本稿は、ダイエー中内氏に関して表題の週刊SPA!の私の連載で掲載した文章である。単行本として「嗚呼香ばしき人々」が発売されたが、この本に収録されることが時期的にできなかった。その後、中内氏がダイエー関連の保有資産ともどもすべて手放すという報道がなされ、関連記事としていろんな経済団体に回覧されたそうで、評判が高かったのでここに転載する。

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時  代の寵児と言われた人は、その人を支えた時代の終了と共に真価が問われる。名経営者と言われた人物も、その遺した企業の業績如何で持ち上げたりけなされたりする。どう事業を成功させたかだけでなく、世間や時代の変化を先取りできる組織を構築できたかという一枚も二枚も上の才能を要求されるのが経営者なのだ。かつては小売業で日本を制覇するかに思われたダイエーの中内功氏もまた、時代の試練に晒されつつあるダイエーの創業者として世間の注目を集めてきた。銀行筋からは「例のボケ老人」と言われ、日本経済の高度成長という宴の残骸である不良債権問題の象徴となってしまった。しかも、不良債権問題は山を越えたとはいえ、いまなお進行中である。

 おまけにダイエーは最大級の物件であるが故に産業再生機構入りで揉めた挙句、まな板の上の鯉状態であり、ついでに中内氏もまたご存命中であられる。企業再生とは、大企業ダイエーの分割解体にほかならず、生きているが故に己が手塩にかけて育て上げた組織がバラされる苦悩に立ち会わなければならないというのは皮肉なことである。

 ダイエーの不幸は、高度成長という経済のトレンドに適応しすぎたことであった。どこまでも伸びていく日本経済が強い自信をつけ、アメリカ経済を追い越して世界の頂点となる夢に日本中が酔いしれていたころ、その風潮の最先端で金を借りまくっていたのがダイエーだった。それも、当時の経営のセオリーからしても決して間違いではなかったのが悲劇的な事態にまで状況を悪化させてしまった。とりたてて方法論は間違っていると認識されてないのに、時代が変わるといままでの長所が弱点へと化ける恐ろしさは、いかに名経営者と名高い、ついでに亀の飼育も誉高い中内氏といえど太刀打ちできない。

 何故か日本社会には、経済的に成功した人は野球チームか角界のタニマチか歌舞伎などの伝統芸能に傾倒していく傾向があり、ダイエーは最盛期にホークスを買収してグループの象徴とした。アホみたいに高い金額を払って阪神から松永を連れてきたりミッチェルの如き使えない外人を呼んできたりしていたが、それもこれもダイエーの経営が万全だ、まだまだ成長余地があると判断していた中内氏と銀行筋を含めた周辺の見込み違いが原因であったにほかならない。この手の香ばしさの漂い始めが企業や経営者としてのピークだということなのだろう、きっと。

 ダイエーが坂道を転がり落ちるころ、経済誌に中内氏の伝記を連載した佐野眞一氏と中内氏が喧嘩になるという話もあった。連載当時は私は小僧だったので普通に面白いなあと読んでただけであったが、世間に出てある程度知恵がついてくると佐野氏は実直にかつ正確に中内氏を論じていたことが分かる。逆に、貧すれば鈍す的な逆ギレをしていた中内氏の、時代を読む眼はすでに曇っていたのだなあという証左なのだろう。

 ただし、奢れる者は久しからずと評するのは簡単でも、八万人もいる大組織をまだ見えてもいない次時代へと連れて行くのは生半可なことではできない。次はアメリカへと野望をたぎらせた中内氏に縮小の二文字はなかったのだ。

 良くも悪くも「古き良き日本経済」の代表格として経済史に名を刻んだダイエーと中内氏。時代に対応できなかったのはセンスの限界だったとはいえ、ダイエーがもうだめだからといって中内氏が生きてきた証まで認めないという議論は、私にはなかなか同意できないのである。
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東京に積もる雪の物語

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 そういえば、東京に雪が積もらなくなった。私が子どものころと言えば、十二月から二月にかけて、すぐに融けてしまうけれど雪が積もったものだ。わずか数日とはいえ、近所の友達と雪だるまを作って、イメージと全然違う、排ガス色した雪玉ができてがっかりしたものである。

 たまに年明けに積雪のため電車が止まって学校が休みになったりしたが、どうも最近はそういうこともないらしい。私が通っていたころの日吉駅は、まだ歩道橋直結の安っぽい駅舎があって、これがまた凍結するので階段を下りるのに難渋した。

 高校を卒業するころ、河内くんというストレートロンゲの国語教師が担任で、あれこれ進学する学部について相談したのは、えらく雪の降った一月中旬だった記憶がある。いま思うと恥ずかしいことだが、実は高校卒業時分、私は経済新聞の記者になりたいと思っていた。ところが、慶應義塾大学の経済学部へ内部進学するための成績が不足していた。テストの成績は良かった。一方で、そのころ私は中国語の課外授業と称して日吉裏の雀荘に日がな足を運んで大学生や同級生相手に麻雀を打ち、点五や点ピンで賭けて遊んでいたため、出席不足で成績を一定割合棒引きされていたのである。

 これほど悔やまれたことはなかったが、ルールである以上は仕方がない。

 ちょうど新設された藤沢キャンパスが二年目にあたり、不人気だったためそちらに回され、後日経済学部へ転部すればよろしい、と河内くんに言われ、そういう手もあるか、としばらく何も考えずに雀荘やバイトに明け暮れていた。

 大学に進学するにあたって、中学や高校で一緒になった級友が随分学校を去っていった。高校に比べて大学など手ごろな授業で単位を取ってさえいれば誰でも卒業できる、と先輩からかねがね聞いていたし、当時絢爛というか狂乱のバブル経済が終わり気味ではあったが慶應義塾は就職に強かった。それは後日自分で二年に渡って就職活動する際に、なるほど慶應は就職が楽だというのは改めて思ったが、私からすればしたい勉強ができて、嫌な授業は出なくてもノートがどこかから回ってきて、出席も誰かに頼めば問題なくて、全然楽勝なのに、何故こいつらは大学に行かないのだろう、という奴が何人も出た。

 そのうちのほとんどは親が開業医で、慶應の医学部に進学できるほどの成績に満たなかった奴らが他校の医学部を受けるために慶應を去るというケースだったが、柊は違った。柊は私と一緒に麻雀をやり、自宅も近かったのでよく一緒に帰ったものだ。柊は婆やと呼ばれる小間使いの女性か何かと二人だけで、私の住んでいた家の何倍も広い敷地の豪邸に住んでいたが、何度か彼の家に行っても彼の両親や兄弟を目にしたことは一度としてなかった。深くは詮索するまいと思っていたわけではないが、興味がなかったと言うのが一番大きいだろうか。そんな柊が十一月になって、学校というより雀荘から帰る東横線のなかで、俺、大学に行かないから、と言い出した。

 何を馬鹿な、と思った。大学なんて、適当に行って、おもしろおかしくやっていれば楽に卒業できるじゃないか、別に医者になりたいってわけでもないんだろ、と言ったら、柊は笑っているだけだった。

 とにかく、終始ヘラヘラしている奴だったので、クラスのなかではのけ者だったが、彼は私にとっての師匠だった。全自動卓麻雀台でイカサマをやる技術に関しての。事実、柊と私が囲んだ卓については、必ずどちらかが一位、どちらかが三位で帳尻プラスになるような策を取って負けなしだった。そういうことができるなら一位二位でいいじゃないかと思うものだが、柊は一位二位を繰り返したら客は怒る、もう卓を囲んでくれなくなる。二人ネタ元がいたら、片方は二位にしてやれ、というのが先達である柊の弁だった。

 柊は麻雀と、麻雀をする人の心理については超人級に詳しい男であったが、こと自分の話についてはからっきしな奴でもあった。ある日、その麻雀で勝った代金で買ったというカメラを、東横線の網棚のうえに乗せてやったまま忘れて帰って無くしたこともある。欲しがっていたカメラを放置するなど考えられないが、翌日教室でそれを聞いて、遺失物になっているか確かめたかと訊くと、そんなことはしていないという。呆れた。さっさと駅員に言って、探してもらえと半分逆キレ気味に言ったが、ああ、あんなもんは天下の回りもんだ、とまったく気にした態でもなかった。話を聞きつけたクラスの気のいい奴と私は二人で駅員に聞いたが、とうとう柊のカメラは出てこなかった。さらに後日、柊が金を貸してくれというので、私が些少の額をそうしてやると、嬉しそうに千円札を財布に入れながらこれでカメラが買い直せる、と言った。何だ、やっぱりお前、カメラ欲しかったんじゃねえか。しかし、あれだけの豪邸に住んでいる柊が、カメラのひとつも小遣いで買えないとは、よほどシブい親なんだろうなと思っていた。

 その翌週、柊は停学三日となって張り出しがされた。何だと思って河内くんに聞くと、何でも定期券を偽造してキセルをやらかして駅員に捕まったらしかった。当時は自動改札などというものはなく、駅員に定期券を見せて改札を通るわけだが、どうも柊は日吉駅では前科者としてマークされていたようだった。どおりで駅に遺失物の申し出をしないはずだ。

 柊は私よりはるかに成績が悪く、出席もまともにしていなかったため、商学部か文学部、あるいは私と同じく新しい藤沢キャンパスへ行くしか選択肢がなかった。最初は、柊はどこか別の学部に行きたいのかと思ったが、何と柊は麻雀で喰っていくと言い出した。

 何を馬鹿な、と帰りの東横線で何度も柊に言い詰めた。世間の奴らが慶應大学に入りたくても入れないのを、お前が放り投げてどうするんだ。柊は、相変わらずニヤニヤ笑いながら、まあそれも人生ってもんよ、お前も慶應の大学生と卓を囲むことがあるだろう、奴らの世間慣れしてない馬鹿な麻雀見てるだろ、大学出てもその程度のおつむと思われるのがオチだ、とまくし立てる。話は平行線だった。

