小学生1年生か2年生の頃だったと思います。
4時間目の授業が終わり、給食の時間での出来事でした。

皆が和気あいあいと給食を食べるなか、
僕は廊下を青ざめた表情のなか不自然な歩き方で、「とある場所」へ向かっていました。

なぜか。
それは話が3時間目の授業中に遡りますが
僕は急激な腹痛に襲われたのです。

皆様もお分かりだろうと思いますが
小学生の年代において腹痛でトイレに駆け込むということは
恰好の標的になってしまうのです。

まして、気の弱い僕がそんな冷やかしに耐えられるわけがありません。
腹痛を感じた瞬間、すぐさま防衛体制に入りました。

普段ならば家へ帰るまで我慢をし通すか、
もしくは我慢しているうちに、腹痛がおさまるかのどちらかですが
どうやらこの日は違ったようです。

お!な!か!が!い!た!い!!

ですが、さすがに授業中に手を挙げて「先生!トイレ!」なんて言えるはずがありません。
休み時間中にいくなんて、油に火をそそぐようなものです。
必ず誰かにばれてしまいます。

そこで考えたのが給食時間に用を済ますということ。

給食の時間ならば、席を立つ人も少ないため、
誰にも気付かれないだろう、という考えです。

そんなこんなで腹がねじれてどうにかなってしまいそうなお腹を抱え、
足早に「とある場所」へ向かいました。

「とある場所」へ到着し、誰もいないことを確認すると
迷うことなく、一目散に個室へIN。
張りつめた糸が途切れたのか、笑みがこぼれそうになりました。

しかし、まだまだ安心できません。
個室から出るまでが戦いなのです。
個室から出るところを目撃されてしまえば、もうそれはTHE END。
ただ、そう焦れば焦るほど、時間がかかってしまう。
「HAYAKU!HAYAKU!」はやる気持ちを押さえて僕は懸命に闘いました。

その時です。

「ガラガラ」

なんと開くはずのない個室の窓ガラスが開いたのです。
僕は昔から端を好む習性があり、
一番奥(中庭と隣接している)の個室に入ってしまっていたのです。

開いた窓の中庭の方へ目をやると、給食を食べているはずのツトムとコウヘイの姿が、、、
そうです、クラスのワルガキ2人です。
一番見つかってはいけない人物に見つかってしまったのです。
その後はお察しの通り、これでもか!というほど茶化され、2人去っていきました。

ここで僕はお決まりの号泣をするのです。
しかも本日は特別2時間コース。
ポーカーで例えるならば、ロイヤルストレートフラッシュ級です。

この日は4時間目の授業→掃除→給食→帰宅というスケジュールでした。
なかなか個室から出られず、2時間ほど経って、
もうさすがに誰も教室にはいないだろうと思い、ようやく重い腰を上げ、教室へ向かいました。

教室に戻ったら、なんと担任の吉田先生とクラスの女の子数名が僕の帰りを待っていてくれたのです。

やはりツトム達がクラスのみんなにばらしていたようで、
待っていてくれたことは嬉しかったものの、
恥ずかしさと情けなさでうまく顔を見て話せない僕。

しかもみんなそんなに優しくしないでよ。
また泣いちゃうじゃない、、、
女の子の前では泣くまい、とぐっとこらえ、皆にお礼を言い、
教室を後にしました。

-翌日-

昨日の後ろめたさもあり、皆に冷やかされるのではないかと思っていましたが
誰もその話題に触れることなく、時間は過ぎていきました。

ほぼ普段通りの僕に戻った「帰りの会」で事件は再びおこりました。

皆がランドセルを背負い出し、さぁ帰ろうという雰囲気のなか、
先生が口を開きました。

「昨日のきっしー君のことですが…」

ぎくり!
心臓の音が周りの人たちに聞こえてしまうんじゃないかと思うほどの緊張が
一気に身体中を駆け巡りました。

続けて先生が発した話題は例の個室事件。
僕を冷やかしたツトムとコウヘイを叱責し、皆へも話しかける。
初めは穏やかだった先生の口調が、
もうそんな口調はどこにもない。

