あの時、彼が私を見つけてくれた。


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きらびやかな世界は苦手だ。チェギョンはまた一歩、後ろへ下がった。
コツンと踵が壁に当たる感触。

―――これ以上は逃げられないってことね。

チェギョンは小さくため息をついた。誰にも気づかれないように。伏せた視線の先には、黒いエナメルの尖がったつま先が見えていた。と―――。

「何か美味しそうなものでも、床に転がってるのかな」
突然聞こえる低い男性の声に、チェギョンは顔を上げた。顔を上げる前から、彼だと分かっていた。
「…殿下」
モノトーンしか身に着けていないというのに、彼はなぜこんなにも眩しい存在に映るのだろう。チェギョンは自分がポカンと小さく口を開けていたことに気づいた。慌ててハンサムなシン王子の顔から視線を外し、目を伏せた。マナー通りにしたつもりだけれども、本心は違う。王子が自分を見つめるその視線が、こそばゆかったからだ。





年を追うごとに、パーティという名の“花嫁探し”の会が、あからさまになってきた気がする。シンは今夜もため息をついていた。もちろん、心の中で。きらびやかなドレスが行き来するこの広いホールの中で、彼が見つめているのはたった一人だけだ。

リトルブラックドレスを着た“彼女”、チェギョン。
シンプルで上質な黒いドレスを着た彼女は、とても可憐だ。ボートネックの肩は、左右に小さなリボンが付いている。細いウエストから膝まで広がるスカート。クラシカルなドレスと、これまたクラシカルなパールのネックレス。彼女の小さな手のその細い指先の赤いネイルだけが、唯一の“カラー”だろうか。

―――いや、ちがうな。

シンプルなドレスが、繊細な顔立ちを際立たせている。
真っ白な肌に、ピンク色の頬。艶やかな褐色の髪と薄茶色の瞳。キスをねだっているように見える小さな唇。

「さあ、教えてくれるかな。何が落ちていたのかって」
シンはそっと顔を下げて、彼女に近づけた。
ふわりと甘い香りが漂う。シンが胸いっぱいに吸い込みたくなる香りが。
「え…?」
困った顔をしたチェギョンさえも、可愛らしい。


「じゃあ、踊ろうか」
チェギョンの返事を聞く前に、シンは彼女の手を取り細い腰に軽く手を当てた。
引っ込み思案の彼女は、これぐらい強引にしないと人の後ろに隠れてしまうのだ。




王子の手は大きくて温かい。そして何故だかいつも自分の心を落ち着かなくさせる。チェギョンは彼の喉を見つめた。礼儀作法に則った仕草だけれども、こんな作法は意味があるのだろうか。
シャープな顎のラインから視線をあげれば、高い鼻梁と優し気な黒い瞳。そして男らしい眉と秀でた額。自分より一段濃い褐色の髪をなびかせたシン王子。

彼に触れられながら、彼の魅力的な顔を見ないようにするのは、大層自制心がいることだ。チェギョンは彼の肩に置いた指先に力を入れた。

年恰好のバランスが良いからだろうか、シン王子の“花嫁候補令嬢”の一人に数えられている。今時、そんなこと自体がナンセンス。身分や家柄など、昔ほどうるさくないのだから、王子が選ぶ相手はそれこそ“星の数ほど”存在するに決まっているというのに。

それに―――。
彼にとってチェギョンは、数多の女性の一人でしかない。ううん、それさえも図々しいかもしれない。そもそもシンは、チェギョンの存在を知っているかどうかさえ、怪しいのだから。

「―――このまま、逃げ出そうか」
「王子…?何を――――」




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「シン君ったら、強引なんだから。そう言うところは、昔から同じね」
チェギョンは夫の肩をつついた。
二人はパーティが開かれている大広間から抜け出し、中庭の噴水が見えるベンチで寛いでいる。
「だって、退屈だろう?」
シンは親指を立てて、大広間を指さした。一国の王子らしからぬ仕草に、チェギョンは形ばかりの“咎める視線”を夫に向けた。彼は全く気にしないで、笑っている。

