とうとう、この日が来てしまった。チェギョンは鏡の前に立ち、侍女たちにされるがままだった。豪華なドレスなどいらない。今すぐにでも脱ぎたくて仕方がない。

「よく似合ってる。最高級のレースを使ったドレスだ」
ユル王太子が現れ、侍女たちが頭を下げている。チェギョンは目を伏せた。慎ましやかな態度をしているつもりではなく、この男の顔を見ることが嫌だったから。

「ふん、目の下のクマもうまく隠したな」
顎に指を1本あてがわれ、上を向かされた。シンと同じ漆黒色の瞳なのに、どうしてこの人はこんなにも冷酷な色をしているのだろうか。
シンの優しく心を包み込んでくれるような、あの瞳とは違う。

「もう少し嬉しそうな顔をしてもらおうか。悲劇のヒロインはごめんだ」
チェギョンはグローブをはめた手をギュッと握りしめた。
「―――はい、殿下」
夫となること人には、逆らわないのがいいだろう。何を言っても意味がない。
自分は囚われの身だから。

「それにしても…美しさは、素晴らしい」
侍女たちが頷いた。チェギョンは鏡の中の自分を見つめた。

―――これがシンとの挙式なら、100倍は輝いていたでしょうね。

彼の瞳が浮かんできて、チェギョンは涙を堪えた。
彼は今日の式には出ないだろう。王太子もそう思っているらしい。

結局あの日を最後に、彼はチェギョンの前に現れてくれなかった。涙が枯れるほど泣いたと思ったのに、また零れ落ちそうになる。

気が付くと王太子は部屋から出て行った後だった。これから何年も、こうして息を殺したように生きていくのだ。シンとの日々がとても遠くに感じる。半年もたってないというのに。







「用意はできてる?」
ヘミョンが振りかえる。シンは指でOKのサインを作った。
「似合うわよ。なかなか」
「それはどうも」
「あなたもこうして見ると、王子様って感じね」
「そういう姉さんだって、王女様、だろ」
笑い出した姉に、シンは肩の力が抜けた。
「父さんと母さんは…どうだろう」
「大丈夫よ。お父様もお母さまも、シンのことが一番なんだから」
国王の末弟である父は、家名よりも息子のことを優先してくれた。この計画を相談すると、
「成功するように祈っている」
一言そう言っただけだった。

「ほら、始まりそうよ。教会の扉が開くわ」
シンは姿勢を正した。失敗は許されない。一度だけのチャンスだ。


―――チェギョン、愛してる。




*****




「チェギョン、ほら」
「ありがとう」
大ぶりのグラスになみなみと注がれたフルーツジュースを、夫の手から受け取った。
シンがチェギョンの座っているソファの隣の腰を下ろした。
サンダルを脱いで大理石の床に足の裏を付けると、ヒンヤリとした冷たさが心地いい。

地中海にあるシンの別荘は、レンガ造りの広くゆったりとした邸宅で、チェギョンはすっかりここが気に入ってしまった。
「どうせまだ、国内はスキャンダルでお祭り騒ぎだよ。ほとぼりが冷めるまで、半年か1年ぐらいここに居よう」
彼がそういって決めてしまった。チェギョンにはもちろん文句も不満もない。

「夕方になったら、プールで泳ごうかな」
「日焼けに注意しろよ。ついこの前、赤くなったって嘆いてたのはチェギョンだろう?」
彼女が幅広のひじ掛けの上にグラスを置くと、夫が彼女を引き寄せてくれた。チェギョンは脚を彼の太腿の上に乗せた。ヒンヤリとしていた床から、今度は彼の体温が感じられる箇所へ移された。


「―――こんなに幸せで、いいのかな」
チェギョンは彼の首の窪みにもたれて、強い陽射しで煌めく庭のプールの水面を見つめた。





++++++


王太子との挙式。教会の扉の中を歩いた。永遠に祭壇の前にたどり着かなければいいのに、と思っていた。
その時―――。

辺りが急にざわざわとし始めた。ヴェールの下から顔を上げた時、自分の目の前にシンがいた。黒い正装姿の彼は、目が覚めるほどハンサムだ。
「どう、して?」
「決まってるだろう?僕とチェギョンの結婚式のためだよ」
「え?で、でも…」
チェギョンの手は彼に強く握られている。

