ふふふ。
チェギョンは思い出し笑いをした。
ふふふ。
何度思い出しても笑いがこみ上げてくる。5歳のシンが昼寝で世界地図を描いた話が、ふとしたときに蘇ってきて、どうしても笑いが抑えられないのだ。
 
この国の王子であるシンも、可愛い坊やだった時代がある。王室育ちの彼は、年齢の割に落ち着いたところがあり、博識だ。彼と一緒にいると自分がとても小さく未熟だと不安になることも多い。そんなチェギョンを気に掛けてくれた王妃が、時々ティータイムに彼女と王太子妃を招いてくれる。女性だけのくだけたティータイムで、王妃が王子たちのエピソードを教えてくれる。そこで語られる彼らは、ごく一般の子どもたちと同じ愛らしさを湛え、チェギョンはホッとする。シンとの距離が少し近づくような気がして。
 
「何を笑ってるの?」
「あ、ごめんね、ジュレーヌ。」
親友のジュレーヌを宮殿に招いて、おしゃべりをしていた最中だった。
「で、何を思い出し笑いしてるの?」
「それは内緒よ。」
ジュレーヌが目を細めた。
「ふーん。ということは、シン王子の事ね。チェギョンが内緒にする対象は王子だもの。」
チェギョンは肩をすぼめて、YesだともNOだとも答えないことにした。親友はケーキを一口食べた。
「いつご馳走になっても、宮殿のケーキって最高ね。」
「そうね。食べ過ぎちゃいそうになるのよ。」
「フーム…。それはちょっとした試練。目の前に美味しいものがあるのに、我慢しなきゃならないなんて。」
二人でクスクスと笑う。
 
「そういえば、チェギョン、ロビンの事はどうなったの?最近、あなたからその名前を聞かないけど。」
「そうなの。それ、私も不思議なんだけど…。」
多分、おそらく。これはチェギョンの憶測だけれどもほぼ間違いないだろう、シンが何かしてくれたのだ。
「シン君、なのかな?」
「王子?」
チェギョンは頷いた。あれほど頻繁にチラチラと現れていたロビンが、ここのところ全く姿を見せない。
「王子は何て言ってるの?」
「さぁ?」
ジュレーヌが眉を上げた。
「『さぁ?』ってなぁに?王子に聞いてないの?」
「うん。」
「聞かなくていいの?」
「どうかな…。」
 
 
 
****
 
 
「今日はジュレーヌが来たんだろう?」
「うん。」
シンはシャワーを浴びた髪をガシガシとタオルで拭きながら、チェギョンを振り返った。黒のミディ丈のワンピース。スクエアの胸元に、細いストラップ、胸の下から広がるそれは、濃いパープルの四角いポケットが左右についている以外はシンプルなデザイン。彼女が動くたびに、フワフワと服が揺れ涼しそうだ。夜寛ぐときによく着ている。ポケットのパープルとお揃いのカーディガンをふわりと肩に羽織り、チェギョンが蝶のようにフンワリと優雅にソファに座った。
彼はその様子をじっと見つめた後―――実は無意識に彼女を目で追ってしまった―――、彼女の隣に自分も腰を下ろした。背もたれに腕を伸ばし、彼女が注いでくれたペリエのグラスを掴んだ。ゴクンと一気に飲み干したとき、チェギョンが自分を凝視していることに気づいた。
「どうした?僕の頭に角でも生えてるか?それとも、鼻が伸びたとか?」
「ピノキオみたいに?」
彼女が微笑んだ。そして細い指が彼の鼻梁をすっと撫でた。
「…シン君の鼻がピノキオみたいに分かりやすかったら、私、便利だなって思うかも。」
「どうして?」
チェギョンの言う意味が分からない。シンが首をかしげていると、彼女が口を開いた。
 
 
「隠し事がいっぱいでしょ、シン君は。」
「隠し事なんてしてないさ。チェギョンが尋ねるなら、答えるよ。」
彼女が疑わしそうに目を細めたから、彼は小さな鼻を押した。
「本当だとも。チェギョンは何が知りたいんだ?」
「別に聞きたいことはないけど…。」
そう言った割には、歯切れの悪い言い方だった。多分、ロビンの事だろう。けれどもシンは自分からヤツのことを話すつもりはなかった。
「…チェギョン。過去のことをあれこれ言っても、終わったことだ。そうだろう?」
小さな顔を覗きこむと、彼女が瞬きをしてそれから彼の瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。
「―――うん、そうね。」
「そうだよ。」
終わったことなのだ。もう。
自分たちに必要なことは前を向いて歩いていくことだ。
 
