「佳子」の夫です。
私達にとって2021年はとても辛く、
それ以上に懸命で尊い1年でした。
本日はその尊い1年の最後の更新として、
家族と共に生き切った妻の為人について、
改めて記事に残したいと思います。
おそらく長文となりますが、
最後までお読み頂けると幸いです。
まず妻を一言で表しますと、
「真っ正直な女性」です。
他者を陥れたり利己的な駆け引き等とは、
出会った当初から全く無縁な性格でして、
人としてもとても信頼できる女性でした。
そして「直ぐに行動する女性」でもあり、
何でも形から入る私からすると、
その実行力は今でも尊敬と憧れの的です。
当ブログの記事にもありますが、
家族のために色々な手料理に挑戦したり、
息子のために裁縫を覚え、
子供の顔にフィットするマスク、
軽くて丈夫なリュックやバック、
そして子供服までも手作りしていました。
家族のために何かを成す事で、
妻自身も幸せを感じていた様です。
また夫が言うのもなんですが、
「容姿も声も美しい女性」でして、
他の異性や同性からも人気がありました。
ただ真っ正直で行動力があるが故、
意見や感情の衝突も決して少なくはなく、
多少のアンチが同性には居た様ですし、
妻本人が嘘をつき慣れていないためか、
他者の嘘に少し騙され易い、
といった側面もありました。
ですがそんな危なっかしい所も、
私には何だか放って置けないという、
彼女の不思議な魅力に映りました。
妻は心身共に美しく、
周りから愛され幸せを呼ぶ子という、
「佳子」の名に込めた義両親の想いを、
正に体現した人でした。
結婚を許してくれた義両親にも、
心から感謝しています。
そんな彼女との出会いは2009年の4月、
前の会社の新宿御苑近くの事業所でした。
関西の事業所から関東の事業所へ、
彼女自身が希望し異動してきたのですが、
これも持ち前の行動力で、
神戸の事業所で計画的にスキルを積み、
ポストを得た上で関東への異動申請をし、
憧れの東京生活を手にしたのです。
身長は160cm弱と女性の平均かやや小柄、
小顔で童顔のために6歳くらい若く見え、
新卒間もない若手社員が異動してきた、
と私は最初そう思いました。
そして素直に可愛い女性とも思いましたが、
強く印象的に残っているのは、
真っ直ぐに私の目を見て話す彼女の、
その凛とした眼差しと清々しさでした。
幸か不幸か私はそれまで、
彼女程の凛とした女性には、
正直出会った記憶がありませんでした。
しかもその日の内に彼女の方から、
自己紹介で年齢を正直に言ってきて、
同学年である共通点も見つかりました。
連絡先交換や晩ご飯に誘うまでは、
殆ど日数を要しませんでした。
遠い関西から関東に異動した先で、
同学年でお互い独身というタイミング、
これだけでも相当な偶然の一致でしたが、
各々が当時抱えていた人生観と、
その課題までもが見事に一致していたのは、
後々まで物凄い偶然の一致だと、
妻も私もお互いによく話題にしてました。
最初はお互いに励まし合い、
その内リフレッシュに付き合う様になり、
最終的に支え合っていく仲となりました。
同棲生活を経て妻と結婚したのは、
2012年の12月です。
その約2ヶ月後から、
妻の当ブログがスタートして、
2014年の1月には待望の息子が生まれ、
妻の愛する家族の記録となる訳ですが、
結婚までの経緯をもう少し記します。
彼女は昔から友達が多く、
学生時代からの親友M子さんとは、
よく女子2人旅もしていたそうです。
また20代前半の頃は、
シルビア(車)に乗って渓流に行ったり、
職場仲間と海でマリンスポーツをする等、
とてもアクティブに活動してた様です。
維持費の高い速い車に乗っていたので、
車いじりが趣味なのかと思いきや、
神戸の事業所に移る際か、
新宿御苑近くの事業所に異動する際か、
私が聞いた時期を失念してますが、
車はあっさりと手放したそうです。
私も息子も中々断捨離できない性分で、
妻のこの実行力にも脱帽なのですが、
物を大事にし永く使おうとする性格、
と妻はポジティブに評してくれてました。
話を彼女の事に戻しまして、
2009年からの東京生活は世田谷に住み、
下北沢の雑貨店やカフェ巡り、
まったり東京家呑み等を楽しんでました。
この世田谷の物件選びの際は、
旧友かつ会社の上司でもあるY夫妻から、
仲介業者の口車に乗らない様にと、
手引きと指導を受けて決めたらしいです。
私達が出会った後、
2人の初デートが西新宿だった事と、
この時私は練馬に住んでおり、
お互いの電車移動の中間でもあったため、
休日はよく西新宿で遊びました。
