カチャリと控えめなドアノブの音で、チェギョンは目を覚ました。夕食のあと、シンはジャズミンと執務室へ籠ってしまい、話し相手がいないチェギョンはベッドに横になって本を読んでいるうちに眠ってしまったようだ。
婚約を機にシンの宮殿に住んでいる。警護の問題もあり、これが一番安全だからと、彼と彼の家族に言いくるめられたようなものだった。そう、ロビンが突然目の前に現れるまで、チェギョンはシン達の言葉を「王室の人って大袈裟ね」と半ばあきれ笑っていた。
けれども、王室こそ正しかったようだ。街中で突然、見も知らぬ相手にあんなふうにされたら、動けなくなってしまうだろう。
シンが冗談めかして「チェギョンより、王室歴は長いんだ」と言う通り、一般の人とは違う世界で生きて行くのは、自分が生きてきた世界とは違った価値観と警戒心が必要だと、あらためて思った。
 
シンは毛足の長い絨毯の上をそろりそろりと―――チェギョンを起こさないようにとの配慮から――――近寄って来た。彼女は寝たふりをした。事実夢心地で、現実と夢の世界の境目は曖昧だから。
大きくて温かい手が、彼女の肩をそっと撫でた。その時チェギョンはくるりと体の向きを変え、彼と目を合わせた。シンが目を大きく見開いていた。
「終わったの?」
「うん?」
「ジャズミンと部屋に籠っていたでしょ」
「ああ…それね」
シンが身を屈めてチェギョンの額に唇を当てた。いつもの彼の香り。森林の奥にいるようにチェギョンを安心させてくれる香り。
「シン君…」
不安な気持ちが消えない。こんな夜は彼に強く抱かれたい。チェギョンは腕を伸ばし、彼のたくましい胸板を撫で、そのまま肩から首へと動かし、喉仏にキスをした。
それだけのサインがあれば、二人には十分だ。ほどなくシンは彼女の想いと願いを分かってくれて、大きな体でかかぶさってきた。彼の重みが愛おしい。
マットレスに沈み込みながら、チェギョンはシンの真っ黒な髪を指に絡ませた。
 
 
 
 
***
 
 
 
 
やはりチェギョンは不安なのだ。あんなふうに求められたのは、久しぶりだ。
最後はシンの方が「無理すると、明日、起きられないよ」と彼女に笑いながら言ったぐらい。自分の方は体力はまだまだ続くけれども、チェギョンの方は昼まで起きられなくなってしまうだろう。「ほら、僕が抱きしめているから、安心して眠るんだ」と声を掛け、もつれた髪を梳きながら甘い囁きを繰り返していると、すぐに彼女は眠ってしまった。
 
それにしても、ロビン・キャンプという男が、どうして彼女の前に現れたのだろう。単に彼女をずっと想っていたのなら、3年の月日は何をしていたのか。
チェギョンがシンの婚約者だと知り、急に彼女が恋しくなったのだろうか。考えれば考えるほど疑問が沸き起こり、彼は眠れなくなった。
 
なんにせよ、警戒するに越したことはない。
やっと彼女を日の当たる場所に置くことができた。今までじっと耐えてくれた彼女には、辛いことや悲しいことはもうたくさんだ。楽しいことと幸せだけで埋め尽くしてやりたい。
 
「う…ぅぅ…ん、シン君…」
チェギョンがもにょもにょと寝言を言う。毎日彼女と生活を共にするようになってシンは知った。チェギョンは寝言を頻繁に言うことを。そして寝言には大抵自分の名前が混じっている。何を夢見ているか分からないけれども、少なくともシンは登場しているようだ。
そのことが胸を温めてくれる。夢の中の自分が、彼女を楽しませていることを願う。
シンはすり寄ってくるチェギョンを胸に引きいれながら、自分も目を閉じることにした。しばらくは様子を見ることにしようと、ジャズミンと話し合ったばかりだ。
もぞもぞと動いていた彼女が、ぐったりと全身の力を抜きシンに体重を掛けてきた。どうやらちょうどいい寝心地の場所が見つかったようだ。枕とシンの肩と首の窪みの間に、彼女の小さな頭が乗っている。
互いの素肌を通して、彼女の首の脈が伝わってきた。ゆったりとしたそれを感じながら、シンは目を閉じたまま微笑んだ。
この平穏で幸せな時間を、誰にも邪魔などさせない。
 
 
 
*****
 
 
 
「行ってくるよ」
「うん…待ってます」
玄関の車寄せでチェギョンはシンを見送るために、向かい合っている。
今朝は寝坊してしまった。彼女が起きた時には、彼は既にシャワーを浴び身支度を整えていた。電光石火の勢いでシャワーを浴び、まだ半分湿った髪のままライトベージュのワンピースを着た。フレンチスリーブの袖に小さなフリルが付いている以外はシンプルなこのワンピースだけれども、柔らかに体の線に沿って流れている生地と、ふわりと風に揺れるように広がる膝丈のスカートは、きっと彼の好みだろう。
『早く帰ってきて』と言えない代わりに、彼の好みの愛らしい姿でそれを伝えたい。
 
チェギョンが考えた通り、彼は少々不躾に上から下まで彼女を見つめてきた。その後、手首を掴まれ抱き寄せられると、ジャズミンが部屋にいると言うのに、いつもより熱い“おはようのキス”をされてしまった。
 
