ホテルでは朝湯に入る。夜の展望と朝は風景が違う。今日は天気がいい。そうなると傘は邪魔になる。駅まで歩いてゆくとき、商店街を通ると、10数年前に立ち寄った豆腐屋があった。早いので閉めていたが、豆腐カフェという看板を出してしゃれている。ベンチには音楽家の銅像があちこちにある。サックスを吹いている像、フルートを吹いているのもある。これも前に見たままだ。

 駅で電車を待つ間、二階の休憩エリアの窓際の席で、コンビニで買った朝飯のパンとコーヒー。高校生たちが通学の電車待ちでも勉強しているのは偉い。

 ローカル線でいわき駅まで出て、そこからまたとことこと単線で郡山駅まで出る。昔は時刻表を引いていたのが、いまはネットで検索して一発で出るから楽だ。福島は浜通りと中通りと会津と分けて考える。海から内陸の中通りまでローカル線で出る。郡山駅では、新幹線の待ち合わせに30分くらいあるから、思い出して、駅前の商店街に三万石のお菓子屋さんの本店があるはずだと、歩いたら、そのまま見つけた。おふくろが好きなままどーるとエキソンパイを買う。従業員の女性に、社長の池田さんはお元気ですかと聞いた。いまは息子さんが社長をしていて、会長になられているとか。元青森のお菓子屋であったことを告げると知っていた。会長の池田さんがまだ修行時代の若いときに、青森のうちの菓子屋に勉強に何年か寮に入って菓子造りを覚えていた。親父が死んだときも来たし、その自伝の本を出したときも電話をいただき、送ったら、自分のことも書いているから懐かしいと電話で話していた。その前の大震災では心配して郡山に電話を入れたら、社長が出て、東京出張中に足止めで、福島に帰れなくなったと話していた。あのときは新幹線はずっと止まっていた。

 

 郡山駅のスーパーで弁当にお菓子などを買う。それは駅の待合室で食べてしまう。新幹線は満席に近い。仙台で別の新幹線に乗り換える。やまびこからはやぶさへ。うつらうつらと眠くなるが、寝過ごしたら北海道に行ってしまう。青森が近くなると妹が車で迎えにきているが、駐車場がいっぱいで入れないので、外で待っているとメールが来る。新青森駅にわたしが先に着く。待合室で待っていたら、北海道の姉が来て、まもなく東京の姉が来る。三人で妹の車に。二年ぶりでまた四姉弟妹が揃う。みんな元気だ。

 まずは、三内霊園に墓参りに。叔父が納骨されて、初めて揃っての墓参り。お盆と彼岸に来れないので、ひと足先にお参り。青森は暑い。30度はあるというから東京より暑い真夏日だ。

 姉たちは市場で海産物を買って家に発送したいというから、青森駅前のアウガ地下の市場に行く。いつものコースだ。わたしは買うものがない。土産も食べないから、わたしだけなのだ。姉たちは筋子とタラコを買っていた。わたしは鰊の甘露煮とけの汁を買う。けの汁とは、小正月の大根人参、ごぼうなどを細かく刻んで味噌汁のようにしていただく津軽の郷土料理で、こんにゃくや小豆など、すべてが刻んでレトルトにして入れてあるから、味噌汁の具のようにして食べられる。

 それから妹の家に寄って、土産ものの分配。わたしの買ってきたのは平塚と福島のお菓子だが、それと詩集を三姉妹に上げて、荷物が軽くなったと思ったら、お返しのお菓子で埋まる。北海道と東京のお菓子。義兄とも今後のことを話した。青森に帰ってくるかもと。どうなるか分からないが、いまのままではくたびれる。

 

 おふくろの施設には夕方入る。ぞろぞろと女三人姦しく、それにわたしが加わって、おふくろの部屋は急に賑やかになる。話してばかりで、おふくろの出番がない。写真を撮ったりビデオを撮影したりと忙しい。姉と妹は、わたしが一人息子で、おふくろには一番だと言う。そうなのか。おふくろも夜中に起きて夢遊病のように突然カステラを食べたりするというので、夢うつつというが、それは高齢のせん妄なのではないのかと話した。すると、わたしが子供のときに夢遊病になったことを姉は話す。小学五年までそれが続いていたことを。それとは関係がないだろう。

 

 妹の車で街の中心の柳町まで送ってもらう。姉たちは妹の家に泊まり、明日は南部名川にさくらんぼ狩りに行って、三沢の古牧温泉青森屋に泊まるのだとか。わたしとは別行動だ。

 降ろしてもらったところにある幼馴染がやっているシモンという喫茶店に顔を出す。来ると必ず顔を出すのは、そこが情報ステーションだからだ。わたしの生家の向かいの家の息子で中学の同級生でもある。また懐かしい話ばかりが出る。お客もそれに加わり、昭和の話。みんな変わってしまって、昔の写真も出してきて、あの人が死んだ、この人はいないと。

 

 それから一人飲み屋街を歩いて、行きつけのスナックに行くが、看板がどこも消えていて、人が歩いていない。閑散としていたので、何かおかしい。ドアは施錠していて閉めていた。建物ひとつが飲み屋ばかりが、みんなやっていないのか。別の飲み屋にも行ったら、そこも入れない。最後の細雪という飲み屋に行ってみた。そこが駄目なら帰ろうと。車も通らないし人も歩いていない。土曜日の夜なのに街は死んでいた。と、細雪はドアが開いていた。いきなり10年ぶりに顔を出したら、ママがびっくりした顔をしていたが、分かってくれた。どうしたの? 親友たちとよく通った店だ。追悼の飲みをしたいとやってきたと言うと、二人の親友が死んだことも知っていた。死ぬ前日に本人から電話が来たので、話したという。胸が痛いと言っていたらしい。ママは、病院に行きなさいと叱ったとか。そのとき、彼が行っていたら、心筋梗塞で斃れることもなかった。人の言うことを聞かないで、病院嫌いも命取りになる。

 ママはビールでわたしは焼酎で久しぶりにとまり木で飲んだ。書道家の中畑先生は来ているかと聴いたら、さっき帰ったという。佐藤さんという絵描きも来ていたし、みんな元気だと。二人だけでさしで飲んでいたら、常連客も来て、また死者の話になる。追悼の飲み会で、ママは涙ぐんでいた。

 

 あまり晩くならないうちに、タクシーで今夜の宿に向かう。青森の景気はよくないと、運転手さんと話す。泊まりはまたネットカフェだった。個室で2000円少しで泊まれる。ドリンクバーで腹を満たす。晩飯は喰っていなかった。飲んでばかりだった。久しぶりに飲んでもそんなに酔っていないでこてんと寝ていた。ホテルは高く満室だったが、ネットカフェは穴場なのだ。