青森ペンクラブの講座が、六月十九日の土曜日、二時より新町の成田本店四階ホールで行われた。当日の講師は元東奥日報社の文化部長をした青ペンの顧問である工藤英寿氏。ペンの会員だけでなく、一般の方の受講が多かった。
工藤さんは文化部の記者時代、昭和三十年代に東京支局に昭和四十年まで配属させられて、関東近辺の取材に走り回っていた。まだ二十代の若き頃であった。
殆どの郷土の作家は青森にはいなかった。東京近辺で暮している人が多かった。それで、連載の原稿依頼や取材という形で多くの作家たちとの交友が生まれる。
六月十九日は太宰治の折りしも命日になっているが、太宰との接点はない。存命中はまだ新聞社に勤めてもいなかった。が、奥様の美智子さんの取材はさせてもらった。あれほどの破天荒な生き方と死に方をした太宰を恨んでおられなかったという。
生家のある金木では、十九日は生誕祭という誕生日のほうで行うが、三鷹の禅林寺での桜桃忌は命日のほうだ。その桜桃忌に取材がてら同席していたら、郷土の直木賞作家、今官一先生がいらした。桜桃忌という名は先生が名付けられた。その今官一が、若き工藤記者を手招きして、隣に座るようにと言うのだ。遠慮していたが、どうしてもというので、臨席したら、なんのことはない、今先生は全然酒が呑めないので、傍に座らせて、下げた酒を呑む役目に置いたのだ。そういう話をされていたとき、会場の後ろの席に、今官一の妹さんが、受講においでで、工藤さんから紹介された。兄弟の中で一番父親に似ておられるとか。
昨年は、今官一の生誕百年であったが、太宰の百年に影が薄れてしまった。地元の人たちは今官一をコンカンさんと親しみをこめて呼ぶ。あまり多作な方ではなかった。
石坂洋次郎の田園調布の家には百回できかないくらいお邪魔した。プール付の家で、自宅の庭にプールがあるので驚いた。いろんな方が詰め掛けていて、その対応に追われていた。たまたま同席した方が自家用車で来ておられたら、「こちら、東奥日報の工藤君」と、。相手の方にいつも紹介する。その訳が後で判った。帰り際に、知らない人でないから、一緒に車に乗せてもらいなさいと、先生は言われる。帰りに途中まで送ってもらえるように相手に紹介したのだという気の遣い様がすごいと思った。
晩年は認知が進んで、あれほど担当記者でいつもお邪魔したのに、先生はまるで自分を判ってくれない。石坂洋次郎は、晩年は小説も書かなかったのは、書けなくなっていたのだ。
石坂作品の映画化は80本を越える。それほど一人の作家の原作で映画になったのは他にはいないだろう。出す本はことごとくベストセラーになり、売れっ子であった。
深田久弥の奥様で児童文学の作家の北畠八穂のところにもお伺いした。八穂は、訪問したときは、すでに一人で暮していて、お手伝いさんがいた。行ったら、ものすごいご馳走が並んでいた。
「どなたか、お客様がおいででしたか」と、訊いたら、
「それはあなたでしょう」と、歓待された。
同郷の記者だと判ると、言葉が津軽弁にすぐに変換される。その使い分けも見事だった。
郷土作家で一番を挙げろというと、三浦哲郎さんを挙げる。三浦さんだけ「さん」付けで呼ぶのは、まだ生きているからだ。
三浦さんの家に泊まりに行ったこともあるし、向こうも自分の家に泊まりに来たりして、一番、取材した作家の中では親しくさせてもらっている。
一度、十和田湖の宇樽部に一泊したことがあった。呑んで夜更けた湖畔に散歩に出たら、暗闇の中で不気味な水音がして、何だろうと思った。それが、翌朝判明したのだが、工事で池の水を止めたので、池の水位が下がり、何十匹という鯉が死んだのだ。その鯉の死体が朝見たら並べられていた。そのことを三浦さんは本に書いておられた。
三浦さんの家系の不幸というものを、夜中の湖畔で二人きりになったときに聴かされた思い出も忘れられない。
あちこちで講義はしているが、こうした昔の取材の裏話というのはあまりしたことがない。肉付けもなく、そのままのことを話してしまった。
講座は一時間で終る。どんな作家の評伝にも書かれていない生の体験を聞くことは貴重だった。