 その後、年越しのイベントでも柊と顔を合わせたが、その話題には触れなかった。ただ、何となく柊にあわせて笑って過ごした。それが私たちのペースだと思ったのである。

 柊は一月の大学進学のための試験シーズンから高校に来なくなっていた。そのまま柊は慶應を去るのかなと思った。進学希望学部も提出し終わり、一月末の最後の試験が終わると二月はもうこれといって重要でも喫緊でもない授業がダラダラと行われるだけとなって、このマンモス高校にも足を運ばなくなるのだな、という感慨だけが漂ってくる。授業に来ない奴がパラパラと出始め、柊は行きつけの雀荘を新宿に換えたらしく、それ以来卓を囲むこともなくなった。

 私もバイトがないときしか学校に行かなくなったが、ある晩友達から電話が入り、お前、河内くんから呼び出しの張り紙があったぞ、何か悪いことでもしたのか、という冷やかしの電話だった。さっそく翌日日吉くんだりまで赴いて教員室に入ると、国語科の窓際で河内くんがタバコを吸っていた。

 当時、河内くんはタバコを半分も吸うと、水でつけた皿にジュッと消してしまう奇妙な吸い方をしていた。実は私ももうそのころタバコを吸っていたが、さすがに教師の前で吸うわけにもいかないので黙って河内くんの仕草を見ていた。

 用件は二つあった。ひとつは、私がダメ元で希望を出していた経済学部への志望は、かなり教員の間で議論になったが結局ダメだったことだった。正直意外だったのは、私はまったく経済学部に行くだけの成績を備えておらず、それどころか今年は留年してもおかしくないな、と覚悟していたのである。議論になどなっているはずがないと思ったが、どうも数学と社会の教師に河内くんが、やりたいことがはっきりして学部志望している人間は放り込んだほうがいいと主張してくれたらしいのだった。結局、あまりにも出席していない私を”上位学部”に入れるのはほかの志望者の手前どうか、という非常にもっともで厳正な理由で却下された、と河内くんは笑った。

 もうひとつの用件は、私が柊に金を貸したことだった。なぜ河内くんがそれを知っているのかわからなかったが、それ以上に奇妙だったのは、河内くんが財布を出して私が柊に貸した数千円を払ってくれたことである。

 何故ですかと問うと、河内くんはまた笑いながら、お前は経済記者になりたいと言っていたじゃないかと言う。まったくピンとこなかった。あのな、バブルは終わったんだから、もうこれからいろんなことがあるんだからさ、と諭すように河内くんが言うので、すみません、全然理解できません、と答えると、今度は驚いたように、何だ、何も聞いていなかったのか、と言った。

 柊は、今年の後期の授業料が結局払えず、十二月で中退処分となっていた。

 柊とクラスで一番親しかったのは私だ。柊の住んでいた豪邸にも行ったことがあるし、つるんで雀荘で遊んでいたのも、東横線から山手線、西武新宿線と乗り継いで一緒に登下校していたのも私だ。私のバイト先に柊が冷やかしに来たことも一度や二度ではない。しかし、柊は私に何もそのあたりのことは語らなかった。私は何一つ、柊のことを知らなかったも同然であることに気づいて、しばし頭のなかが真っ白になった。

 そのときの河内くんの話から私は、バブル経済がおかしくなる過程で、柊は父親が破産か何かをして、授業料を払えないために高校を辞めたのだと理解した。それは決して間違いではなかったが、その後、世間様に詳しくなる過程で、祖母が経済事犯で逮捕され、それが理由で柊は慶應から追い出されたのだと知った。さらに、バブル経済の崩壊で私自身の家庭も結構な辛苦を味わうことになったが、本稿ではそれには触れない。

 河内くんから話を聞いて、とりあえず経済学部に行けないことよりも、柊のことが気になって、バイト終わりに終電で自宅に戻ると柊の家に電話を入れたが留守だった。自転車に乗って、柊の家を訪問してみたが、迷惑そうな顔をした小間使いの女性がインターホン越しに今日はもう休んでおります、とだけ返答してきた。

 翌朝、電話を入れると柊が出たので、黙って学校を中退するなんて酷いではないかと詰ったが、いつになく柊は怒った口調で俺には俺の価値観があるんだ、気にしないでくれ、と言った。そう言われると仕方がないが、私だって納まらない。まだ何か隠していることがあるのか、仕事はどうするのだ、別の大学でも受けるのか、と訊き回ったが、柊は杳として答えないままだ。もうどうにでもしろ、という気分になって、電話を切った。

 それから一週間ぐらい経っただろうか、バイトから帰ってきて深夜寝ていると、お袋の不機嫌な声で目を覚ました。クソ真夜中に柊から電話が来ているというのである。何故だか凄く底冷えのする日だった。寝室のある二階から電話を取りに一階に行くだけで足の裏が凍るような感じがした。電話を取ると、例の調子の柊だった。

 頼む、いまからちょいと新宿に来てくれないか。

 この深夜に何だというのと、柊に誘われて嬉しいのと気持ちは二分したが、さすがにこの寒いのに出かける気になれない、しかも終電もとっくに終わっている。新宿に行くなら自転車ぐらいしかない、この凍える夜中を自転車で私は新宿まで行くのか?

 何度か断った、しかし、柊は頼む、頼むとしか言わない。用件さえも言わない柊は、まあ柊らしいと言えなくもなかった。ため息をついてから、新宿行き着けのゲームセンター前で落ち合うことにして、電話を切った。手袋をして、コートを着て、出かける支度をしているとき、私は単なる便利使いされているだけの男なのかと思って、ふと心配になった。また雀荘でイカサマ仲間を再開するのは御免だ。

 果たして、ゲームセンター前には柊の姿はなかった。が、ゲームセンターの横合いの路地から声がする。何だろうと思って見やると、柊、とそれを囲んでいる五人組の男たちであった。とりあえず、血の気が引いた。どのような理由であったとしても、明らかに柊はレッドゾーンに存在していて、いままさに私もそこへ引き込まれようという瞬間に違いない。柊も男たちも、まだ私の存在に気づいていないようではあった。

 私は柊を捨てて、そのまま駅へ向かって自転車を漕いだ。

 昔、ゲームセンターで知人が喧嘩に巻き込まれたことがあり、先に警察に駆け込んで事情を説明してしまえば少なくとも悪いことにならないことを経験で知っていたからである。幸い、新宿東口の交番には警官が三人いた。ゲームセンターの隣で、高校生が暴力団風の男に囲まれています、と告げると、警官が二人、自転車に飛び乗って場所へ先導してくれと言った。

 まだ、柊と男たちはそこにいた。そのとき分かったが、柊はどうも殴られているらしかった。警官が止めに入るころ、私は少し遠めの間合いで事の成り行きを見守った。男たちが警官に向かって何か喚いている。明らかに柊は何かをやらかしたのだろう。自棄になって無銭飲食でもやったか、イカサマ麻雀でもバレたか、たぶん男たちに囲まれて金を出せとでも言われて、頼れるところが私のところしかなく、きっと深夜を厭わず電話を入れてきたのだ。

 同様に、私はこういう事件のあと事情を聞かれるとたいへん時間を取られることも経験上知っていた。何より問題なのは、持ち物検査とかやられると、高校の学生証と一緒に開けたばかりのマイルドセブンと百円ライターが私のポケットから出てくる恐れがあったからである。一人、また一人と警官がやってくるのを見ながら、数人の野次馬に紛れて私はそっと現場を離れた。パトカーがサイレンを鳴らしてやってくるのとすれ違いに一度だけ振り返ったが、そのまま自転車を全速力で漕いで、西武線沿いに家路へ急いだ。三時過ぎの新宿界隈は、ちらちらと雪が降り始めていた。

 自宅に着いたそのあとも、柊が気になって眠れなかった。

 翌々日になって、柊から電話が入った。ちょうど日曜バイトに出かけようかという時間だったので、着替えている最中である。外は、あの晩降った雪が残って、轍のように不格好な輪郭を道なりにつけていた。暖房を切りながらお袋から取り次がれた電話に出た。

 はいよ、と電話に出ると、柊は無言になった。いつものヘラヘラした感じの、柊ではなかった。おい、柊、と促すと、柊はぼそっと、ありがとうよ、と言った。何のことだ、と返したが、ただな、お前、高校生が囲まれていますって言ったそうじゃないか、と訊かれた。ハッとした。もう柊は、私と同じ高校生ではなかったのだ。柊は、私が自転車で駆けつけたことを知らなかったが、交番で事情を聞かれたときに、警官が喋った内容から私が警察を呼んだことを確信したという。そして、黙ってその場を去ったことも。

 そのあたり、お前は麻雀でのその堅実な打ち方と一緒だな、最初誠実、影でいろいろやって、最後にはいいところだけ持って行きやがる。柊はいつになく、ゆっくり喋った。

 怒っているのかなと思った。ただ、柊はこの電話では最後まで、なぜ男たちに殴られたのか語らなかった。私も尋ねる気はなかった。知ったところでどうしようもないと思ったからである。今日はもう出かけなければならないから、また連絡をくれ、ケーキでも一緒に食おうと言ったら、柊はいつものように愉しげに笑って、また電話するわ、と言った。そのときは普通に受話器を置いたが、それから電話がかかってくることはなかった。

 それから数日もせず、柊はそっと引っ越して行った。その事実を知ったのは、例の小間使いで雇っていた老婆がどこで知ったのか我が家にやってきて、お袋に向かって私によろしくお伝えください、と言付けて行ったからである。

 その後、柊がどうしているのかは知らない。不器用な男だから、のたれ死んでいるか、幸運な男だから、身を持ち直しているか、おそらく半端な生き方はしていないのではないかと期待しているが、さて、どうだろうか。

