高校の教員をしていて困ることが色々あった。困ることの一つに「同和教育」であった。自分が学校に通っている時は無かったように記憶しているが、本当は有ったのかもしれない。こちらが意識しない程度だったのか、私があまり先生の授業を真面目に受けるタイプでなかったせいなのか、よくわからない。高校の教員になって教壇に立ってみると、授業をしなければならない。国語の教師だったので、「現代国語」を週9時間、「古典」は古文と漢文に分かれていて、「古文」は週6時間。「漢文」は週3時間を担当していた。その他「必修クラブ」1時間と「LHR」1時間があった。「LHR」は大体学級担任がやるので、週19時間の受け持ちである。「LHR」の時間に特設授業として「同和教育」の時間があった。「部落の歴史」や色々な「差別の実態」を学習するのである。人種差別や民族差別などの言葉は知っていたが、大学の教職課程で習ったかなと思ったものである。「同和教育」の時間になると、副担任も授業を参観することになる。担任によっては、副担任を授業に参加させる教師もいたようだが、私がついた担任は40代のベテランの英語教師で、授業参観だけであった。

 「部落の歴史」については、私が新米教師の頃の昭和50年代と平成に入ってからは、だいぶ様変わりしたようである。私の部落に対する知識はほとんど白土三平の「カムイ伝」だけと言ってもよかった。1年目は授業参観だけで良かったが、次の年から学級担任になったので「LHR」も受け持つようになった。平成19年3月で退職したので、その後どうなったか知らないが、あまり「部落解放」の声は聞かなくなった。しかし毎年町内会から届くカレンダーには、小学生の人権に関する標語やポスターが載っている。少なくとも小学6年生には「同和教育」の時間があるようである。

 「人権」という言葉を知ったのは高校の「倫理社会」の時間であった。「天賦人権説」などが印象に残っている。私は「人権」という言葉に違和感を覚えていた。「何が人は神に似せて造られただ。人間の思い上がりだ」と思っていた。仏教では「生きとし生けるもの、みな平等なり」が教えである。生物に上下高低をつけていない。「輪廻転生」の考えもある。今そこで飛んでいるハエも前世は我々のおじいちゃんだったかもしれないと教えられた。父方も母方も祖父母は皆亡くなっていたので、妙に説得力があった。今でも虫を殺すのに躊躇するのは幼い時の教えがあったせいであろう。それとも単なる臆病のせいであろうか。

 ともかく「人権」という考えには西洋人の差別意識を感じて、好きにはなれなかった。では我々日本人に差別意識はなかったかと言うと、厳然と有ったと言える。初任校のS高校は地区では2番手の進学校とされていた。生徒たちの1番手のF高校に対する劣等感は強く感じていた。ところがある時、生徒と面談している時、3番手とされているM高校のすぐ近くの住所とわかって、何故M高校に行かなかったのかと尋ねたら、やや憤然とした様子で「S高校に合格できる成績でした」と言ってきた。馬鹿にするなと言うような感じであった。M高校は旧制中学を母体とした名門高校で、地域一番の進学校でもあった。まだ新設間もないS高校よりいいだろうぐらいに考えていた。私の高校時代は小学区制で、A中学はB高校に進学するしかなかった。普通科は決められていたので、仕方がなく進学したので、中学区制がよかったなあと思っていた。自由に選べると思っていたのである。ところが中学区制になると偏差値による選別がなされるのである。学習塾の先生たちも保護者も中学浪人は避けたいので、あまりリスクの大きな受験は勧めない。生徒はあまり情報を知らないので、偏差値に従って選別されることを受け入れてしまう。無理矢理説得されてしまうケースもある。偏差値なんて単なる物差しの一つだから、参考程度で良いのに左右されてしまう。「15の春を泣かすな」と言うのは、日教組のスローガンのひとつだったのかな。私の母校の高校には約2%前後の年上の同級生がいた。私のクラスには確認しただけでも3人の年上の同級生がいた。「自由に選べる」と言うのは成績が良い生徒のセリフなのである。最近YouTubeを見ていると、大学名で偏差値を言って、低いと馬鹿にしたような口ぶりで話す連中がいた。学歴差別は以前からあることなので、不愉快には思うが、驚きはしない。驚くのは私立大学の偏差値の高さである。国立大学の偏差値とは10以上は違うと思うのだが、東京の有名私大は一流大学の仲間入りをしていた。差別意識はドンドン強化されているのだなと感じた。

 「同和教育」の問題の一つに「寝た子を起こすな」論争がある。結論は「寝た子は起こして教えてやらなければならない」になったようである。要するに「差別意識の顕在化」である。しかしこのことは「差別意識の助長」に繋がっている。よく言われたのは「同和教育」の時間の後に、差別事象が頻発することである。さすがに高校生ではあまり起こらないようであるが、小中学校ではよくあることだそうである。結局は授業を実施した教員の指導力不足で片づけられることが多いが、本当にそうだと言える教員は幾人いるだろうか。隠蔽されているだけなんではないだろうか。

 部落差別の実態では、就職差別を受けたという話と結婚差別を受けたという話に行きつくようである。高校生にとってはこの二つは身近なことと感じられるようで、感想文を読むと生徒の憤りが伝わってくる。結婚差別を受けて自殺をしたという話などは女子生徒には刺さる話なのであろう。では問題は解決したのであろうか。就職差別は表立っては出来なくなっているので、次第に無くなっていくであろう。結婚差別も村落共同体の崩壊と親類縁者と疎遠になっていく現状では、出来なくなっているのであろう。しかし古くからの差別が無くなると新たな差別が生み出されるのである。差別意識そのものが無くなる訳ではないのだから。(つづく)