~心のやすらぎ~

~心のやすらぎ~

高野山真言宗の僧侶による法話ブログです。
毎月1話掲載してまいります。

長い夏が終わり、ようやく訪れた秋も、北海道では足早に過ぎ去ろうとしています。

辺り一面、美しい紅葉。

足元を見れば、赤、黄色の絨毯が道路を埋め尽くします。

落葉の季節、僕はいつも、ある絵本を手に取ります。

 

 

葉っぱのフレディ(レオ・バスカーリア著)という絵本をご存じでしょうか。


主人公は、大きな木の枝に茂る一枚の葉っぱの「フレディ」
春に生まれ、周りの葉っぱ達と共に陽光に照らされ、雨を浴びて生きていました。

夏には、人々が木陰に集まり涼んでいます。

時には風と会話をし、仲間に恵まれ、とても賑やかで、楽しい日々を過ごします。


しかし秋になると、周りの葉っぱ達は次々に枯れて落ちてしまいます。
不安になったフレディは、一番仲良しの葉っぱに「落ちてしまうと会えなくなって寂しい」と言います。


しかし友達は、「落ちてしまうことは寂しいことじゃない。悲しいけれど、木の根に落ちた葉っぱは土に還り、また木の栄養となって吸い上げられ、同じように木の枝から芽吹く。
姿形は違うけど、ぼくたちは同じ所から生まれまた落ちて、永遠に命を繰り返す。遅いか早いかだけ。またすぐに会えるさ。先に行ってるよ。」と答えます。
友達ははらりと落ちて、そしてすぐにフレディも木の枝から離れはらりはらりと木の根に落ちていきました。

そして春、また枝先からつぼみが芽吹き、新たな葉っぱが光を浴びはじめます・・・

 

あえて仏教的な解釈をいたしますと、葉っぱのフレディは、私たち個々の生命を表します。
枝は、わたしたちの身の周り、家族や友人などのコミュニティでしょうか。

木の幹は、もっと広い、街や国を表しているのかもしれません。

 

そして、それぞれの葉~個々の生命~は枝へつながり、枝は幹へ、幹は地中に根につながり、根が大地をしっかりとつかんで、その他のあらゆる生命とつながっています。

それらすべては違う存在のように感じますが、誰もが元をたどれば地球の中から生まれ、そしてやがて土に還り地球に戻ってゆきます。私たち人間や動植物もすべて、この地球という大きな生命体の一部なのです。

 

その生命は、永遠のようで、実は一時のはかないもの。
私たちの命も、一瞬の現象でしかありません。
しかし、根っこでは全ての命と繋がっているのです。

 

地球へと還った命は、誰かの中に今も生きています。なぜなら、自身がこの地球で地に足を付けて生きているように、生命というのは必ずそれ以外のものに活かされている。

そして、そのいのちは姿形を変えて、いつか新たな生命としてどこかで芽吹くのです。

 

これを、輪廻ととらえてもいいかもしれません。

命は終わることなく、繰り返し、誰かの中で生き続ける。

 

厳しい冬がすぐそこまで来ている北海道。じきに雪が降り積もりますが、いずれその雪も溶けて、春にまた新たな命が芽吹いてゆく。その時を想いながら、暖かな気持ちで冬を迎えましょう。

先月は秋のお彼岸でした。三月の春分の日、九月の秋分の日を中日として前後三日間の
一週間をお彼岸と呼ばれる期間です。

起源は諸説ありますが、その興りは平安時代と言われております。


古来より、日本人は農耕民族として春のお彼岸に種まきや田植えをし、秋のお彼岸に収
穫を迎え、春は太陽に向かい「良い作物ができますように。」とお願いし、秋は「良い作物
ができました。ありがとうございます。」と感謝をしてきました。


また、その時期は太陽が一年の中で最も真東より昇り、真西に沈んでいきます。
西は西方浄土と言い、極楽浄土(彼岸)があるとされる方角であり、太陽が真西に沈むこ
の時期は浄土に近いとされ、浄土におられるご先祖様に感謝をするという習慣が生まれた
とされております。


