「1票の格差」問題では、地方の少数派に味方する私だが、多数派の横暴に辟易した思い出があるので、少数派に味方することが多いのだが、最近の少数派の横暴には目に余るものがある。「少数派は正義か」と言いたくなる。

 最近の野党政治家の言い分は、民主主義政治を否定するような言動が多い。少数派を尊重するようには言うけれど、少数派に従う義務は、民主主義ではないのである。多数派に従わなかったら、少なくとも政治の舞台で多数派に従わなかったら大事件である。私の個人的な考えでは、民主主義が絶対善とは思えない。民主主義国家を形成する国民がある一定以上の見識を備えるように、近代国家では学校教育が大事にされた。学校教育には近代兵士を生み出す土壌が有ったことは確かだが、第一義的には近代的な市民を養成することが目的であったのではないか。「多数決の原理」で、政治の舞台では1票でも多い方が採用されるのである。そしてそれに全員が従うことを要求される。投票の際、私は反対したのだから従う義務は無いというのは、民主主義では許されないことである。そのためには有権者の見識が問われるのである。言論の自由も、民主主義社会では平等の権利を有しているので、決まったことには従わなければならないが、反対意見や少数意見を言うのは自由なのである。多数派に従って行動したらこうなった。不都合なことがこのようにあるとか、不便や不幸を言い立てていいのである。ただし多数派に従って行動していなければならない。これが難しい。科学的には上手くいくはずだが、人間のすることである。論理的に進まない。人間だから、する事と言っていることが一致しないのは嫌な感じがするのである。言行一致が望ましいことで、言行不一致は不誠実ということになろう。反対派が反対行動を取れば上手くいかないのが当然であって、賛成多数の言い分が間違っている証拠にはならない。戦争の際、短期的には独裁国家の方が強いのは、行動が画一化されるからである。トップダウン方式が早くて強いので、結果が出やすいのである。中長期的にはどうなるかはよくわからない。短期決戦で勝負がついてからあれこれ言っても、大体において採用されない。他の事で左右されるのである。

 一人の英雄が上手く治めても、恐らく30年が限度であろう。天下を取って、長生きして、生きている間は上手くいって30年。短かければ1,2年で倒れるであろう。2代目が奇跡的に上手くいって50年程度であろうか。何かの本で読んだ記憶があるのだが、ある国家、王朝が栄耀栄華を極めてもせいぜい80年が限界であると。なかなか3代目まで立派に続くのは難しいそうである。何百年や数千年続いたのは、腐敗堕落してたまたま生き残っただけで、民は幸福ではなかったろうと。トップは維持できなくて、2番手3番手と下がっていき、傀儡国家や属国として生きながらえている状態ではないかと。恐らくヨーロッパ諸国の興亡を念頭に置いてのことなのだろう。

 古くからの友人と話していて、何故朝鮮王朝は500年も続いたのであろうかと。結論は明や清の属国だったから、明や清の王様が認めれば、対外的にはそれで済んだからではないかと。それと庶民への収奪が激しくて、暴動を起こす力も残っていなかったのではないかということになった。

 面白かったのは、ついでにヨーロッパについて話した時、貴族社会の時に有産階級が育ち、自分たちも貴族になりたいと思ったのではないかな。貴族になりたいと思って革命を起こしたので、貴族性は温存したのではないかな。有産階級の下で無産階級が育ったが、農村における農民は最低限の食べ物は確保できるチャンスがあった。ところが無産階級の労働者は、金がないと食べ物は手に入らない。生きるか死ぬかになってしまう。ブルジョワ革命より共産革命の方が激しいものになったのではないか。「革命は暴力だ」ということで、「暴力革命の正当化」が推進された。大陸の戦争は基本的には「殲滅戦」である。生き残りの復讐が本当に恐ろしいのである。古代や中世においては敵は殲滅するか奴隷にするかだったのであろう。そして敵は魔物であり、同じ人間ではないのである。白人のキリスト教徒の言い分だが、「勝てば官軍」である。近代においては西ヨーロッパの人々が地球上を制覇したのである。世界地図を見ると至る所に真っ直ぐな国境線があるではないか。西欧人が勝手に引いた線であると。アジアやアフリカや南北アメリカの人々が、真っ当な戦いで敗れたのであれば、仕方がない面もあるかもしれないが、キリスト教思想で騙したり、麻薬や伝染病を持ち込んで多くの人々を苦しめたりで、フェアな戦いや競争ではなかった。本当に反省するのであれば、領土の返還や賠償金の支払を本気で検討するべきではなかろうか。

 ウクライナの戦争にしろ、パレスチナの紛争にしろ、西ヨーロッパの人々にとっては他人事ではないか。アフリカの人々にとっては、白人内の争いではないかということではないか。「世界の平和なくして日本の真の平和もない」と言うのは、極東に位置していて島国であった「特殊な国」の思考回路なのかもしれない。もう少し現実的にならないといけないかもしれない。

 友人は語っていた。「日本人はどうしようもなく『白人崇拝』だね。ウクライナからの移民はほとんど無条件で受け入れている。あれはウクライナ美人が多いからだけではなく、白人だからだよ。」と言っていた。ベトナムからのボートピープルには、経済難民か政治難民か、厳しく審査していたと思うが、今ではどうなっているのだろうか。まあ人種差別は日本人もするということかな。程度問題という人もいるし、関心がない人も多い。我が事にならないと基本的には無関心だからな。