1945年8月9日、長崎で原子爆弾に遭遇した台湾人、王文其さんのこと | 如月隼人のブログ
2017-08-09 11:59:52

1945年8月9日、長崎で原子爆弾に遭遇した台湾人、王文其さんのこと

テーマ:戦争と歴史

米軍が1945年8月6日に広島市に投下した原子爆弾は同年12月末までに約14万人の、長崎市に同月9日に投下した原子爆弾は約7万4000人の命を奪ったとされる。被爆した人の中には、捕虜として現地で拘束されていた米国の軍人、中国や東南アジアからの留学生など、そして当時は日本国籍だった台湾人や朝鮮人もいた。

 

王文其さんは1918年、台湾南部の嘉義西区で生まれた。貧しい農家の出身だったが、水牛の放牧などを手伝いながら勉強したという。王さんは公学校(台湾人向け小学校)、5年制の旧制中学校と進んだ。公費で朝鮮や満洲国の見学旅行に行ったこともある。おそらく、優秀な生徒と認められていたのだろう。王さんは中学校卒業後、代用教員として働いた。

1937年には長崎に留学して薬学を学んだ。41年には長崎医科大学に合格して医学を学ぶことになった。医学博士で文学者であった恩師の永井隆氏は敬虔なカトリック信者で、王さんは恩師の宗教的奉仕精神を強く尊敬し、医学により人を救う模範的存在になることを目指したという。

王さんは長崎医大を卒業所、同大学附属病院で実習生として医療に従事した。1945年8月9日がやってきた。王さんがいた病院は原爆の爆心から約700メートルの場所だった。投下された原子爆弾がさく裂した時、王さんは診察を行っていた。強烈な閃光が目に飛び込んだことだけは覚えている。その後の記憶は、後年になっても戻らなかった。

意識を取り戻すと、周囲には手や足がちぎれた死体がいくつも転がっていた。生きている人はうめき声を上げつづけた。王さんも内臓が露出するほどの大けがを負っていた。建物に火が回ってきたので何とか脱出したが、再び気絶した。

王さんを助けたのは三菱造船所で働いていた日本人女性3人だった。しばらくして、王さんを探しに来た台湾出身者と行き会った。女性3人は王さんを引き渡して去った。診療所に運ばれた王さんは約1週間も昏睡を続けたが、なんとか生き延びることができた。

一時は放射線障害と見られる症状が出たが、その後は特に健康障害は出なかった。王さんは日本で約2カ月にわたり療養をした後、台湾に戻った。

 王さんはその後、5人の息子と2人の娘をもうけた。息子のうち3人は医師及び歯科医師に、1人は薬剤師になった。娘は2人とも医師と結婚した。王さん自身は開業医となり、90代まで医療に従事した。王さん一族は地元の嘉義市で「医療一家」として知られるようになった。

王さんは原爆投下で九死に一生を得たことから「戦争から教訓を得てほしい。同じ失敗を2度としないでほしい」と繰り返し語った。晩年になり、王さんを取材する日本人記者も多くなった。王さんはそのたびに、自分の体験を詳細に語り、戦争の恐ろしさを訴えた。

 王さんは戦後の長い期間にわたって、「日本国内で居住していない」との理由で、日本政府による被爆者対策の対象外とされた。日本政府の方針変更で、被爆者援護法が適用されることになり、被爆者健康手帳の給付を受け、毎月約9000台湾ドル(約3万3600円)が支給されることになったのは、2009年だった。

 台湾で被爆者援護法の対象に認定されたのは、王さんが初めてだった。王さんは支給金を自分のために使うことはせず、各種の寄付金とした。

王さんは2015年1月27日、胆管炎に併発した敗血症で死去した。98歳だった。台湾メディアも王さんの死を報じた。

王さんは原爆に被爆した時に自分を救ってくれた日本人女性3人を命の恩人として、何度も訪日して探したが見つからなかった。ずっと残念がっていたという。(編集担当:如月隼人)


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