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 この文章を書いたのは00年のことだが、柊とは02年夏に偶然再会した。結婚して、仙台で家族五人で暮らしているそうだ。少なくとも現時点では私は柊に負けている。そういうことにしておこう。
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コミュニケイター

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 僕はずっと電話が怖かった。

 実は僕は長電話ができない。子どものころ、中耳炎を患って以来、右耳が聴こえづらいというのもあるが、電話でずっと話されると途中で頭がぼんやりとしてくるのだ。だんだん相手が何を話していても、興味をもてなくなってくる。

 それ以上に、長電話をしながら僕が相手に興味をもてなくなっていることを知られたくないというのもあるし、ひょっとしたら、相手も電話を切りたいと思っているのかもしれないと感じてしまうのだ。僕はもう話すことなんてない。電話を切りたい、でもこちらから電話を切るように話を仕向けるというのはある種の恐怖だ。関係をこちらから切って、相手が嫌な思いをしたとしたら、どうだろう。もう、二度と電話はかかってこないのではないか。

 だから、僕は僕から電話をかけるときは、必ず「お話があります、いま話して大丈夫ですか。何件あります」と言ってしまってから、用件だけを伝えるようにしている。それ以上の電話はしたくないからだ。それに、用件が終わったら、その旨だけ伝えて電話を切ればいい。

 電話でさえ、恐ろしく感じるくらいだから、最近のネット技術や携帯電話というのは僕にとって不快以外の何者でもない。僕はMSNメッセンジャーを導入したことがある。僕がパソコンに向かっているときは、たいてい僕の仕事をするために精神を集中しているときだ。そこに誰かがメッセンジャーで問いかけてくる。見なければいいのだが、呼び出しがあると見ないわけにもいかない。

 なぜ僕が僕のために用意した時間にほかの人が踏み込んでくるんだ。しばらくして、僕はメッセンジャーを立ち上げるのをやめてしまった。それでも、仕事相手がメッセンジャーを使っていたので、そのためだけにメッセンジャーを改めて導入したことがある。そうしたら、どこから訊いたのか、いろんな人が僕のメッセンジャーを登録し始めた。

 知らない人ならともかく、仕事でかかわりのあった人、一緒に何かを手がけている人、いろんな人が登録してくる。登録してくれるのは嬉しい。それだけ大事に思ってくれているのかもしれないからだ。でも、いったんみんなを登録してしまうと、メッセンジャーを立ち上げている間中、僕はパブリックとなる。さかんに、様々な案件について、相談について、雑談、世間話、噂などなど、問い合わせや様子伺いをしてくるようになる。

 僕はメッセンジャーをたまにしか立ち上げないようにした。これなら、僕は僕の気構えができたときだけ、パブリックになれる。そう思った。でも現実は違った。僕がメッセンジャーを立ち上げたとき、待ち構えていたようにコメントを一斉に投げてくる。僕は世間話がしたいんじゃないんだ。まるで十面指しの将棋のように、特定の人たちとそれ用の会話をしなければならない。電話が発展したようなものだ。しかも、電話のように、あらかじめ何件、と決めてチャットするわけじゃない。断りづらい。

 結局、僕はメッセンジャーを使わなくなった。誰のせいでもない。ただ、断りたくないだけなんだ。会話をし始めると、会話を終えなければならない。それは長電話と同じように、僕が誰かに「それじゃ、忙しいんで切るね」といわれて寂しい思いをしたのと同じく、メッセンジャーで問いかけてきてくれた知り合いとのチャットを打ち切りたくないんだ。

 ソフトやネットが便利になった分だけ、人間関係が便利になったということなのだろうか。僕はそうは思わない。僕がほかの人との対話に使う時間は、固定電話しかなかったころとたいして変わっていない。確かに、あのころは友達の自宅に電話を入れて、親が出るかもしれないというドキドキもあって、連絡を入れるというのは一種の覚悟のようなものが必要だった。

 でも、いまは違う。携帯電話をかけられたら、よほどのことがない限り出ないといけない。連絡は気軽につけられるが、それがかえってストレスになっている。着信した番号で誰だか分かる、それを知って出ないと思われるほど失礼なことはない。僕だって、誰かの携帯に電話を入れて、呼び出し音が鳴っているのに出なかったら何か理由があって僕を無視しているんじゃないかと不安に思う。きっと、僕に電話をかけて、僕が電話に出られないことが、誰かの不安を呼び起こしているんだろうと感じてしまって、携帯電話のスイッチが入っているとイライラしてくる。

 呼びかけが気安くできるようになっただけ、技術が進んだだけ、僕たちは近くなったのだろうか。僕が嫌いだった長電話のように、とにかく何かで繋がっているだけの人間関係で不安がそのまま埋め合わされているような、しかも、繋がることを、繋がり続けることを断るのが何だかとても失礼なような、凄く得体の知れない焦燥感に置かれているような気がして、僕はいつもパソコンの前で腕組みをしてしまう。
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傷だらけの女性

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 初めて彼女の腕(かいな)を見たときの驚きを忘れることはできない。

 私が勤めていた喫茶店は、表参道の大きな吹き抜けのあるビルにあり、八十席ほどもあるテーブルでは入れかわり立ちかわり表参道に相応しいいでたちをした男女が待ち合わせやお喋りに興を咲かせていた。

 高校の授業が終わったあとや土日に、私は週に四、五日ほどここで働いていた。応援指導部にいた先輩に誘われて入ってみたが、たいそう賃金が良かった。私と比較にならないくらい逞しい体躯の先輩は二年のときに留年をして同じ学年になっていた。そんなゴツい先輩がお洒落な表参道の喫茶店などまったく似合わなかったが、話を聞くに先輩の父親とそこのオーナーが知り合いとかで、頼み込まれて働いていると言う。当時はバブル華盛りで高校生と言えど時給千三百円など平然と支払われるほど人手不足の時代だった。

 私より先に勤めていた人はすぐに辞めていき、私をここに紹介した先輩も程なくして別の店を出店するからとオーナーに言われてそっちへ移っていった。その頃はまだフリーターという言葉はなかったように思うが、定職につかない三十過ぎの女性三人と私だけがローテーションを組んでこの大きい店のフロアを切り盛りしていた。厨房にはヒゲのシェフがいて、高齢のためかいつももたもた調理している姿がユーモラスだったが、問題は厨房は客席から丸見えなのである。いつもあのシェフ危なっかしいなあと思いながら配膳していた。

 アルバイトを始めて一年ほど経ったころ、マネージャーの女性から「面接希望者がいるから、あんた見てきて」と言われて通用口に立っている彼女の姿を見て面食らった。というより、焦った。

 おずおずと「先週、面接の申し込みをしたのですが」という彼女は、年のころ二十歳ぐらいかと思ったが、履歴書を見ると二五歳と書いてあった。幾分小柄なのと、夏らしくちょっと身奇麗な水玉のノースリーブを着ていたから若く見えたのかもしれない。しかし、それ以上に、彼女の顔と、腕が気になった。

 明らかに、どこかにぶつけたか誰かに殴られたかというような左目のうえの青あざと、どうやったらそういう傷を受けられるのかさえ判然としない腕についた無数の傷。正直言うと、心臓が止まるかと思うぐらい、凄惨な光景だった。

 彼女の採用は、決まっていた。というのも、それだけこの店は人手不足だったのである。厨房もフロアもてんてこ舞いで、昼となく夜となくせわしなく動き続けなければならなかった。誰でもいいから、バイトの応募が来たら儲けもの、すぐにでも働いてもらえるよう伝えておきなさい、とオーナーからは言われていたのだ。

 しかし、彼女は学生の私から見ても異常だった。おかしいと思って、その傷はどうされたのですか、と訊いても優しげに微笑んで特に語ろうとしない。大丈夫なのだろうか。そう思う気持ちだけが先に立って、面接どころではなかった。

 事の顛末をオーナーに話したところ、それは客前に出せないから、あざが治るまでは厨房で働いてもらうよ、と暢気なことを言っていた。腹の中では「どう見てもヤバい女性なんじゃないですかね」と思っていたが、口に出すことはなかった。何しろ、その前の週に隣の客がコーヒーをこぼして服にかかったとかで、客同士でつかみ合いになったばかりだったからである。それでもオーナーはロッカー一個空けなきゃなあとかとぼけたことを言っているので、はあ、と答えてそれ以上言及することをやめた。

 日ならず彼女が午前から店に入ることになり、主に授業が終わった午後から働く私とは昼下がりに顔をあわせることになったのだが、顔のあざが治るどころか、頬のところにもあざが増えている。先日面接したとき見落としたのだろうか。いや、そんなはずはない、またどこかにぶつけたのだ。どういう生活をしているのだろう。それとも、亭主に殴られでもしたのだろうか。履歴書には既婚者と書いてあったし、そういうこともあるかもしれないと思ったが、個人的な事情に立ち入るのも申し訳ない気持ちがして何も言わなかった。

 一週間が経ち、何事もなく進んでいったが、私は彼女のことが気になって仕方がなかった。同じくフロアで働いている同僚とも、彼女に何があったのかについて囁きあった。だが、彼女は階段から落ちた、などと言ってまともに答えようとしない。

 その後、彼女が二の腕に包帯をしてくるに至って、さすがのオーナーも異変に気づいた。何か問題があるのなら相談に乗るから、とオーナーが諭す姿を見て、もう少し早く気づいてやれよと毒づいたが、どうすることもできなかった。

 彼女が大丈夫ですから、と言うのでオーナーも引き下がり、夕方のお客ラッシュで混雑する店内を配膳して回っていたところ、別の店舗に行っていた先輩が届け物か何かで店にやってきた。先輩は彼女を見て仰天した。

