11月1日、かねてより安楽死を宣言していた女性が亡くなっていた報道がありました。
賛否両論ある中で
『治る見込みのない病で苦痛、激痛を伴う物』としてだけ薬が処方される、
と聞きました。
その『苦痛、激痛』は全くもって本人しか知り得ない、
健康な人、または違う病気である者には到底知り得る事の出来ない痛みだろうと思う
私の親友は6年前、胃がんであろう病(場所がはっきりわかっていない状態で発見された)でこの世を去りました。
夏に食事会をし映画を見て
それからは少し遠慮して
『具合はどう?』などとは聞けない時間が流れ、
彼女のご主人から電話が来たのが
『会わせたい人がいれば呼んで下さい』
とゆう段階になってからだった。
年末だったため、昨日仕事納めだったのよ、
とゆう時間の理由まで付けながらがんセンターへ
そこには痩せ衰えて 冬だとゆうのにタオルケットとおむつだけで横たわる親友の姿が…
見舞った3人仲間のうちの一人はそのまま部屋を飛び出してホールで号泣しました。
残った2人で平静を装いつづけました。
私は看護士でもあった彼女に
乳癌の手術成功を報告
かすかな声で喜んでくれました。
そしてもう一人の友人に遺す息子2人の野球クラブの事と
自身の息子を野球関係で進学させた友人にアドバイスを何度も頼んでいました。
すると突然、彼女が目の前でもがき始め、
『早く◯◯◯◯を!早く!』と薬の名前を叫び
彼女の実のお母さんが
『さっきもう使ったから、まだ◯分しかたってないよ』と
それでも
『早く◯◯◯◯を頼んで!』
と懇願する彼女
ナースコールが押されて私達は外へ
しばらくして最初に飛び出した友人も落ち着き少し病室で話を。
中学時代からの友人でしたから
お母さんもお姉さんも
『皆さんと出会えて◯◯ちゃんも幸せだったと思うよ』と
私は
何故お別れみたいな言い方するの? 本人の前で
と思いながら
『退院したら今度は旅行でも行こう』
と
慰めにもならないかもしれない 言葉をかける
それ以外の言葉だと本人の目の前で号泣してしまいそうだったから。
お姉さんとお母さんが
『今日は親友の皆さんが来て下さったから 久しぶりにこんなに話出来たわね』
と。
ぢゃ、あまり長居しても疲れるだろうから
また来ます。
◯◯さん、またくるね、
また絶対食事会しようね、
そうだ◯◯くんの店へ行こうよ
彼女はありがとうありがとうと何度も言った
か細い声で何度も何度も
それが彼女との最後のお別れのさようならになりました。
私達が見舞った日の明け方 旅立って行きました。
最後に赤いメロンと白いメロン、両方一口づつ食べたのよ
とお母さん
◯◯ちゃん、何日か前に
『お母さん、私もう早く楽になりたい…』と言ったのよ、
そんな事って…
私はその時、初めて彼女の痛みを想像しました。
産んでくれて育ててくれて
これから親孝行するよ ってゆう実のお母さんに
『早く楽になりたい』
そう言った彼女の本心
お母さんにしか言えなかった気持ち
お母さん助けて って言えば小さい頃からいつもそこにいて守ってくれていたお母さんに
もうこれ以上私頑張れない って言った気持ち
心臓が張り裂けるような痛みと供に彼女の悲痛な叫びに包まれ、私は声を出して泣いた。
その時、それで終わりにしてはいけないのか、
まだそれ以上耐えなければいけないのか
答はまだないけど
そして意識障害を伴わない痛み止めもまだないんだろうけど
病気になったあげく そこから地獄のような痛みに耐えなければいけないなんて事がわかっているのなら
NOと言いたい
彼女のご主人が『お正月はずっと家に置いてあげたい』
と言い
一週間彼女は家で家族や友人、職場仲間と過ごしました。
そこには 彼女が生前依頼していたお正月料理が届いたとゆう事です。
男ばかり3人暮らしになってしまう愛する家族の為に、クローゼット、引き出し、キッチン、全てに名前と品名がテプラされていました。
別れ際彼女のお母さんが
『あなたも大変だろうけど◯◯ちゃんの分まで生きてね!』
と強く手を握って下さいました。
