背伸びをしたら3 | LITTLE STARS

LITTLE STARS

小さなお話の部屋です。甘い二人で妄想中( *´艸`)

「あ、あの。ここでいいです」

そう言うと、チェギョンは地下鉄の入口に一直線に走って行ってしまった。気づくと雨は上がり、シンは一人傘を畳むこともせず、その場に立ちすくんでいた。

「傘はこれからも1本で良さそうだな」
彼女と二人で雨の中を歩くのなら、傘は2本も必要ない。シンはチェギョンが消えた地下鉄の入口をしばらく見つめていた。


彼女の連絡先も自宅も何も知らない。焦って彼女に警戒されるのはごめんだ。明日も図書館へ行けば彼女に会えるのだ。焦りは禁物だろう。彼女は純粋で深窓の令嬢ようなところがある。あまりに押すと逃げて行ってしまうはずだから。

 
けれども、その後チェギョンの姿を見かけることが亡くなってしまった。シンは毎日図書館へ行って、彼女を探したのに。




****



「もうっ、ソンジュンったら過保護すぎるわ」
メイド長が微笑む。
「お嬢様のことが心配で仕方ないのですよ」
あの日、二人きりの傘から逃げるようにしてイ・シンの前から消えたチェギョンを、彼はどう思っただろう。翌日、街から離れた田舎の本宅へ行くことになることが分かっていたら、あんなふうに彼の前から去らなかったのに。
「誰が過保護だって?」
黒と白の夜会服に身を包んだ、堕天使のようなソンジュンが部屋へ入ってきた。
「だったら、最初から出席しなければいいでしょ?なんで、私まで出なきゃならないの?」
ソンジュンがチェギョンの肩を抱き、二人して大きな姿見を見つめた。二人の髪の色と瞳の色は同じ。鏡の中にうつる自分たちは、誰から見ても兄妹に見えるはずだ。
「なんで?と言われれば、こう答えるね。そろそろ本格的に、大事な妹を託せる相手を見つけてほしいと願っているからだろうね」
「余計なお世話。私は若いんだから」
いつものように兄に牽制したものの、『大事な妹を託せる相手』というフレーズに引っかかってしまった。ソンジュンのその言葉にイ・シンの顔が浮かんできたから。
「なんだ、もう決まった相手を見つけたのか?」
切れ者で有名な兄は、チェギョンのちょっとした表情も見逃さないらしい。
「残念でした。ソンジュンみたいな兄を持った私は可哀想だわ」

「どういう意味だ?」

「ソンジュンを越える男性なんて、なかなかいないと思うけど」
兄はふっと笑い、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「――本当に、大事な妹を誰かに託すのは苦しい限りだけれど、僕がいつまでもチェギョンのそばにいられるか、わからないだろ?」

冗談めかして言いながらも、兄の瞳は真剣だった。
「ソンジュン…」
チェギョンたちの父はある日突然亡くなった。残された家族たちは心の準備さえできず、悲しみに暮れ完全に吹っ切ることなどできない。兄のっソンジュンはそのことを指しているのだ。自分がいなくなった時に、チェギョンを支えてくれる誰かがいてほしいと。

「そんな哀しいことを言わないで」
チェギョンは兄に抱き付いた。小さなころから彼女を守る大きな手が、優しく背中を撫でてくれる。
「僕は見ての通り、健康な青年だからね。チェギョンの言う哀しみは当分来ないと思うよ」

急にいたずらっ子のような顔をして、ソンジュンが白い歯を見せて笑った。
「そうよ。ソンジュンはずっとずっと元気でいて、私にあれこれ世話を焼くんだから。それがソンジュンの仕事ね」
兄が優しくチェギョンの額にキスをしてくれた。


 

 
シンは伸家のパーティへ出席していた。正直こういった社交界の付き合いは苦手だが、父の代りに出席をしろと母に頼まれた。両親の魂胆は御見通しだ。そろそろ彼に身を固めてほしいという事だろう。あまり魅力的に感じないことだけれど、最近ではますますその思いが強くなる。チェギョンに出逢ってしまったから。
 
先祖代々の領地にある巨大な屋敷は、シンの家のそれよりもさらに豪華だ。会場の大広間の扉から中に入った時、シンの視線は一点に引き寄せられた。ミルク色の光沢のあるドレスに緩く髪を結いあげ、可憐な笑顔を振りまくチェギョンがいた。
 
シンは彼女をまっすぐ見つめ、人ごみをかき分けて近づいた。
「こんなところで何をしている?」
細い腕を掴んでそういうと、振り返った彼女が驚いた顔をしている。
「あなたこそ、何をしていらっしゃるのかしら?」

妙によそよそしい答えが返ってきて、シンはムッとした。どれほど彼女に会いたかったか分かっているのか。
「僕が質問しているんだ」
混乱した頭をどうにか冷静にしようと試みているのに、声はひどく低くなっていた。チェギョンがツンと顎を上げて反抗的な顔をした。
「あなたの質問に私が答える義務ってあるの?」

