シンはポンとソファにチェギョンを投げだした。余りに突然のことで不意打ちを食らった彼女は、彼のお気に入りの大きなソファの上でバウンドした。
「きゃぁっ。シン君っ、乱暴よ」
デニム生地のソファに横になったまま、彼女はソファの前に立つ彼に向かって口を尖らした。まくれ上がったスカートを彼が必死に見ないようにしていることなど、この時のチェギョンは知らなかった。
「もうっ、信じられない」
あの優しいキスをしてくれたシンと同じ人物なのだろうか。ひどくぞんざいに扱われた気分。
ブツブツ言いながらチェギョンはソファに座り直した。ついでにスカートも整えて。シンの目線がさっとそのスカートの裾に動いたような気がして、彼女は彼の顔を見たけれど、その時、彼の方は素知らぬ顔をしていた。チェギョンが睫毛の下からじっと彼を観察したところ、彼は意図的に知らんぷりをしているように見える。
「シン君、聞いてるの?今のシン君、ひどいわ」
チェギョンは彼の手を掴んだ。


「なぁ」
どすんと彼がソファのアームに座る。
長い脚を投げ出し、片腕は背もたれに伸びている。まるで雑誌のモデルのポーズのようなその姿にチェギョンは見とれてしまった。ひどい扱いを受けて気分を害しているのにも関わらず。
「な、なに?」
この広いリビングの空気が急に薄くなったような気がする。チェギョンは瀕死の魚のように口をパクパクと開け閉めした。
彼がずいっと大きな体を近づけてきた。心臓は狂ったように動いていることは、彼には内緒にしておこう。

 
―――私ってば、どうしちゃったの?
 
シンとこうして二人で居ることも、こんなふうな近い距離で話すことも、いつものことだと言うのに、普段の二人とは明らかに違う。見えそうで見えない答えにチェギョンはモヤモヤとした。


 
何か言いた気に自分を見ている彼女に、シンは微笑んだ。チェギョンは彼女自身の気持ちに気づいてないだけだ。だったら、そのキッカケを与えれば、必ず正しい答えにたどり着くだろう。そう、『シンを好きだ』という答えに。
 
「どうして、僕の服にそんなに興味があるのか、その理由をちゃんと考えてみて」
「え?理由?」
大きな目が落ちそうになるぐらい見開いて、きょとんとした顔をしてる。シンはチェギョンの顔を真剣に見つめた。
―――どうか彼女が真実に気づいてくれますように。
祈るような気持ちで、答えを待つ。

「そう、理由だよ」
「うぅぅぅん」
人差し指を唇に当てて、チェギョンが考え込んでいる。

「うぅぅぅぅん…」

ジレジレと答えを待っているシンには、永遠とも思える時間が流れ、彼は彼女の顔を凝視した。とても簡単で、明白な答えだと言うのに、どうして彼女はこんなにも考え込まなければならないのだろうか。昔から少しばかりぼんやりしているところがあると思っていた。もちろん、チェギョンのそんなところがまた、愛らしいとも感じているけれど。

「あっ」
パッと目が光りチェギョンがシンと視線を合せ、にっこりと―――彼を虜にする笑み―――やっと口を開いた。
「分かったっ」
そうか。答えが見つかったか。シンはホッとした。あとは「Yes」と褒めてやるだけだ。
「そうか。で?」
シンが体を乗り出しチェギョンの顔に近づくと、彼女は
「たぶんね、あの服、新作でしょう?ショップで見たの。それで、シン君に似合いそうって思ったんだった」
パチンと両手を叩いた。
「やっぱり似合ってたから―――ってあれ?」
チェギョンが眉間にしわを寄せ、考え始めた。


彼女の頭の中はどうなっているのだろう。服が似合っていることと、機嫌が悪くなったことの因果関係に気づいていない。

―――自分が間違ってなければ…彼女は僕に惚れているはずだ。
後は彼女が自分の気持ちに気づきさえすればいい。


「ううんっ。チェギョン、大事なことを見落としてるぞ。つまり―――」
「何かがオカシイ…」
シンがはやる気持ちを抑えて、彼女の心を解き放とうと決心したと言うのに、肝心のチェギョンの関心はあらぬ方向へ向いているようだ。
「オカシイわ、絶対っ」
ブンっと首を大きく動かし、頷いた。

「首が…もげそうな勢いだな」
思わずシンは呟いた。今の今まで、彼女の気持ちを何とか自分へ向かせようとしていたことも、どこかへ消えそうになる。
「だってぇ、絶対おかしいもん」
「なにがだ」
ここにきて、彼女が完全なる『ピント外れのお嬢さん』であることを認めたシンは、げっそりとしてしまった。力なく座面に座り直し――― 一端作戦を練り直すときだ―――ソファの背もたれに両腕を伸ばして、ぐったりと体重をかけた。

彼女は先ほどまで彼に見せていた警戒心を解き、普段のように彼のすぐそばに座り直して、首を傾げた。―――揺れる産毛。甘い香り。
シンはそれらの魅力に気づかないふりをする事に決めた。気づいてしまったら、きっと走り出した気持ちは止められない。

