アランさんとの思考遊戯シリーズ(シリーズなのか?)



>脳を調べてみたら、残像によって動きを感じる場合と、本当に動いているものを見る場合と、両方、脳の同じ部分が刺激されているらしいんです。つまり、脳はどちらも「動いている」と認識しているってことなんです。面白いでしょ。ね?ね?(笑)


(written by アラン)

これは、絵本の話をしていて、動く絵本があるとか、私が

▼RAINBOW IN YOUR HAND [川村真司/著 ]
を紹介した絡みで出てきた話題。







 最近、脳と記憶の関係などについていろいろ調べてるんですが、まだまだ情報不足ではありますw

 で、調べ始める前に私が考えたのは視覚の処理と記憶についてでした。先に触れた、精密画を描ける子供あるいは自閉症傾向の人たち。

 これは明らかに見た目そのままの情報を写真を撮るように記憶している事を指しているんだと考えます。それはある意味デジタルな情報に近いかもしれない。頭の中に写真のプリントがそのまま入っている状態だと考えた訳です。
 ところがおおよそ普通の人はそういう記憶の仕方が出来ない。違う形で映像を記憶しているんだろうと思った訳です。コンピューターのソフトに圧縮・解凍ソフトというのがありますが、おそらくそういう方法を使って記憶している。(ポストヒューマンでは記憶という事じゃなく、情報の符号化という形で扱われていましたね)
 その圧縮のアルゴリズムは、意味との関連づけだと思った訳です。

 子供の頃に自分が遊んだ公園を思い出してみます。その中のブランコを思い出すとします。
 写真的記憶であれば、いくつも付いていた筈の傷やサビ、あるいは座る椅子部分の木目の様子、ブランコを形作っている鎖の数などを正確に再現出来る筈です。
 ところが私は、それが出来ない。公園の滑り台の隣にあったブランコは白色で、座る部分は木だったし、すこしでこぼこしていたことは覚えているけれど、鎖の数は覚えてません。当然子供時代に数えたこともない訳ですが。

 写真的なデジタルなドットデーターではなく、色としての白や素材としての木材や鉄、位置としての滑り台の隣であるとうい事を意味情報として記憶していると思った訳です。

 つまり、画像データを意味として分解してそれぞれのモノや形や色のデータとして圧縮した訳です。その際に足下の草の数だとか、鎖の数だとかという部分は省略しちゃったんじゃないかと思う訳です。

 元々、画像を扱う部分と言葉を扱う部分は、色、におい、音、などそれぞれはその記憶される場所は違っていて、画像じゃない記名されたモノは無秩序にデータとして”意味的”に保存されている。
 画像が入ってきたときに、記名された”意味”を画像に当てはめていく。そして意味的結合された固まりとして"子供時代の公園のブランコ”という記憶ができあがるのじゃないか?って考えた訳です。

 モナリザの絵は誰もが何度も画集やテレビなどで見ている筈だと思うのですが、それでは彼女の手は重ねられていたんですが、右手が上か左手が?背景に描かれていたのは、町か山か森か?

 これもやはり思い出せない。意味的に与えられ記名と関連づけられない情報は画像として再現出来ないのではないかと思った訳です。

 絵を見て記憶するというのは、意味を与えて、圧縮した陳述的な記憶であろうと。で、思い出すというのは陳述的な記憶からの画像の再構成という事になるのかなと思って、そこから、脳への冒険に繋がっている訳ですw


 で、最初に戻りますが実物であろうと残像であろうと、まず視覚的に入ってくる画像情報として受け取っている部分(脳)がおそらく同じであり”動く”という意味(記名)もまた同一な意味合いがあるならば、脳は同じ反応を示すと考えられると思います。

 で、次に想像するに、カレーライスの本物と、食品サンプルのそっくりさんを並べて見たときに、”カレーの臭い”という記名された記憶と結びついたり付かなかったが両者の間で起こるので、これは違う認識をするのじゃないかと考えます。
 で、写真のカレーの印画紙にカレーの臭いがしみこませてあったら、かなりカレーと認識するんじゃないかと想像します(笑)