しかし、特に秋のお彼岸は、八月にはお盆があり、ひと月ほどで秋のお彼岸がやってきて、大変に思われ
る方も多いのではないでしょうか。


お盆はご先祖様が彼岸(極楽浄土)から此岸(こちらの世界)に帰って来られる期間であり、お迎え
をしてご供養をいたします。
お彼岸は逆に、此岸(こちらの世界)にいる我々が彼岸(極楽浄土)に向かって感謝のお参りをする期間です。


お盆とお彼岸。違う意味合いのお参りです。

古来より行われてきたお彼岸という日本固
有の伝統文化を大切にいたしましょう。


日本の祝日法にも秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」とあります。
春分の日とは違う趣旨が記載されており、特に秋のお彼岸はご先祖様に感謝をする大切な
日であるという事がお分かりいただけると思います。
忙しい毎日かと思いますが、どうぞお仏壇やお墓等に感謝のお参りをしてください。も
しそれがかなわない方は、この時期に少しの時間でも太陽に向かい手を合わせてご先祖様
に感謝をしていただけたら幸いです。
南無大師遍照金剛

 

新ひだか町 龍徳寺 郷司 真澄

写真家であり、エッセイストでもあった星野道夫さんは、極寒のアラスカの地で大自然の中を生きる動物たちやエスキモーやインディアンの人々の生活を追い続け、その姿をカメラに収め、文化を言葉に残してきました。

 

星野さんは1996年にカムチャツカでヒグマの害に遭い命を落としてしまいましたが、それから約30年経った今もなお、その心のこもった言葉や美しい写真の数々が、多くの人々に感動と勇気を与え続けています。

 

そんな星野道夫さんの代表的エッセイ集『旅をする木』(文春文庫)で、本のタイトルにもなった一本の木の物語について語られる、このような文章があります。(筆者による間接引用)

 

僕の大好きな動物学の古典『北国の動物たち』の「旅をする木」で始まる第一章。

それは、一羽のイスカがついばみながら落とした幸運なトウヒの木の種子の物語。

様々な偶然を経て川沿いの森に根付いたトウヒの種子は、いつしか一本の大木に成長する。

長い歳月の中で、川の浸食は少しずつ森を削ってゆき、やがてその気が川岸に立つ時代がやってくる。

ある春の雪解けの洪水にさらわれたトウヒの大木は、ユーコン川を旅し、ついにはベーリング海へと運ばれてゆく。

そして北極海流はアラスカ内陸部の森で育ったトウヒの木を遠い北のツンドラ地帯の海岸へたどり着かせたのである。

打ち上げられたトウヒの流木は、木のないツンドラの世界でひとつのランドマークとなり、一匹のキツネがテリトリーの匂いをつける場所となった。冬のある日、キツネを追っていた一人のエスキモーはそこにワナを仕掛けるのだ・・・。

 

一本のトウヒの木の果てしない旅は、原野の家の薪のストーブの中で終わるのだが、燃え尽きた大気の中から、生まれ変わったトウヒの新たな旅も始まってゆく。

この本全体にながれている極北の匂いに、どれだけアラスカの自然への憧れをかきたてられただろう。

 

この物語は、アラスカの森に群生するトウヒの木の一生~種子が小鳥によって運ばれ、根付き、数百年もの時を経て大木になり、川に流されて生命としての活動を終えつつも、雄大な自然の流れで荒涼とした大地に辿り着き、また新たな命を育み、最後には人を暖める薪となってその旅を終えます。

しかし、印象的なのは、燃え尽きて大気となったトウヒの新たな旅が始まる、という一文でした。

とうの昔に生命としての活動を終えたはずのトウヒの木は、その後もキツネや、そのキツネを追う猟師の命を育みました。

最期に、人を暖める薪としてこの世から姿を消すのですが、大空に溶け込んだトウヒの命が、風に乗ってまたどこかで新たな命を育み、やがて自身も新たな命として芽吹くことを予感させます。

 

 