今もまた、さっきからシンの手はチェギョンの腰に置かれたまま、一向に離れようとしない。
「――――どうして今まで気づかなかったんだ?」
「え?」
「どうせ宮殿で留守番させるなら、僕と一緒に行けばいいんだ」
「シン君、でも、何も準備してないわ」
シンがジャズミンをちらりと見て、
「準備?チェギョンはそのままで十分可愛いさ。…でも、そうだな。もう少し着飾った方がいいね。ジャズミン!」
その後、信頼なる側近に声を掛けた。ジャズミンが頭を下げ、それから近くにいる側近にボソボソと指示を出していた。
「さあ、行こう」
「で、でも…」
グイグイと彼に引っ張られ、気が付くとシンを乗せるクラウンマークの黒塗りの車に押し込められていた。
 
 
「その服似合ってる。だから、小物を変えればいい。シューズとバッグとアクセサリーを準備させてる」
「うん」
チェギョンはシートに身を預けた。そして彼の肩に頭をもたれさせ、絡めあった指先に視線を落とした。彼の言う通りだと気づいた。ひとりで宮殿で留守番をしていたら、一日中何も手につかない。こうして彼の傍にいる方が、100倍安心できる。
「―――シン君」
「うん?」
彼女は顔を上げ、いつも以上にハンサムな彼を見つめた。薄いグレーのグレンチェックの三つ揃いに、真っ白なシャツとスーツより一段暗いダークグレーのタイ。シンの真っ黒な髪にピッタリだった。形よく胸のポケットにおさまっている白いチーフを、チェギョンは指先で触れながら
「愛してる」
ため息のような声で囁いた。
「僕もだよ」
顔を下げてきた彼が、二人の唇が重なるときに囁き返してくれた。
 
 
 
 
「今日はどんなお仕事なの?私、全然、内容を知らないの」
「そうだったね」
確かに彼女の言う通りだ。同伴させるつもりがなかったこともあり、彼女に何も内容を伝えてなかった。それでもいづれ彼女の王子の妃として、知るべき事柄だ。だからシンは、大雑把な内容とその意義を彼女に伝えた。
 
ふんふんと頷いていた彼女だったけれども、大まかな説明が終わると、今度は眠たそうな顔をしていた。
「寝てていいよ」
「ダメよ。だって撮られてしまうもん」
拗ねたように唇を尖らせている顔が、可愛らしい。
「こんな道中を狙うカメラなんてないよ。近くなったら起こすから。ほら、寝るんだ」
相当眠たかったようだ。
「そう?」
目を数回瞬いた彼女が、
「じゃあ、お言葉に置甘えて。あ、でも、ちゃんと起こしてね」
ぐっと彼を睨みつけた後、今度は、彼の目を覗き込んできた。
「シン君に迷惑を掛けたくないから」
「チェギョン…誰も文句何て言わないさ」
もちろん、嘘だと知っていて彼は答えた。口さがない人たちはどこにでも存在する。
「それに例え文句を言っても、僕たちには何も関係ないことだ」
「…そう、ね」
そしてチェギョンは眠り始めた。昨日から彼女の寝顔ばかりを見つめている自分に、シンは愉快な気分になった。彼女の存在を隠していた時は、二人でいる時間に眠るなど勿体なくてできなかった。極力、起きていた。二人とも。
今こうして“彼だけの眠り姫”を思う存分見つめられことは幸せだ。
車の振動でカクンと首が前に落ちた彼女の頭を、自分の肩にもたれさせると、シンは運転手に向かって声を掛けた。
「予定の時刻に間に合うか?」
「はい、殿下。余裕をもって着くはずです」
「それならば、少しだけスピードを落としてくれ。チェギョンが寝てるんだ」
ミラー越しに運転手が微笑んだ。そして車のスピードは少しだけ落ち、カーブもいつも以上に丁寧なハンドリングとアクセルさばきで進んでいく。
 
 
シンは眠るチェギョンの顔を見つめ続けた。もともと青白いほど白い肌の持ち主の彼女だけれども、二人の仲を公にしてからはほんのりと赤みがさす肌になったような気がする。気づかないうちに 彼女の行動範囲も狭めていたのかもしれないと思うと、シンの胸はまた痛みだした。
長い年月、彼女を苦しめてきた自分だ。こうして後悔の念にとらわれ続けることが、せめてものしょく罪なのだ、甘んじて、いや、率先して受けれよう。
チェギョンを傷つけた自分には軽すぎるほどの罰だから。
 
 
 
 
 
カーブの遠心力で、体が外に流されていく。シンから離れて行くチェギョンの体を彼がしっかりと抱きしめてくれた。
「チェギョン、チェギョン…そろそろ起きて」
低く優しい声が耳元でした。シンのこうした甘い囁き声は、チェギョンの体の奥をいつも震えさせるのだ。彼女はゆっくりと目を開けた。車は地方都市の中心地へ向かう大通りに入ったところだった。
箱庭のようなこの街は、全てがとてもコンパクトで、そして可愛らしい。リゾート地としても有名なここで、世界的な子ども達の人権についての会議が開かれる。代々国王がこの国の団体の名誉総裁に就任してきた。今回、父王の代理でシンが開会の挨拶をする。
人気者の王子が出席するとあって、いつもは見たことがない女性むけのメディアの記者もやってきているようだと、チェギョンは彼ら・彼女らが付けている腕章を見ながら感じた。
 
そして、急に嫉妬心が起こった。
 
自分でもうまくそれを説明できないけれども、これは間違いなく嫉妬だ。
ずっと物陰からシンとその取り巻きたちを見つめていたけれども、あの時感じた心の痛みは、嫉妬というよりも寂しさだった。
 
「シン君」
「うん?」
チェギョンは身を伸ばし、彼の形の良い唇に自分のそれを押し当てた。おりしも車は会場の前の通りに入り、スピードは自転車程度になっていた。カメラのフラッシュが閉じている瞼の奥でも感じることができた。