「あるに決まってるだろう。僕は“あれから”毎日図書館へ行ってるんだ」
「そんなこと、私は頼んでない。手を放して」
シンは掴んだ手に力を入れた。彼女の鋭い視線が飛んでくる。


暫く二人で睨みあっていた時だった。

「チェギョン、それにイ・シンか?」
「シン・ソンジュン」
ふいに主催者のシン・ソンジュンが現れた。シンはチェギョンの手をまだ掴んでいた。若き伸家の当主がチェギョンの肩を抱いた。そして彼女の腕を掴んでいるシンの手を興味深そうに見ている。一体、チェギョンとソンジュンの関係はどういうモノなのだろうか。まさか恋人同士だということはないだろうか。だとしたら、なんとしてもシン・ソンジュンからチェギョンを奪わなければならないだろう。そう考えると、シンは無意識に低いうなり声を出していた。


「ソンジュン、なんだか疲れちゃった」

「大丈夫か?」
チェギョンの言葉にソンジュンが心配そうに顔を覗きこんでいる。
「イさん、手を放してくれませんか」
「シンだ」
彼女に苗字で呼ばれるなんて腹立たしい。
 
「手をなしてもらうか」

ソンジュンがシンの手を掴んできた。
「女性に気安く触れないことだ」

「自分こそ、彼女の肩に馴れなれしく触れているだろう」
シンは相手を睨みつけた。

「妹を心配して、何が悪いというのか?ああ、まだ、紹介していなかったようだ」

「妹?」
ふっと力が抜けた拍子に、チェギョンがシンの手から腕を引き抜いた。

「イ・シン、紹介しよう、僕の妹、チェギョンだ」
「そう言えば、君はシン・ソンジュンだったな」

チェギョンとソンジュンの姓が同じ『伸』であることに、シンは気が付いた。。名家の跡継ぎであったシン・ソンジュンとは、同世代であり属している社会が重なっている。あちこちで顔を合わせる程度の知り合いだった。
「覚えていてくれて、光栄だ」
「そう言われてみると…君たち二人はよく似ているな」
髪や瞳の色が同じだった。
「それじゃあ、兄である君に正式に頼もう。君の妹を少しお借りしたい」

シンの言葉に、ソンジュンがちらりとチェギョンを見た。それから苦笑いをして言った。
「どうぞ、と言いたいところだけれど、僕の大事な妹は君と話すことはないようだよ」


 

「妹君にはなくても、僕にはあるんだ」
シンは強引にチェギョンの細い腰に腕を巻き付け抱き寄せた。彼女が控えめとはいいがたい力強さで、彼のつま先を踏んだけれども、これしきの事どうってことない。

「失礼するよ」
ソンジュンの返事を待たずに、チェギョンをホールから連れ出した。途中、名家の娘とは思えないマナー違反――シンの膝裏を蹴ったり、小さく悪態をついたり―――をしていたが。




チェギョンは、ホールの大きなフレンチ窓からシンに連れ出され、今は植込みの窪みに二人して立っている。
「ドレスが汚れそう」
腕を組んで彼に言う。彼の姿を見た時から、心臓が不規則なリズムを奏でていることは、忘れることにしよう。それなのに相手の方は余裕な態度。大きな手が背中にまわり、あっという間に彼の胸に抱かれていた。
「ドレスが汚れたら、僕が新しいのもを用意できる」
耳元で熱い息がかかる。なんて硬いい胸板なのだろうか。チェギョンはそっと顔を上げた。そうしてしまったらきっと、彼から視線を外すことなど出来ないと分かっていたのに。チェギョンが思った通りだった。シンの視線に絡められてしまったように動けなくなってしまう。大きな温かい手が彼女の顎を掴んだ。ゆっくりと近づいてくる端正な顔。そして優しくて切ないほど甘いキスが彼女に落ちてきた。

「今度は逃げられなかったな。進歩したという事かな」
唇を数ミリだけ離したシンが呟くけれど、彼の動く唇がチェギョンのそれに触れて、そのたびに彼女の胸は大きく高鳴った。
「君が姿を消して、僕がどう感じたか、分かってるのか?」
彼の問いに答える間も与えらず、下唇を軽く噛まれ、舌が絡みついてくる。

 
―――もうダメ


すっかり体中の力が抜けて、ぐらりと倒れそうになったけれどシンがしっかりと体を支えてくれた。
「降参した?」
彼の声が耳元でしたと思ったら、チェギョンは彼の腕に抱き上げられていた。
「下ろしてください」
情けないことにか細い声しか出ない。彼はちらっと彼女を見ただけで、また前を向いてしまった。下ろす気はさらさらないようだ。
「ここは開いてる?」
彼が顎で指した扉は、庭園へ出るための図書室の扉。
「開いてると思うけど」
「ドアノブを回してくれ」
そうするのが当たり前のように彼が言う。
「下ろして。自分で歩けるから」
チェギョンの言葉を無視して、シンが顎でノブを指す。尊大な態度に彼女は憮然とした。こういう顔と態度は兄のソンジュンもしばしば見せる。そういう時、男性は頑固になることをチェギョンは知っていた。だから、しぶしぶ、ノブを回すと、彼が肩でぐっと扉を中へ押した。