15年ほど前、私が高野山で修業をしていた頃にこの本に出会いました。

現代において、お坊さんというのは人々の最期の時に接する機会が多いものです。

高野山においてはその限りではありませんが、修行をする中で、やはり人の生き死にについて深く考えることが多く、時には悩み、迷うこともありました。

もちろん仏教は、お釈迦様から始まり高野山をお開きになった弘法大師空海~お大師様に至るまで、その生き死にに対する悩みに常に答え続けてくれました。

しかし、まだまだ修行が浅く、人生経験も少ない当時の私にとっては、仏教の教えだけでは死後の不安や迷いが消えることはありませんでした。

そんな中出会ったこの『旅をする木』は、命とは何か?人は死んだら終わりなのか?という漠然とした不安を、生きることの勇気に変えてくれた一冊でした。

 

命あるものは必ず死を迎える。数百年を生きる大木も、わずかしか生きることが出来ない虫たちも、等しく命を終える。

けれども、生命の活動が終わっても、その存在の「旅」は終わらない。

生命とは、死んだ後も必ず他の何かに影響を与え続け、その役割を終えたとしても、大地や大気の中に溶けこみ、別の生命を育んでゆく。

そして、いつか自分自身もその新たな生命としてどこかで生まれ変わるのだ、と。

 

お釈迦さまは、死後の世界についての言及はしませんでした。

インドでは、輪廻転生の思想があり、中国や日本では浄土思想が流布して、死ねば極楽浄土に往けると説きました。

 

けれど、お大師様が日本でお広めになった密教では「この世界こそが密厳浄土なのだ」と説かれます。

この世はこんなにも美しく、生命で満ち溢れている。

それらは本来、汚れた存在などではなく、ありのままで美しい、すべてが尊い存在なのだと。

 

『旅をする木』で綴られる厳しくも美しいアラスカの大自然。

そしてそこに流れる、生まれては死に、けれどもまた生まれ変わる数多の生命。

もちろんそれは、私たちの住む日本も同じで、すべてが尊く、清らかなのです。

まさに私たちがいま生きているこの世界こそが密厳浄土であり、人は死んでもその役割がすべて終わるのではなく、だれかを育みながら、旅をし続けるのです。

 

南無大師遍照金剛

 

千歳市光明寺 安田 空源

今年の夏は例年にないくらいとても暑いです。

猛暑とか酷暑とか言われ、本州に負けないくらい、もの凄い暑さが続いております。

気候自体が変わってしまったのか「北海道の夏なんてあっという間に終わってしまうし、夜は涼しくなるし」と言うようなものではなくなってしまいました。

ですので、この猛暑に対する対応もよく本州で呼びかけているようにしなければ、本当に命にかかわることになると思います。

 

世の中には、変化に応じて変えるべきものと、そうでないものがあるはずです。

生活から苦がなくなったり、減ったり、さらには、楽しいことや余裕が増えたりするのならば、科学技術の発展などで得たものも大いに利用し、対応すべきだと思います。

お盆の頃は正に夏の本番。どれだけの暑さになるかはわかりませんが、対応できる機械や技術があるならば、適宜お世話になって、少しでも快適に暑い夏を過ごせるように心がけるべきです。

 

一方、どんなに便利で、色々と省略できるようになった中でも、決して省いてはいけないものがあります。それこそが仏教のみ教えにあると思います。

 

特にお盆は正にその教えを実践できるときであります。

お盆の「精霊迎え」には先に亡くなったご先祖様等をお迎えし、ご供養すると共に、ありとあらゆる精霊までも一緒にご供養致します。

人はひとりで生まれてくることも、生きていくこともできません。両親を含め多くの人々の助け、かかわりがあるから、今と言う時と自分というものがあるのです。

とても暑い夏ですが、お盆参りを通して、ご先祖様からつづくものと、更には多くの人々のお陰で生きていけることも改めて思いを致す心も温まる夏にしたいものです。

 南無大師遍照金剛

高野山真言宗北海道自治布教団 団長

室蘭市 大正寺 松尾 法幸

現在、NHK 朝の連続テレビ小説「あんぱん」が放送されています。

『アンパンマン』の作者、やなせたかし氏とその妻のぶさんをモデルとした今作。

戦前の高知から物語は始まり、厳しい時代を乗り越えたやなせたかしさんの生涯をなぞって物語は進んでおります。

 