「おかしいと思うでしょ。ね」
彼のすぐそばまで彼女は近づき、顔を覗き込んできた。そんなふうに近づかれたら、抑え込んでいる欲望に火が付いてしまいそうだというのに。
「僕には意味が分からない」
彼の言葉に、チェギョンが眉を吊り上げた。怒った顔だってシンには魅力的にしか映っていない。
「どうしてわからないの?絶対おかしいのに、シン君って勘が鈍いのね」
「その言葉、そのまま丸ごとチェギョンに言いたいぞ」
彼は小さな声で独りごちた。
「何か言った?」
「いや、何も。で、何がオカシイのか教えてくれ」
「知りたい?」
チェギョンの目がお茶目に輝きだした。
「そうだな、知りたいよ、全部…チェギョンのことは」


シンの瞳に妖艶な炎がちらっと見えたような気する。チェギョンの心臓が急に大きく音を立て始めた。
こんな風に感じるのは、初めてだ。今日は何故だか、いろいろと様子がおかしい。シンと自分の間に、何かが起こっているような気がしてならない。
「と、とにかくねっ!オカシイことがひとつあるのっ」
「ふーん」
明らかにそのことに興味を失っている彼に、チェギョンはイラついた。
どうしてシンに伝わらないのだろう。いつだって彼は自分のことを理解してくれたと言うのに。

「シン君、ちゃんと聞いて!」
「聞いてる。とにかく、説明してくれ」
ヒラヒラと手を振った彼に、チェギョンは横目で睨みつけると、おもむろに説明を始めた。

「その服がシン君に似合うだろうなって思ったことはいいでしょ」
「ああ、そうだな…」
シンが億劫そうに頷いた。
「それでね、シン君に似合ってるの、やっぱりすごく」
「ふん、それはどうも」
つまらなそうに彼が掛け時計を見ている。
「それでっ、それが嫌なの!似合いすぎてるのが、嫌だったの」
「それは不可解な方程式だな」
横目で彼が彼女を見て、そして、今度は窓の外を見ようと首をひねっている。
「だって、だって。みんなが見てたんだもん…シン君のこと、ウットリとした目で。あんなの許せない。――――シン君は、シン君に、シン君を…あんな目で見ていいのは、私だけのはずだから」



*****



「はぁっ…」
チェギョンが大きく息を吸った。ほんの少し息苦しさが消えたと思った瞬間、シンの唇が再び落ちてくる。
頭の中は霞がかかり、チェギョンは『今、自分がどこにいて』『どんな状態で』『どんな顔をして』彼からのキスを受け止めているか、分からなかった。
分っているのは、ただ、『彼にこうされることが嬉しい』という事。
そして、自分の心の奥底に深く根を下ろしていた彼への想いに、初めて気づいたという事だけだ。
 
―――私…シン君の事が好き。

気が付けばシンの膝の上に抱かれ、唇が腫れるほどのキスを繰り返していた。


「チェギョンが好きだ。ずっと前から」
「シン君…」
思いがけない彼女からの可愛らしい告白は、彼が必死に抑えようとしていた最後の砦をあっけなく壊してしまった。あんなふうに言われて、抑えることが出来る男がいるのだろうか。いるわけがない。仮にいたとしたら、その男は相手の女性を『好きだ』と思い込もうとしてるだけ。自分が彼女に抱く、抑えても抑えても湧き出てくる想いとは全く別物に決まっている。
卵型の顔を見つめる。今までだってこの距離でこうして顔を寄せあったことはある。けれども、もう自分の心に嘘をつかなくていいのだ。
 
―――好きだという想いを隠すことなど無い。

シンは想いの丈を込めて、チェギョンと視線を合せた。
両手で小さな頭を挟み、飽きることなく見つめ続けてていると、彼女の顔が赤く染まってくる。
恥ずかしそうなそんな表情は、いつだって兄のものだった。チェギョンのこの可憐な顔を独り占めしてきた兄に嫉妬してきた。
けれども―――

「全部、僕のものだ」

これからは、ずっと。


 
~end~
 
 
 
「ねぇ…あのぉ…」
「どうしたんだ」
シンはチェギョンの下唇に親指を滑らせながら、返事をした。
「ちょ、ちょっと時間オーバーじゃない?」
心配そうに彼女が黒い掛け時計を見た。まだ夕方だ。夏の夜はまだまだ先。
「そうか?外は明るいぞ」
顎で窓の外を指すと、チェギョンがムッとした顔をする。彼女は自分の意見が通らないと、こんな風に頬を膨らませる。ただし、それはシンの前、限定だと知っている。人前では聞き分けの良い姿を見せるチェギョンが、どうしてだか昔からシンの前では我儘な一面を見せていた。
 
そのことを考えると、シンは喜びが胸に広がるのを感じた。
もしかしたら、チェギョンは彼女自身が気づかないずっと前から、シンのことを想っていてくれたのではなかろうか。
 
「明るさよりも時間!」
細い指を掛け時計に向け、チェギョンが鋭く言った。
 
「チェギョン、知ってるか?」
「な、なに?」
シンは彼女の頬を指の背で撫でた。ぷるるんと弾力ある肌。彼は顔を下げ、自分の膝の上に抱いた彼女に近づいていった。二人の唇が触れ合う瞬間。
 
 
「…恋人同士には、夏の間は時間は無視だ。明るさで判断すべし」
 
そして甘い唇を堪能することにした。