柔らかくて温かい手の感触でした。
賛否両論ある中で
『治る見込みのない病で苦痛、激痛を伴う物』としてだけ薬が処方される、
と聞きました。
その『苦痛、激痛』は全くもって本人しか知り得ない、
健康な人、または違う病気である者には到底知り得る事の出来ない痛みだろうと思う
私の親友は6年前、胃がんであろう病(場所がはっきりわかっていない状態で発見された)でこの世を去りました。
夏に食事会をし映画を見て
それからは少し遠慮して
『具合はどう?』などとは聞けない時間が流れ、
彼女のご主人から電話が来たのが
『会わせたい人がいれば呼んで下さい』
とゆう段階になってからだった。
年末だったため、昨日仕事納めだったのよ、
とゆう時間の理由まで付けながらがんセンターへ
そこには痩せ衰えて 冬だとゆうのにタオルケットとおむつだけで横たわる親友の姿が…
見舞った3人仲間のうちの一人はそのまま部屋を飛び出してホールで号泣しました。
残った2人で平静を装いつづけました。
私は看護士でもあった彼女に
乳癌の手術成功を報告
かすかな声で喜んでくれました。
そしてもう一人の友人に遺す息子2人の野球クラブの事と
自身の息子を野球関係で進学させた友人にアドバイスを何度も頼んでいました。
すると突然、彼女が目の前でもがき始め、
『早く◯◯◯◯を!早く!』と薬の名前を叫び
彼女の実のお母さんが
『さっきもう使ったから、まだ◯分しかたってないよ』と
それでも
『早く◯◯◯◯を頼んで!』
と懇願する彼女
ナースコールが押されて私達は外へ
しばらくして最初に飛び出した友人も落ち着き少し病室で話を。
中学時代からの友人でしたから
お母さんもお姉さんも
『皆さんと出会えて◯◯ちゃんも幸せだったと思うよ』と
私は
何故お別れみたいな言い方するの? 本人の前で
と思いながら
『退院したら今度は旅行でも行こう』
と
慰めにもならないかもしれない 言葉をかける
それ以外の言葉だと本人の目の前で号泣してしまいそうだったから。
お姉さんとお母さんが
『今日は親友の皆さんが来て下さったから 久しぶりにこんなに話出来たわね』
と。
ぢゃ、あまり長居しても疲れるだろうから
また来ます。
◯◯さん、またくるね、
また絶対食事会しようね、
そうだ◯◯くんの店へ行こうよ
彼女はありがとうありがとうと何度も言った
か細い声で何度も何度も
それが彼女との最後のお別れのさようならになりました。
私達が見舞った日の明け方 旅立って行きました。
最後に赤いメロンと白いメロン、両方一口づつ食べたのよ
とお母さん
◯◯ちゃん、何日か前に
『お母さん、私もう早く楽になりたい…』と言ったのよ、
そんな事って…
私はその時、初めて彼女の痛みを想像しました。
産んでくれて育ててくれて
これから親孝行するよ ってゆう実のお母さんに
『早く楽になりたい』
そう言った彼女の本心
お母さんにしか言えなかった気持ち
お母さん助けて って言えば小さい頃からいつもそこにいて守ってくれていたお母さんに
もうこれ以上私頑張れない って言った気持ち
心臓が張り裂けるような痛みと供に彼女の悲痛な叫びに包まれ、私は声を出して泣いた。
その時、それで終わりにしてはいけないのか、
まだそれ以上耐えなければいけないのか
答はまだないけど
そして意識障害を伴わない痛み止めもまだないんだろうけど
病気になったあげく そこから地獄のような痛みに耐えなければいけないなんて事がわかっているのなら
NOと言いたい
彼女のご主人が『お正月はずっと家に置いてあげたい』
と言い
一週間彼女は家で家族や友人、職場仲間と過ごしました。
そこには 彼女が生前依頼していたお正月料理が届いたとゆう事です。
男ばかり3人暮らしになってしまう愛する家族の為に、クローゼット、引き出し、キッチン、全てに名前と品名がテプラされていました。
別れ際彼女のお母さんが
『あなたも大変だろうけど◯◯ちゃんの分まで生きてね!』
と強く手を握って下さいました。
柔らかくて温かい手の感触でした。