カツンカツンと革靴の底と床がぶつかる音がする。
「ここの図書室は、ずいぶんと明るいんだな」
ぐるりと彼が部屋を見渡している。
「そうね、ちょっと珍しいわね」
最近チェギョンが選んで買ってもらったシンプルなデザインの水色のファブリックのソファーにそっと下ろされた。
「あ、あり、がとう…」
なんでお礼を言わなければならないか、疑問を感じつつ、つい習慣でそう口にしてしまう自分が情けない。シンの前にいると、ツンツンした態度と妙にしおらしい態度が交錯してしまうのだ。
「君の脚の力が抜けた原因は、僕にあるんだからね」
なんだか満足げな顔で、彼はそう言った。
「隣に座ってもいいだろうか」
紳士らしい行儀の良さを見せる。
「どうぞ。…随分、紳士らしいのね。さっきとは別人みたい」


 

シンの口づけで少し腫れた唇を尖らせて、拗ねたようにチェギョンが言う。ほんのり頬を染めているところを見ると、彼女はこういった経験があまりないらしい。
 
―――僕が初めてということは、いいことだ。何にもまして、素晴らしい。
 
ソファへ腰を下ろすと、彼女が身じろぎをして彼から少し離れようとした。シンはそれに気が付いたけれど、気がつかないふりをする事にした。あまり積極的な行動をし過ぎると逃げられてしまうから。いつか、彼女の方から自分へ近寄って来る時まで。
 
―――必ずそうしてみる。


 

「そうかな?僕としては、かなり譲歩したつもりだよ」
彼の言葉に彼女が顎を上げた。シンの言葉に異議があるようだ。
「紳士らしさをかなぐり捨てていたら、あのホールで君の唇を奪い尽くしたところだった」
シンのその言葉で、チェギョンは真っ赤になった。そして居心地悪そうにキョロキョロとしている。彼は彼女のお腹の前で儀よく組まれた細い手を取り、ゆっくりと自分の口へ持ち上げた。目を伏せている彼女の睫毛は、長く豊かだ。

「チェギョン…」
そっとその名を口にする。頬に影を作っていた睫毛が上がり、ブラウンの大きな目が現れた。華奢な指さえも愛おしい。女性の指にこれほど愛着を感じたことなどかつてなかったことなのに、チェギョンは特別な副作用を起こすらしい。間接にキスをして、彼女の目をまっすぐ見つめる。
「君がいなくなって、僕は気が狂いそうだった。図書館へは毎日出かけたし、スタッフを見るたびにつかまえて、君のことを問いただしたよ」
彼女がじっと彼を見つめていた。瞬きさえ忘れているようだ。シンは微笑み、優雅なアーチを描く眉を人差し指でなぞった、

「どうやら、僕は君に夢中らしい」
ポロリと本音が口についた。


 

彼の声が聞こえているのに、聞こえない。その不思議な感覚はチェギョンを軽く混乱させていた。深い湖の底に漂っているようで現実なのか夢なのかそれさえも不明。ただ胸の奥が温かくなって、指先までじわりじわりと温もりが広がっていく。
ふっと彼が苦笑した。大人の男性のそんな表情に、チェギョンは見とれていた。困った顔さえも彼にハンサムな顔を妨げる障害にはならない。どんな表情だったら、彼は不細工に見えるのだろうか。

「見つめてくれるのは、嬉しいけど。なんとか答えてほしいな。これでも、内心緊張してるんだ」
緩やかなカールした前髪を彼がかき上げた。
「女性に関しては、百戦錬磨、でしょ?」
長い指がカールした髪の中に埋もれていく様を見ながら、チェギョンは呟いた。
「僕が?」
とぼけているのか彼が答えた。
「全く、根も葉もない噂だ」
長いため息を吐きながら答えている。
「ちがうの?」

彼女が首を傾げた拍子に、顔の周りの後れ毛がふるふると揺れる。
「ちがうね。こんなに緊張することは、かつてない経験だよ」
シンが彼女の頬にかかる髪をそっとサイドによけると、チェギョンはびくりと反応し目を伏せてしまった。無垢な乙女らしい仕草に、どきんと胸が鳴る。こんな子どもみたいな触れ合いなど、久しくしたことがない。そして自分の心臓はドキドキと鳴り、そのうち胸板から飛び出してきそうだ。人並以上に鍛えているつもりの体だというのに。
「そろそろ、答えてほしい」
まるで、サカリのついたオスのようだ。青臭い子どものように、性急に答えを求める自分が滑稽だ。けれど、大人の男としての余裕を捨ててでも、彼女を強く欲している。図書館で初めて会った時から、だ。
「どう答えればいいの?」

やっと彼女が口を開いたと思ったら、飛び出してきた言葉は、またもや疑問形だった。