大胆なことを口にしてしまったけれど、チェギョンは後悔してなかった。むしろ胸の奥に抱えてていたことを口に出すことができて、スッキリした気分。シンの方はそうではないようだけど。
「自分が何を口にしたか、分かってるのか」
「私だって脳みそが付いてるの。分かってて口にしてる」
「そういう言葉は軽々しく口にするものではない」
「だって、軽々しい気持ちじゃないもの」
彼がなんだか口の中で悪態をついていた。言葉にならない言葉で良く聞こえなかったけれど、聞こえたところでチェギョンに意味が分かるとは思えなかった。大きくため息をついた彼が、くしゃくしゃと髪に指を突っ込んでいる。
「せっかく綺麗に整ってるのに」
チェギョンは彼の肩に片手を置くと、背伸びをして黒い髪を撫でつけた。もちろん計算済みの行動。こうすれば彼と唇が近くなる。シンの呼吸が乱れた。いい傾向。
 
「真っ黒なのにとっても柔らかい髪の毛ね」
いつまでも触れていたくて話を続けた。踵を地面に下ろしたけれど、肩は掴んだままにする。下から見上げる彼は、本当にハンサムだ。
「私…でも、シン君の容姿が好きってわけじゃないのよ」
「それは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことかな」
彼が苦笑する。
「喜んでほしいけど。だってシン君がスタイルが良くてハンサムなことは、分かり切ったことでしょ」
「それはどうも」
会話の流れが変わったことでホッとしたのか、彼の大きな手がチェギョンの腰に廻った。
「見た目でシン君を好きになったわけじゃないってこと伝えたかったのよ。私…シン君の大きくて広くて、温かいところが好き。でも、一番なのは、『信用できる」ってこと」
「チェギョン…」
彼の逞しい胸に頬をつけ、目を閉じた。こんなふうに全てを委ねても、何も心配などいらない。いつだって彼は彼のままで、チェギョンに嘘をつくことはないから。
「だから…シン君の言う『歯止め』なんていらないって思ってる」
 
 
年下で世間知らずの恋人はいつからこんな殺し文句を言うようになったのだろうか。シンは温かな体を抱きしめた。
「―――――チェギョンの気持ちは嬉しいよ。僕だってそうしたいと思っているから。けれど、今はその時じゃない」
「シン君の『今』って永遠に来ない気がする」
チェギョンの言葉に彼は乾いた笑い声を立てた。
「おいおい、それほど僕は紳士でもないし、忍耐力があるわけでもないよ」
「そうなの?」
顔を上げた彼女に向って彼は頷いた。随分買いかぶりされたものだ。こうしているだけでも、脚の間の昂ぶりは強まり、今にでも地面に押し倒したいというのに。大胆なことを口にしているけれども、やはり彼女は深窓の令嬢だ。
「でも、その時が来たら、僕は紳士ではいられないね」
クルンと巻かれている髪を自分の指に巻きつけた。赤く染まった彼女。
「だから、覚えておいてほしい。その時が来たら、チェギョンは全て僕のものだ」
「今だって、全部、シン君のものよ」
「そうだね。だけど、本当の意味で、僕のものにするよ」
彼の言葉に彼女が震えたのが分かった。
「とりあえず―――」
シンは身を屈めて軽く唇を合わせると、
「今は、ティータイムだ。美味しいお菓子を食べ損なうぞ」
明るくそういうと、片目をつぶって見せた。
「シン君…でも、私―――」
「さあ、戻ろう。チェジュンが好きなチーズケーキだって言ってたけど、僕はザッハトルテ好きだ」
「私も」
やっと彼女も分かってくれたのか、はたまた、諦めてくれたのか、元来た道を戻り始めた。
 
―――――さっきは本気で危なかった。
 
しばらくは彼女の誘惑と闘わなければならないだろう。チェギョンの方は既にその気になっていることが分かった。シンとてそれに対しては、概ね賛同している。むしろ嬉しいぐらいだ。そのためには片付けるべきことを先にしよう。
 
 
*****
 
 
 
「男の人が、私たちの買い物に付き合うのって、『出来ることなら回避したいこと』の一つだと思ってたけど」
黒いウサギのぬいぐるみ―――新しいコートを試着したとき、ディスプレイされていたうさぎ―――を片手に持ったシンが、ゆったりと笑う。ダークグレーのジャケットに黒いパンツを穿いた彼に、ウサギは案外似合っている。
「まあ、そうだけどね。チェギョンと一緒なら、それは例外ってことになるかな」
「ありがとう」
最近、彼はチェギョンが出かける場所によく姿を見せる。メディアのカメラに狙われてることは気にしてないようだ。彼と一緒にいると自分もそうなることにチェギョンは気づいた。ユルと一緒の時は、カメラにビクビクしていたのに。
実際、ユルとシンは全く違う。カメラに気づくとシンはさり気なく自分の陰にチェギョンを隠すようにしてくれるけれども、二人で姿を隠すことはせず堂々としている。チェギョンをエスコートする彼の姿は、世間には好意的に受け入れらえているようだ。
 
あれからユルとは連絡を取ってない。チェギョンの方で相手にしないようにした。それとなく二人の関係は終わったのだとほのめかしているつもり。さすがのユルも気づくだろうと思っていた。
 
「チェギョンっ!」
突然、鋭い声が聞こえてきた。シンとの会話に気をとられていたリチェギョンが前を向くと、目の前に目をぎらつかれたユルが立っていた。
「ユル君…どうして?」
近寄って来たユルがチェギョンの手首を掴もうとした。
「いててて!放せっ」
結局、ユルの手はチェギョンの腕を掴むことができなかった。その前にシンの大きく逞しい手が、ユルの男性にしては妙になよなよした手を掴んでいたから。軽くひねっているように見えるけれども、ユルは痛がっている。シンの片方の腕はウサギを掴んだまま、チェギョンの腰を抱いてくれている。
 
 
思った以上に単純な男だ。
シンは呆れた。こんな男と恋に落ちたチェギョンは、相当世間知らずなのだろう。もっと幼い時から男を見る目を育てほうがいい。自分たち未来の娘にはそうすることにしよう。シンは固く心に誓った。
「放せっ」
文字通りジタバタしている男を見下ろした。
 
王室と国王からは「正式に婚約の宣言を出す」と言われているけれど、シンはそれを延期してもらうように頼んである。チェギョンにプロポーズさえしてないのだ。そんな状況で公に宣言されるのは、男のプライドにかかわる。そそしてまた、ユルのほうをうやむやにするのは納得ができない。これでは横恋慕したように見えるではないか。だから頻繁に二人の姿を人前に見せるようにしてきた。事実、二人の仲は半ば世間で公認され、ユルの存在は随分と薄くなったようだ。
 
そろそろユルがやってくるだろうとは思い、警戒をしていた矢先の事だった。それにしてもお粗末な登場の仕方だ。この男は内密に事を進めるという方法を知らないのだろうか。何でもかんでもオープンにすればよいというものではない。結局は自分の事しか考えていないのだろう。愛する女性を窮地に追い込むことなど、シンには到底許すことのできない事だった。
 
「放してほしいというのなら、その通りにしよう。ただし今後一切、王女の前をウロウロしないと約束したら、だ」
「僕はチェギョンの婚約者だ」
「違うわ」
シンが答える前に、彼女が口を開いた。