「姉さん!」

 私も仰天した。あまりにも大きい声で先輩が叫ぶので、店内の視線が全部先輩に集まった。それはそうだ、応援団をやっているのだから地声もでかい。あの傷だらけの女性が先輩の姉なのか? 確か、苗字は全然違ったはずだ。どこか嫁いだのかなと思ったが、詳しいことは分からない私は半ば呆れて事の顛末を見守るほかない。

 大柄な先輩はどかどか走って厨房に入ると、半分泣きじゃくりかけている女性の両肩をがっちりと持ち強く揺さぶって、何かを語りかけていた。いや、語るというよりは、怒号に近かった。吹き抜けの高い天井に声が反響している。客も店員も呆然とガラス張りの洒落た厨房の向こう側で起きている事件を見やるが、あまりにも声がでかいし先輩が興奮しきっていることもあって何を話しているのかさえ良く分からない。。そうこうしているうちに、叫ぶように話していた先輩が、小柄な姉を抱きしめながらおんおんと泣き出した。余談だが、よくブンガク的表現で泣き声を「おんおん」と表現することがあるようだが、あのときはまさに「おんおん泣く」という擬態がこれ以上ないというぐらいにハマっていたことを付け加えておく。

 そこまでは完全に部外者だったのだが、半泣きの顔を修羅の表情にした先輩が私を発見して向かってきたときには、まさかこの寸劇の当事者にさせられるのかと固まりかけたが、先輩は私に大きな声でオーナーはいるか、と聞き質した。事務所にいるはずだ、と答えると、姉をよろしく、誰が来ても表に出さないように、と強く言付けられた。思わず、うす、と答えると、先輩は走って店を出て行った。

 しばらく、私は途方に暮れていた。厨房では、シェフのおじさんに支えられるようにして泣いている先輩の姉が見てとれた。といって、目の前の客は裁かなければならない。軽い服装の客に、いろいろ大変そうだね、と話しかけられた。まあ、場所柄そういうこともありますから、と分かったような返答をしておいた。

 結局、その日は何事もなかった。普通に閉店時間が来て、清掃してシェフも店員も皆終電で帰った。ただ翌日先輩は学校を休んだ。別のクラスなのだが、気になって訪問してみたのである。ああいうことがあったのだから、先輩の姉も辞めてしまうのかな、と心の端っこに引っかかっていたが、まるで昨日のことなどなかったように、私が出勤すると彼女は店で働いていた。こんにちは、と挨拶をすると、普通にこんにちは、今日もよろしくね、と軽やかな声が返ってきた。ただ何となく昨日の事件について言葉にするのが憚られて、ただ私は忙しくフロアを歩き回っていた。

 さらに三日ほど過ぎたが、何故だか先輩と学校で顔をあわせなかった。店のロッカーで着替えていると、彼女がオーナーはどこにいるかと私に訊いてきた。まさか店を辞めてしまうのかと思いながら、おずおずと何かありましたかと問うと、離婚をしたので従業員名簿を変えてもらおうと思って、とのんびりした口調で彼女は言った。言われてみれば、少しだけ、彼女の表情が晴れやかになったような気がした。何となく私も嬉しくなって、その晩先輩の家に電話を入れてみた。先輩は飄然と、いや、たいしたことはないよ、と言いつつも、駆け落ちに近かった先輩の姉は、亭主の暴力癖に苛まれて、かといって実家にも帰れず別居もできず為すがままだったことをそれとなく聞いた。彼女のあざや傷は本当に酷いものだったから、もはや暴力常習犯の亭主だったのだろう。丸く収まって良かったですね、と本心から言って受話器を置いたが、ひょっとしたら、彼女は先輩に助けてもらいたくてあの店で働こうと決心したのかなと思った。

 ほどなく彼女が先輩のいる実家に戻ったのを受けて、オーナーが気を利かせて先輩のいる店に彼女を異動させた。それ以外にも、別のバイトの女性が元彼氏の来店に激昂して熱い紅茶を投げたり、客同士の痴話喧嘩のもつれで騒ぎが起きたら別の客が怒り始め知らない客の間で殴り合いが始まったりと、とにかくいろんなことが起きる店で退屈しなかった。私は問題を起こさなかったが、たいていその場に居合わせて必ず何かを処理しなければならない役回りを負わされることになった。

 その後、私は数ヵ月後に大学進学を機に店を辞め、オーナーは事業を失敗して店を手放したが、表参道にある店は名前を変えて、一部は昔の家具のままで営業を続けている。仕事で表参道を歩くたびに、先輩のことを思い出す。

 よくよく考えれば、彼女の傷や異常な風体を一番最初に見たのは面接した私なのだ。高校生だった私に面接させるオーナーもどうかと思ったが、もし私があのとき彼女のあまりにも明確な異変を慮って採用を見送るよう強弁していたら、彼女はずっと救われずに暮らしていたのかも知れなかった。何が幸いになり、何が救いなのか分からないのが世の常とはいえ、表参道にいくと何とも複雑な心境になる。多くの人が交差する分だけ、不思議な絆というのはたくさんあざなわれているのだな、と。

拙著『投資情報のカラクリ』のあとがき

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 リクエストがあったので。

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 永遠の命を望まない人間がいるだろうか。

 年を取るたび、あと何年で自分は死ぬのだなあと考え、肉親が老けたのを目の当たりにし、そろそろ結婚を、とか、そろそろ倅を儲けなければみたいなことを考え始める。どんなに気持ちが若かろうと、肉体的な若さを保つことはできない。

 事業も人間とあまり変わらない。企業三十年説なんてのもあるが、ひとつひとつのビジネスを考えれば永続するなどということはありえない。何百年と続いている会社であっても、その環境に事業を適応させ作り変えながら存続していることを忘れてはならない。

 俗に、成長神話と言われるものがある。成長する事業、一人勝ちしている企業はその実態とは関係なく、単に業績だけ見て上がり続けている状態を賞賛される、その現象を総じて神話と呼ぶ。例えば、コンビニ神話、土地神話、もっと広く言えばアメリカの成長神話なんていうのもあるし、中国市場も最近は神話化し始めた。

 ただ、神話と呼ばれるものはおおよそカラクリのようなものが存在している。ビジネスは突き詰めれば情報落差を利用して成立するものであるから、その情報の出所が分かれば神話の正体がどのようなカラクリになっているのか推測することはできるのだ。テレビを作って売るのを見て、往々にして人間はテレビを見るという機能を欲しいがためにお金を出してテレビを買っているんだと思いがちだが、実際にはテレビを作るための情報、テレビで番組を流すための情報、テレビのコンテンツを作るための情報、ほかのテレビと差別化を図るブランドを構築するための情報などなど、その財を形成する情報の集積で業は成り立っていて、それらの情報の集積に対してお金を払っているということを熟知する必要があるだろう。

 よく日本は資源のない国だから、製造業のように材料をほかから引っ張ってきて加工して売らなければ経済が維持できない、だから輸出主導型でも仕方ないのだ、という議論がある。しかし、実際には財を形成している情報を隠すのに製造業は有利であり、同時に特定の情報を大勢の人が共有するのに製造業は向いていたから品質を維持しながらの大量生産が可能だったということに過ぎない。ブラウン管を作る方法は、出来上がったブラウン管を眺めていても分からないし、一度ブラウン管の作り方を理解できたなら工場内や会社内で共有するのはそれほどむつかしくはない。

 ビジネスにおける神話を考えると、要するにその収益を叩き出すためのクリティカルな情報をいかに隠蔽するか、それと同時に組織にいかに満遍なく伝え遺漏なく進めるかという二つに集約される。携帯電話でアイモードが流行してビジネスでの成功が伝えられたとき、人はアイモードを育てた事業部の人たちの天才的な活躍を賞賛してやまなかったが、カラクリから考えるとそれは単に携帯電話の普及局面でユーザーに対して小額決済が可能なコンテンツ供給を実現したからであって、シェア面でガリバーとなりうる国営企業系のサービスが勝利するのは当たり前の話なのである。

 神話を構成する主要なカラクリは、必ずと言っていいほどどうでもいい別の事柄に置き換えられ、慎重に隠蔽される。企業からしても、自社がどうやって儲けているかを知られることほどリスクの高いことはない。これは政治も社会問題もビジネスも宗教も科学もその構造はあまり変わらない。ただ、ビジネスは唯一、上場企業に限って言えば最低でも年次で決算が発表され、何にどうお金を使ったかはある程度の精度で明らかになる。ひとつのうまくいっている会社の決算を何年にも渡ってウォッチしていれば、自ずからその商売の仕組みは理解できようというものである。

 真正直に経営している会社もそうだが、悪いことをして不正に利益を上げている会社はもっとカラクリを隠そうとする。化粧品会社にはじまって、訪問販売、通信販売、サラ金の一部、特定のギャンブル業界、食品の一部などは、そのビジネスの構造そのものが不正のうえに立脚している場合もある。この手の会社は、自社のカラクリを隠蔽するためだけに、社会奉仕を前面に打ち出して世間に役に立っている集団だと標榜してみたり、広く薄く広告をばら撒いて報道されないようにしたり、あるいは直接的な暴力を駆使して明るみに出るのを防いだりする。迷惑なことこのうえない。

 何が巨悪であるかどうかはどうでもいい。考えるべきは、それに加担しないことである。投資家として、あるいは社会人として、なるたけそのようなものに手を出さないという姿勢を保ちつつ、同時に事情を知ろうという努力は常に払うことが大事だ。

 そして何より、神話を構成するカラクリは、構造的であることを知るべきである。カラクリは、より上位のカラクリに従属している。どんなに高成長好業績の会社でも、その上位に位置する構造が変化したら業績を保つことは出来ない。それも、数週間数ヶ月という時間差ではなく、大きければ大きいほど、一年、十年という単位で少しずつ崩壊していくのだと思ったほうが正確だ。そのような逆のカラクリもまた、世の中には自然と備わっているようにも見えるから世の中少しは面白い。