放送に先立ち、私はやなせたかしさんの生涯を書き記した『やなせたかしの生涯』という本を手に取りました。

 

大正末に高知県で生まれ、両親と、やなせたかし(以下、本名・崇)二歳年下の千尋という弟の4人家族でしたが、やがて千尋は子供のいない叔父の家へ養子に入りました。しかし、新聞社で働いていた父が、仕事先の中国で病死。一人で子供を育てきれないと判断した母は、半ば投げ出すように崇を叔父に預けて再婚してしまいました。

期せずして弟が養子に入った家に転がり込むこととなった崇。けれど、叔父夫妻は崇を弟と同様にかわいがってくれ、寂しさもありながら、すくすくと育ちました。

崇は、小さいころから絵が好きで、とにかく四六時中絵をかいていました。弟の千尋は勉強がよくできたそうで、お互い得意なことは違えども、仲良く暮らしていました。

やがて崇は東京の図案学校(デザインを学ぶ学校)へ、弟の千尋は京都帝国大学へと進みました。

崇は大好きな絵や図案に没頭し。卒業後は製薬会社に就職して広報係として仕事を始めました。

 

しかし、そこに、戦争の影が忍び寄ります。

 

太平洋戦争。国家総動員で戦ったこの戦争に、崇も、弟の千尋も駆り出されることとなりました。

 

陸軍に配属された崇は、出兵前、小倉の演習場で千尋との面会を果たします。千尋は、幹部候補生として海軍に配属されました。

互いに出兵前の最後の時間。千尋はこんなことを言ったそうです。

 

「僕は戦争で死ぬだろうが、兄さんは生きて絵を描き続けてくれ」

 

 

 

そして終戦後、なんとか生き延びた崇が高知県の故郷で耳にしたのは、千尋の戦死の報せでした。

台湾沖の船に乗り、米軍の魚雷にやられて船と共に沈んでいったそうです。

 

敗戦に打ちひしがれ、大切な弟を失い、生きる希望も無くなったとき。

そんなとき浮かんできたのは

「兄さんは生きて絵を描き続けてくれ」という千尋の最期の言葉でした。

 

 

その後、崇はデザインや編集者として働きつつも30代で漫画家として独立。しかし絵だけで食べていくことも出来ず、様々な仕事をこなしながら、自分の書きたいものを模索し続けました。

私たちが知っている『アンパンマン』がアニメ化され、国民的な作品となったのは、崇が69歳の時でした。

千尋を失ったのが20代前半で、それから40年以上もの歳月がたち、ついに崇は自身の代表作を生み出すに至ったのです。

その後も94歳で亡くなるまで創作の手を止めなかった、やなせたかしの生涯。

 

「兄さんは生きて、絵を描き続けてくれ」

言うまでもなく、千尋のこの言葉が、どんな苦境にあってもやなせたかしさんを突き動かし、ついにはアンパンマンという作品を世に送り出すこととなったのです。

 

『やなせたかしの生涯』の最期には、やなせたかしさんの人生観を象徴するこんな言葉が綴られていました。

 

「ひとのいのちはいつかおわる。けれどもそれはすべてのおわりを意味しない。

犠牲をいとわない勇気はすなわち愛で、それはかならず引き継がれる。

だから、生きることは決して虚しいことではない。」

 

千尋は、若くして戦争で命を落としました。

けれども、千尋の言葉が、その後数十年、やなせたかしさんを励まし続けたのです。

そしてやなせたかしさんの死後十数年、いまでもアンパンマンは多くの子供たちの心を動かし続けています。

 

人は死んだら終わりではない。

だからこそ、今生きているこのいのちも決して無駄なものではない。

 

今日も、誰かのために勇気を出して、精いっぱい生きる。

それこそが、自分のいのちが終わった後も、自分自身を活かし続ける唯一の方法なのではないでしょうか。

 

 

南無大師遍照金剛

 

千歳市光明寺 安田 空源