「私、パーティは、嫌いではないわ」
チェギョンはスカートの皺を伸ばしながら答えた。




「寒くないか?」
チェギョンの華奢な肩はむき出しで、夜風に体が冷えそうだ。
「ううん、大丈夫よ」
シンは上着を脱ぐと、妻に羽織らせた。自分の上着を着ると、彼女はいつもにもまして小さく儚げに見える。その結果、彼は強烈な保護欲にかられてしまうのだ。

「チェギョンは、恥ずかしがり屋だったくせに。『パーティが嫌いじゃない』なんて言うんだな
何がきっかけでそうなふうに考えるようになったんだろう?
シンの言葉に彼女が微笑んだ。
「シン王子は、とっても強引だったわ」
彼女がいたずらそうに睨みつけてきたけれど、妻が照れているのが彼には分かった。二人のファーストキスのことを言っているのだ。




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「あの…」
小さな手。強くつかんだら、粉々に砕けそうな細い指。
シンは、月夜の中庭の大きな木の陰にチェギョンを連れ込んだ。それから、繋いだ手を持ち上げ、指の関節にキスをした。
途端に、チェギョンの頬が染まったのが月明かりの下でもわかった。

「……こうでもしないと、君とまともに会話もできないから」
シンはチェギョンの張りのある頬を親指で撫で、それからすっと下唇をなぞった。
彼女が目を伏せた。
「チェギョン…僕を見てくれ」
自分でも声がかすれていることがわかる。一瞬、彼女が躊躇ったのが分かった。それから、すっと息を吸い込んだ彼女の長い睫毛が、フルフルと震え、ゆっくりと持ち上がってくる。

「うぬぼれてるかな。僕はもう何年も、君の視線を受けていたような気がしてた」
チェギョンの頬が、薄明かりの中でもハッキリと分かるほど、真っ赤に染まっている。
「違うかな?」
シンは彼女の小さなが顎を掴んで、二人の視線を合わせた。
僅かに彼女が頷いた。彼はほっと息を吐いた。どうやら自分の勘は間違っていなかったようだ。それならば、もうひと押しだ。
「良かったよ、僕の予想が当たって」
「殿下…」
「シンだよ、チェギョン」




彼は気づいていた。チェギョンが彼を陰から見つめ続けてきた事に。

ずっとシンに憧れていた。明るく屈託のない王子は、女性たちの人気者。どこへ行っても人に囲まれている。チェギョンはいつも遠巻きに彼と、彼の周りに群がる人たちを見ていた。
自分にもう少し勇気があったら、彼に近づくことができるのに。

シンに手を伸ばせば触れられるほど近くにいる時、チェギョンはありったけの勇気をかき集めて、1歩前へ出ようとしてきた。
けれども、実際は1歩“後ろへ”進むだけだった。

でも、今、漆黒の瞳に映っているのは自分だけ。

チェギョンは自分の頬に置かれた彼の手に、自分の手を重ねた。
「王子……私」
喉が詰まって声が出ない。「お慕いしています」とこの胸の内を告げたいというのに。今こそその時なのに。
押し込まれていた想いだけが溢れだして、言葉にならない。
「私…」
ただ彼の手に自分のそれを強く押しあてることしかできない。

「チェギョン…」
顔を傾けた彼が、スローモーションのように近づいてきた。

彼女は顎を上げ、それから目を閉じた―――。



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「あの時から、パーティが好きになったの」
チェギョンが笑いながら言った。“あの時”とは、“あの時”だろう。シンは素早くキスを奪った。

「―――ファーストキスをしたから?」
コクンと妻が頷く。
「それもあるわ。でもね、一番の理由は」


あの時、あなたが私を見つけてくれたから』


人影から、物陰から、そっと見つめることしかできなかった自分を、彼は見つけ出してくれた。


「愛してるから。当然だ」
シンはニヤリと笑うと、今度は思う存分、キスを堪能することに決めた。


~end~