 投資家という立場は、これら経済の仕組みと直接の利害関係で結ばれていながら、一方で傍観者でもある。投資していない会社がスキャンダルにまみれたら、その影響を慎重に考察するとともに、指さして腹を抱えて笑えばいい。そして、コトの成り行きを楽しみながら、神話の終わった企業がどういう経過で崩壊していくのかというカラクリを考えて次に備えていけば良いのではないだろうか。

 そして、読者もまたそういう大きい流れを構成しているカラクリの一部として成立している。人は一人で生きているのではない。たとえ寝坊して選挙にいかなくても、翌日職場で家庭で世間について語るだけで常に誰かに対して影響を与えていることを忘れないことだと思う。同時に、貴方の目や耳に入ってくる全てのものは、全て何らかの意図があって人が流しているものである。貴方に影響を与えようとしている人の、真意を読み取る努力を払うことが、貴方はどういう存在であるかを知る道標になるのである。

8月9日 さらに締め切りを3日過ぎた早朝自社オフィスの自分のデスクにて 山本一郎

秋に吹くつむじ風のように

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 昔の日記をモチーフに書き直したもの。


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 通っていた小学校が廃校になったのは二年のときである。

 都会の孤島としか言えなかった日本橋の小学校は、私が入学したときすでにどっかの小学校の分校となっていて、全学年あわせて一五人がひとつのクラスにまとめられ授業をしていた。やる気という能力を生れ落ちたそのときから放棄していたとしか思えない校長と、国語から算数からあらゆる授業をやってくれた中年の女教師だけが私たちの親分であった。入学したとき、小学一年生は私しかいなかった。あとは全員上学年で、二年に上がったとき一人も下級生は入ってこなかった。

 いまでも最後の運動会を覚えている。五十メートルの徒競走が直線で行えない狭い校庭で、父兄の参加者のほうが生徒よりはるかに多いというこの催しは、子供心ながら「誰のための運動会か」ということを体現してやまないささやかな思い出を私に残してくれた。最初のうちはやれ徒競走だ綱引きだフォークダンスだと種目を精力的にこなしていたが、なにせ生徒の絶対数が少ない学校である。父兄しか参加しない種目まであった。最後のほうには我が子の活動を写真やフィルムに抑えようと奮闘していた父兄たちも疲れ果て、弁当やスナックを頬張りながら狭い校庭に敷き詰めた茣蓙で胡坐をかきながら歓談する光景は、最後の種目である玉入れに向かう私の目に焼きついていた。

 三年生に上がる最後の授業で、二人いた六年生が卒業すると同時に、中年の女教師が何やらつらそうに学校がなくなることや、学区をまたいで各々別の学校に編入することなどを説明した。あらかじめ学校がなくなって次の公立小学校をどこにしようかと親が思い悩んでいたのを知っていた私は、この宣告を受け入れることについてあまり深くは考えなかった。ただ、教室の後ろに飾られていた「正月」とかそういう習字の張り出しのうえのほうにある、まだ学校にたくさんの生徒がいたころの写真だけがたまらなく悲しかった。

 これを機に、我が家は住み慣れた日本橋を出て中野に引越しをした。生徒がいない学区なだけに、特にこれといって近所付き合いがあったわけでもなく、親父の弟一家を残して生家を離れた。

 新しい学校は子供が大量にいた。というか、めまいがした。同じ学年が五つのクラスに分けられ、ひとつのクラスには何と四八名も級友がいた。私が編入した三年二組は二年のときから”クラス分け”なる再編がなかったために、みなすでに友達のようであった。

 案の定、私に友達はできなかった。

 苗字の順番に割り振られたために私は後ろのほうの席になり、毎朝学校に行くなり席に座り、授業を受け、昼になると給食を食べ、学校が終わるとその足で塾に行くという平凡極まりない毎日を送った。

 塾に通っていたこともあるかもしれないが、勉強はよくできた。何せ前の分校時代は上学年のクラスメートと授業を一緒にやっていたため、事実上の飛び級のような具合であり、すでにつるかめ算や旅人算みたいな初歩の数学に近い代数のようなものを一緒になって解いていたぐらいである。学力という点ではクラスのなかで飛び抜けて高かった。別に誇るでもなく、私にとってはできることを普通にやっていただけだった。

 それもあってか知らない間に「がり勉」というあだ名をつけられ、クラスのなかで目立つときといえばテストの答案が採点され返されるときぐらいである。クラスメートの「すげえ」という驚きはすべて鍵かっこつきのもので、賞賛以外の意味がそこには込められていた以上のことは何一つなかった。

 とくに話すべき友達もできなかった私のいたクラスに、ほどなくして達川という男の子が編入されてきた。私のうしろのところに机が置かれ、先生は「転校生同士仲良くするように」と私に言った。孤立気味の私に対する配慮なんだろうと思ったが、友達を持つという行為そのものに必要や価値を感じていなかった私にとっては苦痛な指示以外の何者でもなかった。

 自分が満足に受け入れられていない現状を見ると容易に転校生がクラスに溶け込めるとも思えなかった。私は私なりに頑張って彼に話しかけようとしていた。先生に言われたこともあり、そうしないといけないのかなと思ったからである。しかし、父親の仕事の関係で広島から東京へ越してきた彼は、どことなく特徴的なアクセントといがぐり頭で一躍クラスの人気者になっていった。くりくりする目はどことなく愛嬌があって、人好きのする軽い会話に長けていた彼は、一ヶ月ほどもしないうちにクラスメートから「たっちゃん」と呼ばれるようになっていた。彼に私の話しかけは必要なかった。むしろ、邪魔なのではないかと思って、ほかのあらゆるクラスメートと同様に極自然な感じで疎遠になった。

 それでも、同じように転校生としてクラスに加わった私は、あとから来て人気者になった彼と自分を見比べて暗澹たる気持ちになった。私が「嫉妬」という感情を初めて自覚したのはこのときだったかもしれない。それまで運動神経は別に良くなくてもほかの子と比較してどうかということについてはまったく気にならなかったし、勉強については自分なりによくできていたのでコンプレックスを感じることはそれほどなかったが、学校や塾で先生に褒められるのとは違った意味で自分を他人と比べる機会があって、ましてや友達ができないことを気にし始めていたころでもあったのでかなり心の平静がかき乱された。それでもたっちゃんを嫌うことは私にもできなかった。ああ、まあ仕方ないのかな、と思った。

 たっちゃんにはひとつ癖があった。授業中、凄い音を立てて屁をするのである。しかも匂いも強烈だ。あとから聞いた話では両親のどちらかがコメアレルギーか何かで米食をせず、もっぱら芋を喰っているので屁が止まらないのだと言ってたっちゃんは笑っていた。給食で米の飯やパンが出るのが嬉しいらしく、いつも美味そうに給食を喰っていたのが記憶に残っているが、とにかく一日三度か四度は平気で屁をひる。退屈な授業中に音を立てて屁をするたっちゃんは、クラスメートから「いつたっちゃんが屁をするのか」という期待を集めるのも無理はない。

 たっちゃんの隣に座っている女の子もまたたっちゃんが屁をこくといちいち「先生! たっちゃんがまた屁をしました!」と授業中休み時間の差なく申告するのがまたおかしいのである。本人からすると、もうそれが彼女の役割だと任じて疑わないようであった。たっちゃんはそんな風にクラス中に宣言されても、気恥ずかしそうにそのいがぐり頭を撫で回す仕草をするだけだ。まるでシンバルを持ったお猿さんのような笑みをもらすたび、クラスのなかで爆笑が広がる。

 いつしか、休み時間になると、たっちゃんのまわりにはクラスメートの人垣ができるようになっていた。私の机の近くだったこともあり、とにかく騒々しくて迷惑だったため休み時間は意識的に席を外すようにしていた。いじめられ始めだった私がランドセルや勉強道具を持って教室を出るようになったのは、ノートや教科書に落書きをされたり、ランドセルのなかに石を入れられたりするのを避けるためである。しかし、それが裏目に出て「あいつは休み時間も図書館で勉強している」という噂を立てられ、その後ずいぶん難儀した。もちろん別に勉強をしていたわけではなく、ランドセルを枕に屋上でゴロゴロしていただけなのだが。

 いつもと同じく孤独な夏休みが終わったあと、夏休みの宿題を提出する日に、ちょっとした事件が起きた。そのときちょうど私は夏風邪の治り加減で、少し赤い顔をして登校したのだが、ずっと腹の具合が悪かった。給食のあと薬を飲んで、しばらくすると腹のあたりがもぞもぞし始めた。授業中でトイレに立つとそれだけで目立ってしまう。だから私は私なりに我慢していたが、我慢しきれなくなって、自分でもびっくりするほど大きな音を立ててやってしまった。屁を。

 私のじゅくじゅくとした湿ったニュアンスを伴う屁は「ベフッ」という音を立ててクラス全体に響き渡った。しかも、あの何とも言えない、やばいぐらいの匂いが周辺に漂っている。こんなことになるとは、と思って私は真っ青になった。たっちゃんが屁をするのはいいとして、私が屁をしたのを知られたら、そのあとどんなことになるのか予測がつかなかったのである。またクラスメートから嫌なことを言われると思った。それも屁をした自分が嫌になるほどクサい屁である。ただでは済まなそうだと、血の気が引いた。すると。

「先生! たっちゃんがまた屁をしました!」

 女の子の声が、間髪を入れずにこだまする。教室では割れるような爆笑が広がると同時に、周辺の子どもたちが一斉に机をたっちゃんから逃れるようにずらす。

 思わず振り返ると、クラスメートの視線を一身に受けて、たっちゃんが気恥ずかしそうにいがぐり頭を撫で回している。あたかも人相の良い地蔵が照れているかのようであった。しかし、いまクラスで起きている騒動の原因は、間違いなく私の放屁である。私の屁なのに、どうしてたっちゃんがしたことになるのだろうという思いと、たっちゃんのいつもの仕草がおかしかったのと、何とも微妙な感情が私のなかで反響して、その後の授業はずっとぐるぐるとそのことばかりを考えて、たっちゃんに謝ったほうがいいのだろうかとか、たっちゃんだから屁は笑いにできるのであって私だったら単にみんなからあれこれ言われるだけに違いないとか、とにかくそういうことが頭のなかを巡ってしまって、どうにも居心地が悪かった。あれから二十年近く経ったいまも、そのときの二時間あまりは記憶に鮮明に残っている。

