シンが単なる図書館への用事だけで、チェギョンについて来てくれたはずがない。彼女がそっと彼の横顔を盗み見ると、
「僕の顔に角でも生えているのかな。」
彼は前をまっすぐ向いたままそう言った。
「シン君!気づいてたの?」
ゆっくりと顔をこちらに向けた彼が、白い歯を見せて笑う。かつてあの笑顔は、彼のガールフレンドたちに黄色い声を上げさせ、そんな様子が撮られるたびにチェギョンを切なくさせてきたものだ。
 
―――今は私だけのもの。
 
小さな優越感が芽生え、彼女はそれを必死に見ないことにした。シン王子の妃になる立場だと言うのに、そんな心が狭い人間でいるのは失格だ。チェギョンは大きく息を吸い込み、彼を睨みつけることにした。
「シン君には角が生えたのではなくて、もう一つ目があるのね。」
彼が笑う。
「チェギョンの熱い視線を感じるセンサーが、僕にはあるんだよ。」
「あら、そう。」
素っ気なく言われてしまったけれども、彼女は単純に嬉しかった。彼にって自分は特別な存在だと暗に言われているような気がして。
 
「チェギョン」
「なぁに?」
彼が真剣な眼差しで自分を見ていることに気づいた。
「覚えておいてほしい。…僕にはチェギョンしかいないんだ。他の誰も、チェギョンの代わりにはなれない。」
「シン君…。」
繋がれた手に力が入り、彼女は彼を見つめた。ふっと彼の表情が緩み、おどけたような顔をして言いだした。
「だから、僕以外の男が、チェギョンに近づくことは許さない。」
「シン君ってば」
彼女は微笑んだ。彼が少しばかり子どもぽく見えたから。
「ロビン・キャンプのやつ、一体どういうつもりで、僕たちの前をウロチョロしてるんだ?」
「そうね、それについては私も同じ気持ち。」
大学へ来るのが憂鬱な原因は、ロビンの事があるのだから。
「いっそ、僕の前に姿を見せればいいんだ。それなのに、あいつは僕がいないばかりを狙って、チェギョンに近づくんだからなぁ。」
彼の言う通りだ。チェギョンは小さなため息をつくと、シンの腕に頭をもたれさせた。自分はただ、シンと一緒にいたいだけなのに、どうしてそれが思うようには進まないのだろうか。
 
 
 
今日もまた、ロビン・キャンプは遠巻きに彼女を見ている。シンは建物の窓からチェギョンを見つめているロビンから視線を外さないようにしていた。向こうはある意味利口だ。シンが王子であることをうまく利用しているように見える。自分がただの男なら、婚約者の元の恋人にツカツカと近寄り、胸ぐらのひとつでも掴んで実力行使に出るだろう。
けれどもそう言うわけにはいかない立場だ。
今まで数々の不利益を感じ―――もちろん、その反対のときもあるのだろうけれども―――時に、王子であるということが煩わしいこともあった。今回ほどそれを強く感じることはなかった。
 
「ねぇ、シン君」
「なんだ?」
チェギョンの方は自分が一緒にいることで随分リラックスできているようだ。ロビンがいることは気づいているらしいが、それについて気にする素振りが見えない。
「今日は早く戻らなきゃダメなの?」
「いや、そんなことないよ。」
彼女が首を傾げ、彼を見上げてきた。真っ白な喉が見える。あの喉の窪みにキスをすると、チェギョンは必ず甘い声をあげるのだ。
「じゃあ、我がまま言ってもいい?」
「もちろんだ。チェギョンの我がままなんて、我がままのうちに入らないさ。」
彼女がいたずらそうに笑って、シンの肩をつついた。
「そんなこと、分からないでしょ。実はすごーく、我がままなことを言うかも」
「いいから、さあ、言ってみて。」
一瞬躊躇したような彼女が、
「動物園に行きたいの。」
意外なことを口にした。
「動物園?」
「そう。動物園よ。」
よっぽど間抜けな顔をしていたのだろう、シンの反応が面白いのかチェギョンが笑う。
 
 
****
 
 
「ね、ね、ね。早くっ」
チェギョンにグイグイと引っ張られ、シンは声を上げて笑った。
「そんなに急がなくても、動物たちは檻の中にいるよ。」
平日の昼過ぎ、陽射しはまだ高くて恋人たちのデートタイムというよりも、家族連れがのんびりと楽しんでいるような時間だった。
「コアラって、不思議ね。毒性の強いユーカリが主食なんて。」
大きなガラスの向こうに、ぬいぐるみのような生き物がいる。モコモコした毛に比べると、あの黒くて長い爪は、少々恐ろしい。ガラスに鼻先が付きそうなぐらい手すりから身を乗り出している彼女の細い腰に、シンは腕を巻き付けた。
「どれどれ。」
彼は彼女の背中にピタリと寄り添うように、ガラス面に顔を近づけた。
彼女のこめかみがすぐ顔の横にある。シンは唇を押し当ててた。
「む、むこうから見たら、私たちのことどう見えるのかしら。」
「コアラが?」
シンはそのまま彼女の柔らかな耳たぶを口に挟んだ。
「そ、そう…シン君、ダメよ…。」
小さな抗議の声を無視することにした。
「きっと、思ってるだろうな。」
「どんなふうに?」
「『人間って、耳たぶが美味しいのかな』ってね。」
「シン君ってば、冗談ばかりね。」
クスクスと笑い出した彼女の体を反転させ、シンは向かい合った。
「僕としてはね…耳たぶよりも、こっちの方が好きだよ…。」
しっかりと唇を合わせ、彼は“大好物”を味わうことにした。
 
