を見ると、その広い胸に飛び込んでいきたくなるのも事実。
「さあ、お腹も膨れたし、ゲレンデに行こうか」
「うん」
だから今は楽しみ事だけに集中しよう。チェギョンはシンの大きな手を掴むと歩き出した。
 
 
「王女様か」
シンと箱庭のような町並みを楽しんで歩いていると、妙に棘のある口調で声を掛けられた。彼と二人で振り返るとどこかで見たことがある男が口元をゆがめて立っていた。そして気づいた。
「ユル君…なの?」
「おやおや、王女様の口からそんな親し気に名前を呼んでもらえるとは、光栄だね」
嫌味な口ぶりはこの際無視することにした。それほど、かつての恋人のすさんだ姿に心が痛かったから。だらしのない生活ぶりが目に浮かぶ。かつては艶艶に手入れさていた髪は伸び放題で艶を無くし、無精ひげがだらしなくたるんだ頬を覆っている。
 
ユルが太りやすい体質な事は知っていた。それなのにあれほどスリムだったのは、食事の制限をしていたからだ。シンの引き締まった筋肉質の体とは全く違ったけれども、外見的には女性受けする体になっていたのに、今では腹も2段になってそうだ。なによりも、片手に持った安物のアルコールの瓶と、離れて立っていてもプンプン匂ってくる据えた匂い。
「ユル君、どうしたの?あなたらしくない姿ね」
情けをかける必要はないと思いながらも、親が子どもに気をかける気持ちになってしまう。
「『あなたらしくない姿』だと?誰のせいでこうなったと思ってるんだ」
「私にのせいだといいたいのかしら」
ちくりと痛んだ良心も消え失せそうなほど、憎しみのこもった声で返されてしまった。
 
「見てわからないか?お前のせいで世間からそっぽを向かれた。王女の夫になるからと舞い込んできた仕事も、砂のように指の間から落ちて行ったさ」
こんな時でも気取った表現をする彼に、チェギョンは懐かしさを覚えてしまった。そうだった。ユルのロマンティックな言葉は耳触りが良く、目の前に広がる現実から逃避することができた。そしてチェギョンはようやく気付いた。何故自分がこんな男のことを好きになってしまったのかを。
 
「…ユル君。目を開いて、目の前の状況を直視しなさい。逃げていても、何も変わらないのよ。人のせいにしないで。あなたがそうなってるのは、あなた自身のせいなんだってまだ分からないの?」
「なんだと?」
ユルが動き、シンの腕がチェギョンの肩に廻った。けれどももうユルなど怖くない。
「あなたの口から出る言葉が本当の事ならどれほどいいかって、私いつも思っていた。まるで魔法みたいに、全ての事が私たちにとって都合の良いことになってる世界だったから。でも…それって頭の中の夢物語よ。それに私は、そんな夢の世界で生きていきたいなんて、今はこれっぽっちも感じてない」
肩に回されたシンの大きな手から、ジワリと温かさが伝播してくる。その手の平から勇気をもらっているような気分。
 
「ユル君に出逢わなかったら良かったって思ってたけど」
ユルが奇妙な音を喉から鳴らした。よほど屈辱的だったのだろうか。チェギョンは隣に立つシンを見上げた。優しさと敬愛と…そして、熱い何か―――もし名前を付けるとしたら、それは『愛』かもしれないもの―――を、彼の瞳に感じた。
「ユル君、あなたの存在は私にとっては必要だったのね」
「チェギョン…よりを戻すってことか?それなら大歓迎――――」
「あなたって、たとえようもないぐらい、バカなのね。もっと早く気づけばよかったかも」
シンが小さな笑い声を上げ、ユルが顔を激しくゆがめた。
「私に気づかせる存在が必要だったのよ」
「チェギョン…そんな存在は、君を不必要に傷つけるだけだったよ」
チェギョンは首を横に振った。シンの正面に体を向け、彼の筋肉質な腕をギュッと掴んだ。
「必要だったの。だって…私、『シン君を待っていた』から」
 
 
 