 授業が終わって、塾へ行こうとしていた帰り道、私はたっちゃんに呼び止められた。「おーい」

 何故だか心臓が止まるようなギュッとした締め付けられる感覚が襲った私の気持ちを知ってか知らずか、たっちゃんは笑いながら「われ、凄い屁じゃったな」とだけ言って、黒いランドセルを揺らして団地のほうへ走っていった。言葉を返す暇もなく、ただ走っていくたっちゃんのいがぐり頭とランドセルを見送りながら私はしばらく立ち止まって、ぼんやりしていた。謝るべきなのか、照れるべきなのか、笑うべきなのかさえはっきりしなかった。ただ、頭のなかが真っ白になった。

 クラスが運動会の種目分けに熱中するころ、たっちゃんはまた転校していった。何だか風のようだった。お別れ会に呼ばれなかったので、彼がどういう心境でクラスを去ったのかさえ私には定かではない。不思議と、寂しいとか、心配だとかそういう気持ちにはならなかった。たっちゃんならどこの学校に行っても大丈夫だろうという何だか突き放したような安心感と、もう屁はできなくなったなという思いが私のなかに去来していた。

 運動会は、かつて自分が経験したこともないぐらい大規模なものであった。私にとって、運動会とはほぼ全部の種目に出場するべきものだと思っていたが、種目分けのときに誰も私の名前を指名しなかったためか、棒倒しのところにだけ私の名前があった。両親も、ちょうど何かの都合で運動会には来なかった。学校で孤立していることを両親に隠していたこともあって、ちょっとだけ私は安心した。だが、リハーサルと称して入場行進だの開会式だのの予行演習で体育の時間が潰れてげんなりした。何事もなく運動会は過ぎ去り、ぽっかり空いていた私の後ろの席にはたっちゃんがロッカーに忘れていった運動会用のゼッケンだけが、セロテープで貼り付けられて風に揺れていた。

うんこ味のカレーの秘密

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 昨日、更新したと思っていたログがアップされずに全部消失するという事件があり、燃え尽きて真っ白になっていたため更新が途絶える事態となりご迷惑をおかけしました。

 同じく昨年10月に切込隊長BLOGにてアップした記事を再掲します。

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 土砂降りの雨の中、某会合に出席してきた。

 私たちが語るべきテーマは決まっていた。国際的商取引の中で、いまや枢要な取引項目にまで成長してきた”コンテンツ”関連取引の契約形態とはいかなるものであるべきか、ということであった。

 私は日本人だったが、それ以外の人間の国籍はバラエティに富んでいた。アメリカ人あり、中国人あり、台湾人あり、イギリス人、フランス人、大阪人、熊本人など、さまざまな国から来た金融や会計、法務のスペシャリストたちである。

 あまりにも重厚な話が続いていたために、休憩として途中挟まれている昼食では結構なお国自慢に花が咲いた。食事のこと、結婚観、学歴、隣国差別、スウェーデン外相暗殺事件、オーストラリア人はおしなべてくさいこと、友人としてアメリカ人を持つのは素晴らしいが上司や部下では絶対持ちたくないことなど、明るい話題で盛り上がり、和気藹々とした雰囲気に包まれていた。

 そのとき、とある参加者が国ごとにある究極の選択というものを披露しようと言い出した。ロシアには「シベリア送りになるか、年上のかみさんを持つか」という人生の選択がロシア人男性をおおいに悩ませたという話をして喝采を浴びたが、参加者のうちの一人の女性がロシア系アメリカ人であることに気づいて沈黙が広がった。

 私は、日本の中で良くある例として「カレー味のうんこか、うんこ味のカレーか」という選択があるという話をした。当然、味がどうであれカレーはカレーであり、同じく味がどうであれうんこはうんこなのだから、答えは自明なのだ。だが、日本人には”うんこ味”というのは得体が知れず、確率論的にうんこを食すことによって発生する惨状よりも酷い結論を及ぼす可能性があると言う確からしさが、古来より日本人の頭を悩ませてきたと説明した。

 味がカレーというのは、想像がつくが、その実体がうんこであった場合、しかもそれが他人のものであり、その形状が固形か液状かの別を問わず食したあとの被害は甚大だ。

 味がうんことはどういうことなのか。そもそも、味的に想像がつかないという意見が百出した。"tastes like #%&" というのは、いったい何を意味しているのか。想像がつかないほど#%&なカレーということだろうか。

 要するに、誰も「うんこ味のうんこ」というデフォルトの状態を知らないが故に、うんこ味がカレーという実体に及ぼす影響について、誰一人として判然としなかったのである。食後の休憩時間の50分間のほぼ全てをこの議論に費やしたものの、結論は出なかった。

 再び会議開始のベルが鳴ると、別室で昼食を取っていたグループも本来のコンテンツビジネスの現状に関する議論に参加してきたが、我々のグループは胸の中にわだかまる、大きなもやもやを抱えたままであった。先方の参加者が、ローカライズの話題を始めると、"Italian taste"といった類の表現をする度に、うんこ議論を繰り返していた我々の間から密やかな笑い声が漏れた。

 そろそろ散会という頃合になって、うんこ議論に対して非常に熱心だった若いロシア人男性が「映画ビジネスのローカライズにおいて、公開権を買い付けする会社がその本来の題名を大幅に変更して公開する場合がある。それの場合、著者の意図する表現にどこまで合致させておかなければならないだろうか」という話をし始めた。こちらからすれば、さっきまでうんこについて口角から泡を飛ばして熱く語っていた男である。思わず噴き出してしまう。

 そのとき、不運な他の参加者が言った。「本質とパッケージの問題だから、基本的には権利を買い付けた方がそのセールスの一環としてタイトル権を行使するのは何ら制約されないと思う」。

 本質と、パッケージ。

 当然、参加者の中に

 本質= カレー
 パッケージ= うんこ味

 という図式が、各人の頭の中で即座に完成し、座は半分だけ爆笑に包まれた。「そうだよな、パッケージだもんな」といった、意味不明の同意も込めて。

 ことここに至って、話の分からないもう半分の人たちが、何がそんなに面白いのかと問うてきたので、説明をしてやった。真面目な会議で、しかも書記のいるところで、うんこ味のカレー。議事録はどうなっているのだろう。

 そしたら、先方のモンゴル系中国人が「伝統的に自分のうんこは食う」と言い始め、場が静まり返った。もちろん、おいおいマジかよという視線が参加者同士で交わされたのは言うまでも無い。モンゴル人は、静まった場の中でいった。「モンゴルの冬は乾燥していて寒いもんでね」

 彼はそれでもウランバートル近郊に住んでいたので近代的な暮らしに近かったようだが、冬のモンゴル平原は最高気温がマイナス20度で今日は暖かいね、というような土地柄であり、当然便も住まうテントの中で住人監視の元でする。それはそうだ、外で用を足すわけにもいくまい。寒風吹きすさぶ寒空の中、ちんこ出して小便する気にはとてもなれない。

 そして、彼は子供の頃、胃を強くするという目的で、親に言われて日々自分のうんこを少し喰っていたという。さらに、お湯にといて、あるいは乳にとかして飲んだという。

 参加者一同の口は、一斉に開け放たれ、視線は全て彼に集中した。広がった静寂を破るように、今にして思うと恥ずかしいが、と前置きした上で「うんこって、ニガいんだよ」。

 そうか。にがいのか、うんこ味。うんこ味のカレー、にがいのか。私たちの頭の中にあった、「うんこ味」という不確定性に彩られた、想像の余地のありすぎる甘美な空想の世界は、終わった。

 もちろん、そのにがさを達成するために必要な成分の問題もあるだろう。しかし、その確からしさは大幅に上昇した、しかも、実際うんこを口にしていたという人間の放った重大証言を前にして、私たちの議論は、今ここに収束の時を迎えたのである。

 肩を落とした私たちは、また来週という声もむなしく会議場を後にした。
 さっきまで、土砂降りだった雨は、いつしか夕方の綺麗な夕暮れとなって、暖かい日差しを向けている。空にわずかに残った雲の切れ端は、うんこ型となって夜へと急ぐ東京の向こうへと消えていった。

赤と青とオレンジと

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 勉強机についている蛍光灯に、オレンジ色の猫のキーホルダーをぶら下げていた。名前をナスという。

 ナスをそこにぶら下げていることに、特に理由はなかった。ただ猫が好きだったのと、微妙な具合のとぼけた表情が気に入っていただけだった。窓を開けると、ひたすらそのあたりをぶらんぶらん回って、まるでじゃれている本物の猫のように動き回った。

 家の者以外滅多に入ってこない部屋に、初めて足を踏み入れたのは部活の先輩だった。彼はそのキーホルダーを見るなり「これはナスゆきえの猫だね」と言った。いまのいままでナスゆきえが何なのか分からない、那須なのか茄子なのか、それが人名なのかどうかさえ定かではない。が、たまたまそのとき「何ですか、それは」と聞き返すのが何となく億劫で、ただ「そうですね」と答えてしまっていまだに後悔している。

 ずっとそのナスが気になっていたので、小さい猫のキーホルダーにナスと名づけていた。ナスがくるくる回るのが面白くて、わざわざ窓を開けっぱなしにして勉強したりしていたぐらいだったが、何故ナスが回っているのが楽しかったのかさえ分からない。不思議なものだ。