そして最後に先生が放った言葉
「きっしー君はあれから2時間トイレから出られへんかってんぞ!
誰だってうんこするやろ!
ツトムとコウヘイはうんこせーへんのか?!
なに?!
せや、あんたらもうんこするやろ!
うんこせーへんやつなんておらんわ!
今度こんなことしたら、絶対許さんからな!!」


僕はあまりの恥ずかしさで
うつむいた顔をしばらく上げることができなかった。
東日本大震災から
『もう』2年
『まだ』2年

人それぞれ感じ方は様々だが
2年という歳月が経った


最近、少し気になるワードが「風化させてはならない」「忘れてはいけない」という言葉
もう少し詳しくいうならば両者の前に『被災された方々のために』という言葉がつくことが多い

本当に日々、復興のために募金をしているとか、チャリティ活動をしているとか、
瓦礫の撤去作業を行ってるとか
なんかしらの活動を定期的にしている人々が使うべき言葉であると思う

だが、実際に使用している方々は「被災された方々のために風化させてはいけない」というだけで
支援活動をしている気になってしまっていることが多い


風化させちゃいけないっていうあなたは風化させないために何をしている?
僕も風化させたくないとは思っているんだけど風化させないためには具体的に何をしたらいい?


この2つの質問に答えられないのであれば、
「風化させてはいけない」なんて言える立場じゃないんじゃないだろうか

これから先、この時期になればメディアが東日本大震災のことを取り上げられる
なんだったら忘れたいと思っても嫌でも思い出さされるだろう

震災から2年経ったこの時期に「東日本大震災を風化させてはいけない」っていったって
実際何も行動を起こしていないんだったら説得力なんてあるわけない
そう言うことでしっかり震災に向き合っていると自分自身に思い込ませて、逃げているだけだ

「この震災を決して忘れてはならない」なんて決意は不必要である
なぜならその決意には何の意味も力も持たないからだ
何も考えていない人と何ら違いはない

実際に意味を持つのは決意そのものではなく、決意を行動にうつすこと

他人のことは行動で判断するのに、
いざ自分のこととなると決意だけで行動したような気に陥りがちだ
これは本件に限らず、実生活で誰もが体験することではないだろうか


もちろん風化させないことは大事なこと
しかし、本当に大事なのはそのための取り組み
今一度、自分に何が出来るか考え直すべきである


これらは他の誰でもない、自分自身に対する叱責
無責任な発言から被災された方々を裏切ることのないよう、出来ることからコツコツと。
ブログ書くのいつ振りだろう

半年振りくらいかな
性格がでちゃった


今日は久々に更新しよう
自分の為に





先日東京へ出張へ行ってきた

非常に実りある出張だった
色々な方とお話しが出来たり、紹介して頂いたり、奇跡的な出会いがあったり‥


以前本で
チャンスは皆同じ分だけ与えられていて、それを活かすも殺すも自分次第、というようなことが書かれているものを読んだ



分かっていたようで、分かっていなかった

というより、チャンスが何なのかが良く分かっていなかった


チャンスが来たらそれを掴めと人や本は言うけれど、なにがどれがチャンスなのかが分からなかった



だけど、今回の出張でちょっとだけ
「もしかしてこれがチャンスってやつなの?」
っていうのが見えた気がした



チャンスというのは本当に皆に与えられるものだった

今目の前にいる人や物、それら全てがチャンスになるのだ




そして、もう1つ大事なこと

チャンスは掴もうと思っている人、行動する人にしか掴めない


厳密に言うと、チャンス待っている人は、
チャンスが目の前にあったとしても気付かない、掴み方を知らない



自発的に行動する人にしか、チャンスを掴むことは出来ないのだ


チャンスを掴みたければ、行動すること。
足を止めないこと。
チャンスを逃さないこと。


チャンスを自分から掴みにいかないと掴めない。

チャンスを待っていてはチャンスを見過ごす。





頑張ろう。