 
**
 
 
「どこで狙ってるか分からない。」
チェギョンは動物園から帰りの車の中で、呆れた声を出していた。ほんの1時間ほど前の二人の姿が、SNSで上がっていた。ハンドルを握るシンが、乾いた笑い声をたてている。
「チェギョンが可愛く撮られているなら、僕はそれでいいね。」
「シン君はいつも通りハンサムよ。」
チェギョンは本当にそう思っていた。そして自分たちのキスシーンをじっくりと見た。少しばかり照れくさいけれど。
客観的に見て彼の仕草の全てが、チェギョンを大事にしていると物語っている。頭を支える指も、腰に回された腕も、見つめてくる瞳も。
「そんなにじっと見つめて、どうした?」
「え?あ、う、ううん。何でもない。」
顔を上げると彼が優しく微笑んでいた。信号が赤になっていたようだ。
「僕のチェギョンへの気持ちが分かったか?」
「な、なに?急に…。」
「ふーん、とぼける気か。」
「何のことを言ってるのか、私にはわからない。」
ツンと窓の外に視線を向けた彼女の後ろで、彼が笑っていた。ガラスに反射するシンが、口だけ動かして「愛している」と言ってくれた。
車が動き出した時、チェギョンは小さく呟いた。
「本当に、王子なんだから。」
ひとつずつの言動が、彼は王子様だった。
 
――――どうか誰もこの幸せを壊さないで。
 
ガラスに映る端正な横顔を見つめながら、チェギョンは心から願った。
 
 
*****
 
 
チェギョンが普段使っている王室の車が大学で止まった。ロビン・キャンプが近づいていく。シンは木の陰からその様子を見て、ロビンの背後から近づくことにした。
 
「残念だな。チェギョンは乗ってない。」
ロビンが振り向いた。シンを睨みつけてくる顔は、ひどく苛立っているように見えた。
「―――チェギョンを自由にさせてやれ。」
「自由?何から?」
シンはロビンに近づきながら答えた。
「王室からだ。もっと分かりやすく言えばいいか?」
その言葉を無視してシンはもっとロビンに近づいた。
「スキャンダルは相当金になりそうだな。」
ピクリとロビンが反応した。
「一時でも、チェギョンを好きだったのなら、彼女を傷つけるのはやめてほしい。チェギョンはそんなふうに傷つけられるべき女性ではない。むしろその反対だ。」
シンはジャケットのポケットから1枚の紙きれを出し、ロビンに差し出した。
「これは…?」
ロビンの手に押し付けると、相手はそれを広げそれからシンを見つめてきた。驚いているようだ。
 
「調べたよ、君のことを。だからそこへ行くといい。」
「――――い、いいのか?僕はチェギョンに…」
シンはむすっとしたまま頷いた。
「チェギョンの事が無かったら、こんな親切心を働かすつもりなどないぞ。彼女を守るためにも、そうしてもらわないと困るんだっ」
シンが怒りを抑えつつ言うと、ロビンは彫刻のように動かなくなり、王子の本心を探っているようだった。そしてかなりの時間が経ってから、ぴょこんと頭を下げると、何も言わずに去って行った。
 
「なんだあいつ。お礼の一つもなしか。」
シンはホッとしつつも悪態をついた。彼の後ろに側近のジャズミンが現れたからだ。
「これでもうチェギョン様の周りをウロウロすることはないでしょうね。」
「そう願うよ。」
シンはため息まじりに答えた。
「それはそうと、チェギョンは?」
「王妃様とのティータイムがそろそろ終わりそうですと報告が入っています」
それなら宮殿へ戻ろうと、シンは体の向きを変えた。歩き出した彼にジャズミンの静かな声が追いかけてきた。
「王妃様が、チェギョン様に殿下の5歳の頃の話をされたそうです。」
シンは足を止めて、振り返った。ジャズミンな顔はいつも通りだけれども、その目の奥が楽しそうにしているように見えた。
「まさかと思うが…。」
「チェギョン様が楽しい笑い声をあげていたと報告されています。」
「くそっ。母上にはあれほど『余計な事』をチェギョンに話さないでほしいと念を押したはずなのに。」
5歳にもなった王子が、昼間聞いたゴーストの物語が怖くて、昼寝の時間だと言うのにベッドから一人で出られなくなり、挙句の果てには清潔なシーツに世界地図を描いたことを母が婚約者に話したことは間違いなさそうだ。