 中学三年の夏に、部活で合宿に行っている間に、隣家で火事があり、我が家も僕の部屋が燃えた。合宿所で、お袋が泣きながら電話を入れてきたのを良く覚えている。親父はそのころお袋と不仲で、家を空けがちにしていた。お袋が取り乱しているのに比べて、祖母は矍鑠としたもので、祖母もまた隣家との折り合いが悪かったものだから、墓を潰して家を建てた罰が当たったのだとか、火の始末もできない嫁を取った隣の女将さんの気が知れないとか、言いたい放題であったが、祖母がなぜ孫の電話で悪口を垂れているのかさえよく分からなかった。

 長野の合宿所から帰京するやいなや、元の実家よりはるかに新しく居心地の良い借家に我が家は仮住まいした。何でも火災保険が降りて向こう何年間かは無料で借り受けられるのだという。先祖代々の土地に固執してやまなかった祖母が、手のひらを返したように隣家を罵倒しなくなったので驚いた。それまでは、やれ戦火があっても土地を手放さなかったのは武家の誉れだだの、二世帯住宅は親不孝の物件だだのと文句を言うことだけが生き甲斐の口うるさい婆さんだったのに、現金なものだ。

 しかし、事実上我が家で燃えたのは私の部屋だけである。子ども心ながら、釈然としなかった。幸いにして、子どものころの写真やら記念品やらは全部ほかの部屋にしまってあったので難を逃れたが、やはり私物が山と置かれた自分の部屋が焼かれて嬉しいはずがない。その横で祖母が露骨に嬉しそうな顔をしてウキウキしながら部屋を掃除し、大きな音を立ててせんべいをかじりながらテレビドラマを見てゴロゴロしているのを見ていたら、この婆さんろくな死に方しないだろうなと思った。そうは思ったが、直接口に出すことはなかった。一度祖母と隣家の奥方が口論になったことがあるが、下水から汚水が流れ出るように流暢な江戸弁で豊富な語彙に彩られた祖母の迫力ある罵声を前にして屈辱の涙に暮れる隣家の奥方を見たことのある僕は祖母に口で逆らうことの無意味さを知り尽くしていたのである。

 とはいえ、解体工事中の我が家に行ったところでどうにもならないのは明らかだった。どうせ読まない教科書や、身体に合わなくなってきた制服などを買い直して新学期に備えたが、僕の心残りだったのは部屋に残したまま燃えてしまったであろう書き途中の日記と那須である。当時、左利きのため字が汚くて読めないことをコンプレックスに感じていた僕が、矯正のために書き始めた日記は、ちょうど半年ちょっと前に祖母が誕生日で買ってくれた和紙の赤い表紙でできた立派なものだった。日記なんて気恥ずかしくて書けるものではなかったが、たびたび僕の部屋に祖母が訪れては、日記書いてるかと口うるさく問うてくるので閉口し、なんだかんだで毎日書き続けてきたのである。人間というのは面白いもので、一度習慣になってしまうと最初はどんなに苦労するものであったとしても何の造作もなくできてしまうらしい。いつしか、毎晩寝る前に一時間づつ、三十分は英語の勉強、もう三十分は日記を書くという慣わしとなってしまって、新しい住居に移ってからも大学ノートを自分で買ってきて日記をつけていた。

 まあ、それ以外にもちょうど学校で男女間の交換日記なるものが流行っていて、いつ僕が誘われてもいいようにと期待を持って書き続けているというのもあったが、結局中学を卒業するまで誰一人として僕に交換日記を持ちかけてくる女の子はできなかったというのがちょっとした中学校の思い出ではある。親父も家に帰ってこなくてお袋がさびしそうにしているとか、高校進学を控えているのに成績がなかなか上がらないとか、そういうことも含めてくだらないことをたくさん日記に書き込んでいたから、燃えてくれてよかったという気持ちも心のどこかにあったかもしれない。

 しばらくして、祖母が亡くなった。脳卒中で、あっという間だった。祖母の逝去を知って、ろくでなしの親父が帰ってきた。お袋は親父よりずっと祖母といる時間が長かったし、祖母は口は悪いが嫁姑の不仲というような世間の常識から程遠いほど気楽な付き合いをお袋としていたこともあって、お袋のほうがよほど悲しそうだった。そろそろ借家から新しく立て替えた自宅に戻ろうかというときだったので、せめて祖母が生まれてずっと暮らしたあの土地で死なせてやりたかったと親父が泣いていた。不思議なもので、あれだけ夫婦喧嘩の絶えなかった両親がこういうときだけ同じように打ちひしがれている様子を見ると、かえって冷めた目で、それならはじめから仲良く暮らしていれば良かったのに、と思ってしまっていた。親族が集まって、皆等しく祖母を偲んで泣いているのを傍から見ながら、そうはいっても誰一人祖母の面倒を見ようとは言わなかったじゃないかと心のなかでずっと毒づいていて、僕はとても泣ける気分ではなかった。

 告別式が終わって、祖母の遺品を片付けているとき、僕は何と祖母が青い和紙が表紙の日記帳が鏡台のところに置かれているのを発見して面食らった。家事のこと、隣家の奥方との喧嘩のこと、通っていた文化センターの同級生のことも多少は書かれていたが、大半を占めていたのが僕のことだった。僕が学校に行ったり、バイトに行っている留守の間に僕の日記を読んでいたらしく、親父がこんなだらしなく育ってしまってごめんねとか、早く交換日記をしてくれる女の子ができますようにとか、まるで僕の日記に答えるかのように綿々と書き綴られていたのである。

 しかも、鏡台のすぐ下には、赤い和紙の表紙の、僕の日記帳が出てきた。目を丸くした。僕がつけてた日記帳がここにあるということは、合宿に行っている間祖母は部屋から持ち出して読んでいて、僕の部屋が焼けたから返すに返せなくなってずっとしまっていたのだとすぐに悟った。悪い気はしなかった。そうならそうと早く言ってくれればいいのに、と思うと、僕なりに熱いものがこみ上げてきて、声を上げずに泣いた。

 その一部始終は、きっとナスだけが見ていたのだ。そう思うと、目の前でずっとくるくる動いていたナスが、浮かんできたように感じた。ナスの元に逝ってしまった祖母が、新しい家にまた帰ってくることを祈って、自分の日記を添えて祖母の日記をそっとダンボールにしまった。

ピエール 六周年

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 98年にニフティ・ビジネスマンフォーラムの雑談会議室に書いたもので、何だか知らないが根強い人気を持っていて旧知の友人と出会うと必ず話題になるためとりあえず再録。

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 過ぎ行く夏を惜しむかのように野原一面に土筆がはえ、メダカが産卵のために川を登る10月のある日のこと。
 「あなた。いい加減起きてくださいな。食事が冷めてしまいます」
 雪夫は階下から呼びかける雪子の声を聞きつつ舌打ちした。それどころじゃないんだがなあ・・・。彼の人生の目標は笑えない笑いを追究することであったが、齢40を超えて未だ悟り開く気配すらないことに、雪夫は焦りを感じ始めていた。笑えない笑いは、どこまで追い求めてもやっぱり笑えないのである。

 雪夫は妻・雪子にこの崇高な目標を打ち明けることなく日夜精進する毎日であったが、
一つ気がかりなことがあった。
 「俺は、お笑いのセンスがないんじゃないか・・・」
 その疑念は日増しに強まり、やがて確信に至りつつあった。

しかし、雪夫の顔がソープランドから出てきた日雇い労働者のように晴れやかな表情に変わる転機が、今ここに訪れようとしていた。
 窓の外には隣の家の茶色い飼い猫が、スタスタ塀の上を歩く姿があった。彼は、毎日のように雪夫に気兼ねすることなく朝の散歩を楽しんでいるように見えた。

 雪子から見れば、彼は単なる猫であり、隣家の主人がフランス書院文庫の影響で猫に対してピエールという名前をつけているというだけのことだったが、雪夫はこの日衝撃的な光景を目撃する。

 ピエールは雪夫の視線に気づかず、塀の上で一回ノビをすると、ふところからホープを取り出し、洒落た手付きでジッポを操りふかし始めたのである。
 雪夫は思わず窓を開け声をかけた。「君!未成年だろう!」
 ピエールは億劫そうに雪夫の方をちらりと見やると、「私、未成年ちがう。俺はフランス大統領直属の指令で日本に来てるスパイ。その証拠に足のつめを切る」
 猫は爪切りをどこからともなく取り出すと、器用に足のつめを切り始めた。
 雪夫は思った。こいつ、本物だ。船井幸夫は正しかったのだ。
 この日から、雪夫はピエールと会話することを毎朝楽しみにするようになっていた。
雪夫は今失業に近い自分の不幸話や、痴漢に間違われてブタ箱に放り込まれたこと、居酒屋の座敷で飲んでる隙に新調した靴を他の客に間違って履いて帰られたこと、学生来の親友が不況の影響で資金繰りにつまり自分に保険をかけて中央線国分寺駅で飛び込み6万人に迷惑をかけたことなど、明るい話題で盛り上がり、ピエールもいつしか雪夫に心を許し始めた。

 やがて長い冬が終わり、東京湾に流れつく流氷に乗った白熊が北極圏に帰る仕度を始める5月。バイオリンを持ったコオロギの大群が田畑を荒らし始める季節となると、ピエールは重大な問題を雪夫に投げかけた。
 「もはや、フランスはアメリカの帝国主義的世界覇権を容認することはできない」
と前置きをした上で、微妙にひげをゆらしながら続けた。
「そこでまず手始めに自民党を壊滅させ共産党不破政権を樹立した上で、台湾を日本政府の保護下におき、日本は中国に対して朝貢を行って柵封国となり、中国に一国五制度政策を取らせて中国共産党の親米路線を破綻させる計画があるのだ」