「シン!どういうつもりだ」
王太子の怒りの声に、シンはゆっくりと顔を向けそれから、落ち着いた声で答えていた。
「殿下。殿下の花嫁は、あちらですよ」
そう言われて扉を見れば、花嫁姿のほっそりとした女性が立っていた。
「ヒョリン…」
シンの首根っこを掴んでいた王太子の手から力が抜けるのが分かった。


+++++



「いいんだよ。僕たちには幸せになる権利がある」
シンは妻の額にキスをした。
「なにしろ僕たちは、王太子夫妻のキューピットだからね」
「私たちっていうよりも、お義姉さまが、でしょ」

シンは微笑んだ。


姉のヘミョンには一生頭が上がらないだろう。
チェギョン奪還に動いていたシンに、素晴らしい知恵を授けてくれたのは姉だった。
「王太子には、その昔、心から愛した女性がいたはずよ」
姉の人脈は侮れない。瞬く間に、ユル王太子のかつての恋人を見つけ出し、その恋人ヒョリンが独身であることまで突き止めたのだ。
王太子とはまだ密かに続いていた。二人の間には、可愛い子どもたちもいたのだ。


そこからヘミョンとシンの説得が始まった。
一生日陰の身でいいと言い張るヒョリンを、なんとかして教会まで連れてきた。

「二組同時に結婚式をあげれば、世間の関心は二分されるわ」
ヘミョンのアイディアに乗った形で、当日、二組のカップル―――王太子とその日陰の恋人、シン王子とチェギョン―――が同時に挙式したのだった。

このスキャンダルは国内外で大きく取り上げられた。
けれども、結局は愛する恋人たちに世間の目は優しかった。歓迎ムードが批判的な言葉を打ち消してしまったのだから。


花嫁を奪い取ったあの日から、もう1か月が過ぎようとしているけれども、王太子夫妻は仲睦まじいらしい。息子と娘も宮殿へ迎えられ、王子と王女の称号を賜った。
このまま国民が受け入れてくれれば、小さな王子はいずれ王位を受け継ぐだろう。


「ヒョリン様と今までの妃殿下を比較してる記事を見たの、私」
チェギョンがシンを見つめながら言いだした。
「似てたわ、二人の妃がヒョリン様に」
「そうだね」
従兄は引き裂かれた恋人―――ヒョリンの母は未婚の母で、女手一つでヒョリンを育てあげた。けれどもそれは王室にとっては好ましい出自ではなかった―――のことを、心のどこかで求め続けていたのだろう。

「考えて見れば、ユルも気の毒だな」
「でも…先の妃も、可哀想だわ」
「そうだ。チェギョンの言う通りだよ」
シンはチェギョンの髪を撫でた。柔らかくカールした髪が、風に揺れる。
「これに懲りて、王室も柔軟になるべきだ」
いつまでも慣習にとらわれている王室の体質こそが生んだ悲劇。
「まあ、ちょっとした宣伝にはなったね」
小さな王国の王室が起こした派手なスキャンダルのおかげで、世界中にこの国のことを知ってもらうことができた。国内の紹介記事もあちこちで書かれたせいで、美しい観光立国のいいアピールになったのだ。
海外からの観光客が増えている。

「さしずめ、二組の夫婦は『観光大使』の役割を果たしたってことだな」
シンがおどけて言うと、チェギョンが笑った。
心からの笑い声に、シンは目を細めた。こんなふうに笑うチェギョンにまた出会うことができて、本当に良かった。
「じゃあ、帰国したら殿下にそう言うといいわ」
「何だって?」
「だってそうでしょう?そうやって堂々と『観光大使』に任命したってことになれば、このスキャンダルだって、とっても楽しいもの」
どうやら自分の妻は、肝が据わったところがあるようだ。
「じゃあ、ユルに言ってみるか」
チェギョンが笑いながら大きく頷いた。




*****


「愛は奇跡を引き寄せる」
「シン…?あ、あ…」
彼は力強く腰を打ちつけ、彼女に愛を注ぎ込んだ。


―――奇跡が起きただろう?


~end~