「それよりチェギョン。」
「なぁに?」
「は、母上のティータイムの招待は、さ、最近はあるのか?」
彼女が大きく目を見開き、それから笑い出した。ひとしきり笑った後、チェギョンが彼の膝の上にまたがってきた。細い腰を掴んで見つめあう。
コツンと二人の額を合わせると、彼女が言った。
「シン君がね、普通の子どもだったってことを知ると、私、また一歩シン君に近づける気がする。」
「なんだそれは。」
彼女の言う意味は彼には分かった。けれども、とぼけることにした。彼女が不安とプレシャーの中で過ごしていることを知っている。それを乗り越えてほしいから。シンの兄の妻は名家の出身だ。それでも王室の一員になるために苦労を重ねている。
「僕はチェギョンに試練を与える存在になりたくないんだ。」
シンはぎゅっと彼女を抱きしめた。
「大丈夫。シン君と居ることが、私の幸せだから。」
「チェギョン…。」
彼女が彼の首に顔を埋めた。
 
 
シンの言いたいことが伝わってきた。王子であることを気にいしているのは、実はチェギョンよりも彼だ。彼は彼女に沢山の試練を与えていると、自分を責めている。
「違うのよ。」
「チェギョン?」
チェギョンは体を起こすと、彼の顔を両手で挟んだ。
「シン君が王子でも、王子じゃなくても、私はシン君と恋に落ちた。一生、傍にいたいって願った。」
そっと唇を重ねる。
「月の明かりにしか照らされなかったときも。こうして太陽のもとで明るくさらされている今も。私にとって大事なのは、シン君だけなのよ。」
分かってほしい。王子である自分を否定しないでほしいと。
「だってね、シン君。あなたが王子じゃなかったら、私たちで会うことができなかったでしょ?」
「…そう、だね…。」
喉の奥が詰まったような彼の声。
「愛している、私の王子様。」
 
大きな窓から陽射しが降り注いでいる。瞼を閉じていても、明るい太陽を感じられた。
 
―――どんなシン君だって、私は必ず彼を愛した。
 
ソファに押し倒されながら、チェギョンは微笑んだ。
 
 
~end~
 
 
 
二人の結婚のお祝いに、シンの遠い親戚であり、チェギョンの友人である隣国の王女から絵画のプレゼントが届けられた。
 
「どんな絵かしら。」
チェギョンはソファに腰かけて、侍従たちが絵を運んでくるのを待っていた。
「キュービズムかもしれないぞ。」
夫になったばかりのシンがからかう。
部屋に運ばれてきた絵に彼女は視線を向けた。
 
「これ…!」
夫を見つめると、彼は優しく微笑んでいる。
「とても可愛いね。出会った時のチェギョンを思い出すよ。」
二人が出逢った王女の誕生日パーティー。あの時のチェギョンとシンが描かれていた。そしてそのタッチに見覚えがある。
 
「ロビンね。これを描いたのはロビンだわ。」
これですべてが分かった。
「芸術には金がかかる。ロビン・キャンプは経済的に行き詰っていて、早急に金が欲しかったんだろうな。」
だからチェギョンの前に現れたのだ。スキャンダルをネタに報酬を受け取ることになっていたのだろう。
「調べたら、ロビンは結構才能があったんだ。」
忌々しそうな夫の口調に、チェギョンは笑った。
「そうなのよ。彼、国内の賞をよくとってたし。」
「たまたま『根性のある弟子』なら、王室と関係の深い画家が弟子をとってもいいって言いだしたんだ。」
「シン君、ありがとう。」
自分の夫は思いやりのある心の広い男性だ。
 
「あいつがチェギョンの前をチョロチョロするのが許せないだけだ。弟子入りしたら、フラフラする暇もないだろう?」
「そうね。」
チェギョンはそれ以上は言わないことにした。彼が照れているから。
 
「これ、どこに飾る?」
「玄関ホールにしよう。ロビン・キャンプが描いた絵を僕たちの寝室や居間に飾りたくはないぞ。」
「そうね。」
彼女は再びそう答えた。けれども妻は夫の気持ちを分かっていた。毎日帰宅するたびにこの絵が自分たちを出迎えてくれることを。シンは最初から玄関ホールに飾る絵を所望したのだろう。何もかも、チェギョンのために。
 
テキパキと指示を出している彼の姿が、チェギョンの目には涙で歪んで映っていた。