 このピエールがもらした遠大かつ壮大な計画に雪夫はあっけにとられ、かつ身震いした。なおもピエールは語る。

 「そして、中国、ロシア、日本というアジア極東地域三大共産主義国家による軍事同盟を元にアメリカの軍事プレゼンスを消滅させ、NATOもアメリカを排除し、アメリカ大陸と欧州、アジアの三ブロックによる新しい世界秩序を形成しようという構想があり、その目標達成のため巨額の資金がすでにプールされているのだ!」
 雪夫はただ漫然と生きてきた己を恥じた。ピエールの崇高な理念と計画性、そして何よりも自分にそんな秘密を打ち明けてくれたことに、大きな衝撃を受けたのであった。

 ピエールは「来週にはこの計画を実行するための会議が浅草で開かれる予定だ。ついては、この会議に出るために3千円かかるので貸して欲しい」と雪夫に頼み、雪夫が貸してやると、二度とピエールは雪夫の前に現れなくなった。

 雪夫は思った。ああ、ピエールは偉大なフランス人スパイだったなあ。そうだ。俺は、もっと変わらなければならない。彼はそう心に誓ったのである。

 二階から降りてきた雪夫の様子が変であることに雪子は気づき、声をかけた。
 「あなた、何か変わったことがあったんですか?」
 「いや、俺は世界を変える!」
 雪子には、雪夫の人生が大きく変わったことに気づく由も無かった。

アメリカンデブとの晩餐

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 去年、切込隊長BLOGで書いたものを再録。いろいろと後日談もあるのだが、そっちはあまり面白くないので書かなかった。『美人投票入門』という書籍を出版したときに収録したが、そのとき行った修正前のもの。

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 先日、アメリカから太っちょが来たので晩飯を一緒に喰った。

 前に、私は彼に変な銘柄を奨めて大損させたことがある(照)。

 なもんで、東京のフォーシーズンズホテル丸の内に泊まっているから飯を喰おう、と誘われたら地元でもある私が飯代を出すのは仕方のないことだと思っていた。どうせダイニングといってもせいぜい2万かそこらであろう、どうせ会社の経費で落とすし、こういうときぐらい仁義として払ってやってもいいだろう、いいに違いない、と自分で自分を説得しながら、ホテルのある東京駅に向かった。

 ひとつ、私が計算違いをしていたのは、アメリカンデブは一人ではなかったのである。

 私が損をさせたブライアン(仮称)というデブは、いわゆるこってりデブであり、腹回りから腰にかけて分厚い脂肪が溜まっているタイプである。しかし、彼の周囲には彼と同泊しているというジョナサン(仮称)というデブと、ブライアンの子供であるニッキーとケイ(いずれも仮称)というデブと四人でフォーシーズンズのロビーのソファーを占領していた。

 親がデブなら子供もデブというのは遺伝子や食習慣で分からなくもないが、よりによってその同泊しているビジネスパートナーまでデブを選ばなくても良いのではないか。

 かくして、アメリカンデブに会いに逝ったら、そこには4アメリカンデブズという複数形に進化していたのが非常に厄介であり、その後のお金の流出について強い懸念を抱き始めた。

 他のホテルに移ってダイニングルームを取り全員落ち着いたとき、その懸念は恐怖に変わりつつあった。食前に出される白ワインを、注がれるや否や10秒というオーダーで飲み干しやがるのである。「白ワインってのはな、食事前の談笑を楽しむためにちっとずつ飲むものなんだよ」と抗議したが「そんなことをするのは暇なフランス人ぐらいのものだ」と口々に返され、「これだからアメリカ人は」と大げさに言ったところ「そういうことを言うとまた占領するぞ」と笑って言われた。まあ、私も韓国人と商売上口論になると「お前、つまらん注文つけるとまた日韓併合するぞ」ということがあるので、このあたりの考え方は似たようなものなのかも知れない。

 口論には歴史を踏まえたお国柄というのが結構あって、ドイツ人と仲良くする時は「次やる時はイタリア入れるのやめようぜ」とか「次は勝つぞ」とか「ポーランドはドイツの領土貯金みたいなもんだ」とか都合の良いことを言い、ドイツ人と喧嘩する時は「お前は俺のビッグブラザー(宗主国)ではない」とか「スウェーデン人に逃げられた癖に(戦争でもEU統合でもスウェーデン人にドイツは逃げられた)」とか都合の悪いことを言う。

 どこの文化圏の国の連中と話をする時にも、分かる範囲でその国の歴史の都合の良し悪しを利用して仲良くしようとしたり口喧嘩したりするものなのである。なお、イスラームの一部や中国人の一部や韓国人の全部は洒落が全く通用しないので工夫したほうが良い。かなり昔の話になるが、中国人ビジネスマンに「台湾と満州は中国国旗の立った日本の領土」と言ったら、殴り合いの喧嘩に発展したことがあったので注意されたい。

 そんな感じで仲良くアメリカンデブズと飯を喰い終わってデザートが出る前後になって、デブが口々に「足りない」と言い出した。私は満腹だ。普通にフルコース喰って、腹がくちない日本人はそういない。しかし、彼らは物足りないという。ノットイナフだという。ソーハングリーだという。死ね。

 おまけに、赤ワインを何本も空けていた。ま、ホストである私が全部頼んでいるので(私がお金を出すのだから当然だ)、掲載されている中でももっとも安価なワインを上から順に頼んでいるだけなのだが、それでもたっぷり三万円分は飲んでいる。ふざけんなと思ったが、まあここは接待である。保険屋が取り付け騒ぎで殺到した客をさばくのにジュースをたらふく飲ませて帰すようなものだ。解約されて大損するよりは、手ごろな飲み食いをさせて腹いっぱいになれば満足するというわけだ。

 それでも彼らの食いっぷりは常軌を逸している。何とかデザートでやり過ごそうと思ったが、デブズが経営する会社の日本法人の近くに肉屋(ブッチャー)が焼いて提供するBBQを開店しているからそこへ連れて行けラル(私のこと)という。最初、何のことだか分からなかった。話をよく聞いてみると、ビッチな韓国人でないほうの、和風のブッチャーが良いという。ことここに及んで、彼らは焼肉、あるいはすきやき、もしくはしゃぶしゃぶを喰いたいという趣旨のことだと理解した瞬間、抱いていた恐怖は諦観に変わった。まだ喰うのか。

 仕方がないので、タクシーを二台呼んでもらい、二台に分乗した。日本人が五人なら、一台のタクシーで充分だろうが、何せ搭載する人物が人物である。変に偏って乗られて、タクシーに横転でもされたら目も当てられない。引火したらしばらく燃えてそうだし。

 果たして、彼らの期待していた和風肉屋は既にラストオーダーの時刻を回っていた。そうすると、普通に焼肉屋に入るしかない。幸い赤坂は土地勘があるので手ごろな価格の焼肉屋に入った。が、やっぱりというか、デブズは普通の四人卓に座らせて収まるような体格をしていない。仕方なく、特設網焼き席を作ってもらった。何か好きな肉はあるかと聞くと、「肉は好きだが、肉の何が好きかと聞かれると返答に困る」という返事だった。私の英語力が足りなかったのかも知れない。焼肉においてはカルビ、ロース、リブ、ホルモンなど様々な部位を個別に頼むのだが、何か好きな肉はあるだろうか?と問い直したら、「どれも牛肉であることには変わりないだろう。だったら頼むべきものはただひとつ、肉だ」という。

 諦めてカルビを6人前頼んだ。

 肉が到着すると、焼ける間もなく片っ端から消えてく。しかも、デブズはタレをがんがんにかけて喰う。しかも、手が汚れると紙製の前掛けでバンバン拭く。次々と肉をビールと共に口の中に放り込んでは、まるで牛が親の仇でもあるかのようにどんどん注文していくのである。

 ここで更なる問題が勃発する。いま喰っている肉を提供している焼肉屋の近くには、彼らが資本を出している会社の日本法人が本社ビルを構えているのである。当然、怖れていたように「そういえばケビン(仮称)が日本支社だったな。今すぐコールしろ!!」といった指令が飛ぶのである。とはいえ、もう23時を楽勝で回っている。もう帰宅しているに違いない、帰宅していてくれ、と思ったら普通に会社にいた。これだから保険屋は嫌いだ。何と言うか、デブは仲間を呼ぶ。まるでwizardryでいえば瀕死のパーティーに遭遇したグレーターデーモンが仲間を呼ぶようなものだ。しかし、助かったのはケビンは明日中に終わらせる仕事があるので行けないとのことだったので、デブ増援は避けられた。

 ちと小便で中座してしまった間に彼らは勝手に頼んだらしく、大皿に山盛りの肉が運ばれてきて泣きそうになった。周囲の客が分からないのをいいことに「俺のちんこは世界一(My Dick is No.1)」とか歌っているのである。もはや品性という単語がもっとも似つかわしくない集団である。どうやら頼み方も「何か肉を持って来い」だったらしく、盛り合わせで登場していた。

 いきなり終了のゴングが鳴ったのは「ラストオーダーです」というおずおずとした声が、たどたどしい日本語を駆使する店員の口から発せられた時だった。正直助かったと思った。デブズは腹をパンパン叩いて「あー喰った喰った」「少しは満足だ」としか言わない。会計をして、金額を見て顔がひきつりそうになったが、ここは堪忍である。タクシー乗り場まで送る途中、彼らは自販機の前に仁王立ちになり、何をするのかと思ったら、人数分のダイエットコークを買った。あんだけ喰って飲んで騒いで、ダイエットコークなのかよ! いまさら1カロリーかよ! 既に腹の中は高カロリー高脂肪なんだよ!

 赤坂の道の真ん中で横に並んで歩く一行の手にはダイエットコーク。タクシーでの別れ際に「兄弟。次はオリンズでいいもん喰わしてやるよ。最高の奴をな」と強く肩を叩かれた。いつもはまずいと感じてやまなかったダイエットコークが、ちょっとだけ、おいしく感じた瞬間だった。