秋葉原通り魔事件 ~ 人生はリセットできない
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/ea/27/index.html
詳細は上記リンクをたどって記事を読んでいただきたい。
わかりやすく言えば、秋葉原事件の加害者とゲームには密接な関係があったであろう、そしてそういうゲームという媒体(ここでいうゲームは敵を殺すという趣旨のゲームと理解する)は、ゲーム会社が責任をもって青少年に与える影響について研究し、そのようなゲームはむしろ販売をやめて欲しいという記事であると思う。
ほかにも、メイド喫茶や、ゲームに出てくる少女に感情移入する人たちについても述べられているけれど、そこらへんは記事としての”おまけ”につけた筆者の感想みたいなものだ。
つい先日、友人の記事の中に「ペニー・ガム法」という言葉が出てきて、それについて考えていた。
ペニー・ガム法とは、自動販売機に銅貨を投入するとガムが出てくる事をもって、銅貨がガムに変化するのだという思考法のこと。つまり、あるひとつの結果にはその元になるひとつの原因があるのだという考え方だ。
猟奇的殺人を起こすのは、敵を倒すゲームをやっていたからだ。という論法はまさにこのペニー・ガム法なんじゃないかと思ってしまう訳だ。こういう論説を見ると、物事をしっかりと見据えるということを放棄しているように感じる。
世の中はそんなに単純じゃない。私たちはどうしても単純な回答を欲する傾向にある。それは”得体のしれない出来事”が恐ろしいからだ。なぜそうなったのか解らない出来事に対処するすべを持たないから、物事を単純に曲解して安易な結論を求めてしまう。
秋葉原事件の加害者は確かにゲームをしていたかもしれない。しかし今の時代、彼の世代でゲームをしなかった若者はどれくらいいるだろう?むしろ、多数派はゲームをした人間じゃないのだろうか?だとすれば、街を歩いている多くの若者が、ある日ガン細胞が目を覚ますようにゲーム細胞が目を覚まして無差別な殺人者に変身してしまうという話になってしまう。
ある程度の優等生でゲームを趣味のひとつとし、そして派遣会社で働いている。
そういう若者はすでに黄色信号なのか?
私たちは、すぐに”そういう事をしそうな要素”というものを拾い出して、それが物事の原因だと決め付けたくなる。そうすれば、とりあえずは安心な気がするのだ。原因がわからない不安から開放され、”ほら見たことか、ゲームがあるからおかしなことが起こるのだ”とそこに責任を転嫁してしまえば安全も手に入れた気分になれる。
人の狂気ってそんなにわかりやすいものだろうか?
隣の犬がワンワンと吼える。それを嬉しく見守る人も、ある朝その声がたまらなく嫌になる事があるかもしれない。あるいは毎朝「おはよう」と声をかけあう同僚の、ある日の「おはよう」に妙な違和感を感じた時から狂気は始まるのかもしれない。
社会は複雑系だ。
もちろんゲームも原因の一部なのかもしれない。しかし、それが原因の大きな部分を占めるとは思いがたいのである。
仮面ライダーは、ショッカーという悪の軍団の下っ端兵士達を無差別にやっつけていたと記憶する。ガッチャマンは、ギャラクターという悪の軍団の下っ端兵士をやはり無差別に殺していた。仮面ライダーやガッチャマンは当時の男の子のほとんどを魅了していたはずだ。こんな無差別で圧倒的な力の差がある攻撃の場面を毎週何年にもわたって見てきた大人は、やはり無差別殺人のスイッチを持っているのか?
そういうある特定の”何か”ではなく、ほんの小さな分岐点が狂気と正気を分けているように私には思えるのだ。
単純じゃない複雑な要素の中の、ほんの些細なきっかけが、得体の知れない狂気を引き起こしてしまうのだと、そう感じるのだ。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/ea/27/index.html
詳細は上記リンクをたどって記事を読んでいただきたい。
わかりやすく言えば、秋葉原事件の加害者とゲームには密接な関係があったであろう、そしてそういうゲームという媒体(ここでいうゲームは敵を殺すという趣旨のゲームと理解する)は、ゲーム会社が責任をもって青少年に与える影響について研究し、そのようなゲームはむしろ販売をやめて欲しいという記事であると思う。
ほかにも、メイド喫茶や、ゲームに出てくる少女に感情移入する人たちについても述べられているけれど、そこらへんは記事としての”おまけ”につけた筆者の感想みたいなものだ。
つい先日、友人の記事の中に「ペニー・ガム法」という言葉が出てきて、それについて考えていた。
ペニー・ガム法とは、自動販売機に銅貨を投入するとガムが出てくる事をもって、銅貨がガムに変化するのだという思考法のこと。つまり、あるひとつの結果にはその元になるひとつの原因があるのだという考え方だ。
猟奇的殺人を起こすのは、敵を倒すゲームをやっていたからだ。という論法はまさにこのペニー・ガム法なんじゃないかと思ってしまう訳だ。こういう論説を見ると、物事をしっかりと見据えるということを放棄しているように感じる。
世の中はそんなに単純じゃない。私たちはどうしても単純な回答を欲する傾向にある。それは”得体のしれない出来事”が恐ろしいからだ。なぜそうなったのか解らない出来事に対処するすべを持たないから、物事を単純に曲解して安易な結論を求めてしまう。
秋葉原事件の加害者は確かにゲームをしていたかもしれない。しかし今の時代、彼の世代でゲームをしなかった若者はどれくらいいるだろう?むしろ、多数派はゲームをした人間じゃないのだろうか?だとすれば、街を歩いている多くの若者が、ある日ガン細胞が目を覚ますようにゲーム細胞が目を覚まして無差別な殺人者に変身してしまうという話になってしまう。
ある程度の優等生でゲームを趣味のひとつとし、そして派遣会社で働いている。
そういう若者はすでに黄色信号なのか?
私たちは、すぐに”そういう事をしそうな要素”というものを拾い出して、それが物事の原因だと決め付けたくなる。そうすれば、とりあえずは安心な気がするのだ。原因がわからない不安から開放され、”ほら見たことか、ゲームがあるからおかしなことが起こるのだ”とそこに責任を転嫁してしまえば安全も手に入れた気分になれる。
人の狂気ってそんなにわかりやすいものだろうか?
隣の犬がワンワンと吼える。それを嬉しく見守る人も、ある朝その声がたまらなく嫌になる事があるかもしれない。あるいは毎朝「おはよう」と声をかけあう同僚の、ある日の「おはよう」に妙な違和感を感じた時から狂気は始まるのかもしれない。
社会は複雑系だ。
もちろんゲームも原因の一部なのかもしれない。しかし、それが原因の大きな部分を占めるとは思いがたいのである。
仮面ライダーは、ショッカーという悪の軍団の下っ端兵士達を無差別にやっつけていたと記憶する。ガッチャマンは、ギャラクターという悪の軍団の下っ端兵士をやはり無差別に殺していた。仮面ライダーやガッチャマンは当時の男の子のほとんどを魅了していたはずだ。こんな無差別で圧倒的な力の差がある攻撃の場面を毎週何年にもわたって見てきた大人は、やはり無差別殺人のスイッチを持っているのか?
そういうある特定の”何か”ではなく、ほんの小さな分岐点が狂気と正気を分けているように私には思えるのだ。
単純じゃない複雑な要素の中の、ほんの些細なきっかけが、得体の知れない狂気を引き起こしてしまうのだと、そう感じるのだ。