彼女大きな目に溢れてくる涙は、喜びの涙だろう。シンは両手をチェギョンの頬に添えた。
「最初にシン君に出逢っていたら、シン君がどれほど素敵な人なのか、きっと私は理解できなかった。だってそれが当たり前になってしまうから。でも違う。シン君は『当り前』の人ではないのよ」
震える唇から零れ落ちてくる言葉は、シンの心を温かく包み込んでくれる。
「待っていたの、きっと…。運命の人が…私のシン君が、現れるその時まで」
「チェギョン」
「一度、信頼してると思っていた人に裏切られたから」
彼女がユルを見て、すぐに顔を戻す。
「もう一度、誰かを信じることが怖い。こんなに愛してるのに…それでも怖いの」
「チェギョン、僕を信じてくれ」
「分かってた、頭では。シン君がユル君とは違うってこと」
「チェギョン、もういいよ。分かったから」
「ダメっ。最後まで言わせて」
 
気の強さは流石、王女だ。こんな状況でも自分を見失うことのない彼女は、根っからの王室育ちなのだろう。
「なんで笑ってるの?」
「笑ってたかな」
「笑ってるわ。…緊張感のない人ね、シン君って」
チェギョンがむくれた顔をしたから、とうとう彼は本気で笑い出してしまった。
「もぉぉ、シン君!!」
 
身体中から彼女への愛が溢れそうだ。いや、もうすでに溢れているだろう。
 
シンはチェギョンを抱きかかえ、クルクルと回転し始めた。
「きゃあ、シン君ったら、目が回りそう」
下ろして、と彼女が言うけれど、この気持ちを今、正しく表現するとしたらこうするしかない。真っ当な人生を歩んできたというのに。どこがどうなって一国の王女と恋に落ち、道路の真ん中で彼女を抱いて狂ったように廻っているのだろうか。
 
ようやくチェギョンを下ろすと、彼女の脚がふらついている。だから彼はぎゅっと抱きしめておいた。甘い香りの髪に頬をつけ目を閉じた。
「結婚してくれ。チェギョン、僕と結婚してくれ」
「いいわ」
「いいのか?」
彼女の顔を覗きこむと、柔らかな笑みが返ってきた。
「シン君はどう答えると思ったの?」
「分からない」
「分からなかったの?嘘でしょう?」
大きく目が見ひらかれた。
「ああ…分からなかったんだ。本当に…分からなかった」
 
そのことに気づいて、シンは唖然とした。チェギョンにずっとプロポーズしようとしていたのに、最後の最後で踏ん切りがつかず、ズルズルとこの時で引き延ばされていたのは、実は自分自身のせいだったのだ。
「チェギョンが今度もまた、『本物の愛』に裏切られたらと不安になっていたように、僕もチェギョンが僕に寄せてくれる想いが…傷つけられた心を癒すためのものであって、愛と勘違いしてるのではないかって思ってた」
「シン君…」
「なにしろ、僕にとっても『一生に一度の』『たった一つの』本物の愛とういうのは、初めての経験だからね」
瞬きを忘れたかのようにじっと彼女が見つめてくる。
 
「結婚しよう。結婚しなければならない。それが僕たちの運命だから」
チェギョンが花のように笑った。
「運命に逆らう気はないから…結婚するべきね、私たち」
二人は同時に笑い声を立て、そしてキスをする事にした。沢山のキスを。
 
そして同時に言った。
「きっと、チェギョンを待っていた」
「きっと、シン君を待っていた」
 
 
~end~
 
 
「結局、スキー、一度もしなかった」
チェギョンがシンの腕の中で呟いていた。長い髪が彼の裸の肌をくすぐる。女性らしい滑らかな曲線を手のひらで撫でながら、彼は彼女のこめかみにキスをした。
「ベッドの中が快適だからね」
クスクスと彼女が笑った。
「ここから出られなくなりそう」
「僕も“ここから”出たくないな」
彼女の中にうずもれたままの“彼”が、ムクムクと力をつけ大きく膨らんだ。
「もう?今したばっかりなのにぃ…」
「しかたがないな。だってチェギョンも『ここから出たくない』んだろう?」
「これとそれとは―――」
彼女の言葉はくぐもって聞こえてきた。シンの唇に飲み込まれていったから。