平日の仕事帰りは新宿三丁目の居酒屋、
私の家に来た際は石神井公園の商店街、
彼女の家に行った際は下北沢の商店街、
と近場でも幼馴染の様に遊びました。
いつの間にかいつも一緒に居る仲、
になっていたのですが、
付き合う様になって1年弱の期間で、
前述の出会った当時の各々の課題は、
お互いほぼ解決してましたので、
2010年の夏頃には合鍵を交換してました。
そして彼女は会社を辞めて、
西新宿にある別会社の面接を受け、
中間管理職として採用されるのですが、
この転職先の上司に問題があり、
今では即アウトな激務を強いられます。
どうやら生え抜きであるその上司は、
転職者を嫌う節がある様でして、
タスクの丸投げや責任の押し付け、
パワハラや女性差別のセクハラもあり、
彼氏の贔屓目を抜きにしても、
明らかに間違った上司でした。
彼女の人柄が取引先に気に入られたり、
部下達からの信頼を早期に得られた事も、
この上司の嫉妬を招いていた様です。
その会社であるプロジェクトが開始され、
同じくらいの時期に私達も、
練馬の家で同棲生活を始めました。
はっきりとは覚えてませんが、
確か2011年の7月だったと思います。
プロジェクトの稼働中も激務は変わらず、
真っ正直に彼女は文句を言ってましたが、
それでも毎日仕事を続けてました。
自分が辞めてしまうと、
部下達のサポートをする人が居なくなる、
だから辞める訳にはいかないと。
昔から人のために身体を張る性分で、
そんな彼女がとても心配でしたが、
当時の私はあまり稼ぎがよろしくなく、
「全部俺に任せて明日から辞めろ」と、
胸を張って言う事ができませんでした。
ただプロポーズだけは格好良く決めたく、
出会って丸3年の2012年の4月、
頑張って汐留のホテルの高層階を予約し、
次のサプライズ計画を実行しました。
待ち合わせ前に私だけチェックインし、
フロントスタッフと事前に打ち合わせ、
当日のディナー後にケーキとワイン、
そして購入済みの婚約指輪を、
中身を明かさず部屋に届けて貰う、
という計画です。
チェックイン当日の申し出にも関わらず、
フロントの方は快く引き受けてくださり、
またその日は部屋から見える東京タワーが、
ワインレッドにライトアップされるため、
そのタイミングでのお届けがお勧めです、
とアドバイスまでして貰いました。
計画の物一式が部屋に届き、
婚約指輪の箱を開けていざプロポーズ、
までは全て計画通りだったのですが、
直前で考えてた言葉が全て抜けてしまい、
「結婚しよう」とのみ言えました。
でも彼女は泣きながら「うん」と言い、
「よろしくね」と応えてくれました。
この時の彼女の笑顔と涙を、
私は今でも鮮明に覚えています。
私達は2人の新生活のため、
2012年の6月に清瀬に引っ越しました。
また同年の夏頃だったと思いますが、
彼女の仕事はプロジェクト終了と共に、
一旦メンバー解散となりました。
部下達も違う事業所へ散り散りになり、
これを機に彼女は西新宿の会社を辞めて、
清瀬で専業主婦になります。
その後10月にリフレッシュを兼ねて、
2人で1泊2日の熱海旅行に行きました。
ここでも私なりに精一杯頑張って、
熱海の海が一望できる旅館の、
更に露天風呂付きの部屋に泊まりました。
旅館の女将さんが私の実母に似ていて、
その事を彼女はまた正直に女将さんに話し、
打ち解けて仲良くなるという、
彼女らしいエピソードもありました。
なおいつ頃か忘れてしまってるのですが、
清瀬に引っ越してから結婚までの間に、
辞令で私は横浜に転勤となります。
往復4時間もかかり非効率でしたが、
新生活は毎日がとても充実していました。
そして2012年12月12日、
私達2人は夫婦になりました。
「2人でイチニ!×3」と二人三脚で、
共に支え合いながら歩んで行こう、
そういう想いを込めて。
以上が妻と私の結婚までの経緯と、
妻の為人についてです。
こうして改めて振り返ってみますと、
出会いから今年の人生の完走まで、
妻は正に身体を張って、
生きる勇気と希望や、
人と人との繋がりや家族の大切さ、
真っ直ぐ正直であり続ける強さや、
辛くても諦めない懸命で尊い生き方等を、
家族や周りの人達に伝え続けてました。
それは私達の掛け替えない存在の息子が、
息子の母に代わり体現しています。
「佳子」のこの功績はとても偉大だと、
私は心底そう思います。
また妻の短い人生の最後の12年半を、
一緒に共有できた事も私達夫婦の誇りです。
これまでもこれからも、
これらの想いは変わりません。
最後までお読み頂き、
誠にありがとうございました。
夫より