「ふたり、桜の木の下で」




「靴、先に履いてて」

玄関先の妻に向かって部屋の奥から声をかける。
上着を羽織って玄関に行くと、妻が白杖を持って待っていた。
妻が失明したのが去年の3月。ちょうど1年が経過したわけだ。

「今日は一応、花見の予定だよ。どっか他に寄りたい所とかある?」

私はスニーカーを履きながら尋ねる。去年は入院やなにやらで花見どころではなかった。

「うーん、特にないかな。昼は外で食べるんでしょ?」
「まぁ店は決めてないけどね」

妻の左手の少し前に僕の右腕が来るように立つと、妻はそっと僕の右腕を掴んだ。
時間は丁度11時を過ぎたところ。花見をして昼食をというのんびりした散歩にはちょうどいい時間帯だ。

僕と妻は休みの日には良く連れ立って散歩に出る。
普通に日用品の買い物や生活雑貨を求める為に出かける事もある。そういうものも含めて僕たちは散歩と呼んでいる。僕は車の運転はしないのでもっぱら歩きかバスを利用する。
昔から休みの日に外出した際は、出かけた先で食事をして、ささやかにビールを飲むのが僕たちの楽しみになっている。それは妻が失明する前からの習慣だ。

玄関を出ると、近くの家の庭にある木の上からウグイスの声が聞こえてきた。
ちょうど1週間ほど前からさえずりはじめている。

「今年のウグイスは上手に鳴くね」

「こいつはきっとベテランだな。鳴き始めから上手だったよ。っていうか、ウグイスって渡り鳥だっけ?いつも春しか鳴かないよね?」

「どうかしら、私もわかんないな」

取りとめのない普通の会話。


妻が失明してから分かった事は沢山あって、それは考えれば当たり前の事なんだけど、実際にそうなってみないと分からない事というのは世の中には沢山ある。

例えば、部屋の中に置いてある物の位置を変えてはいけないって事だったり、一緒に歩くときに段差がある所にきたら一瞬止まるって事だったり、物を説明するときには結構細かな描写が必要だという事だったり。
意識しないで出来ている事もあるし、気が付くと忘れてしまうこともある。多分僕が思うよりもずっと失敗しているんだと思うけど、妻がそれについて何か言う事は少ない。

時々僕は、もっと自然にそんな事全部を意識しないで出来たらいいのになと思う。けれどあんまり必死になってしまうのも妻はイヤなんじゃないかと思ったりもする。
何事も自然にそうなればいい。今はそんな風に感じている。

だから、多分僕の妻はちょっと不便な事も多いんじゃないかなと想像する。


「ねぇねぇ、夢ってさ、どんな感じ?やっぱり見えにくかったり見えなかったりするの?」
僕は歩きながら前から疑問だった事を尋ねてみた。

「えぇとね。この間、台所で洗濯してた夢を見たけど、ちゃんと流し台も洗濯機も見えてたな。不思議だよねぇ。」

「え、マジで?っていうか見えなくなってから引っ越してきたじゃん。」

僕たちが今住んでいる家は、妻が失明してから引っ越してきた。まぁ失明する前に何度か下見やなんかでこの家に訪れているけれど、それも数えるほどの回数だ。

「自分でも不思議だなぁって思うな。前に住んでた家よりも今住んでる家の事の方が良く分かってて、色や形やそういうのが決まってるの。」

さすがに、そういうものなのかどうなのかは僕には分からない。けれど、妻が今の家を自分なりに見ているんだと思うとなんとなく嬉しかった。

「3DのCG作家も真っ青だな。やっぱり人間の頭って凄いな。じゃあ、僕の顔はどう?夢とかで見ると?」

歩きながらの会話は、たぶん以前よりも随分と増えたんじゃないかな。元々僕はそれほど無口だった訳じゃないけれど、以前ならのんびりと黙って二人並んで歩くというのも別におかしなことじゃなかった。
今は、ただ黙って見えないままに黙々と歩くのは苦痛なんじゃないかなと思う。かと言って、それを意識して沢山しゃべってるという訳でもないのだけれど。これも自然にそうなってきたんだろう。

「あ、あなたはあんまり夢に出てこないよ。殆ど出てこないね。前からだけど・・・・」

と妻はあっさり無慈悲に言った。

「えぇ?僕は出ないんだ。まぁ勝手に出されていろいろ思いもよらないことをしゃべられるのもイヤだけど、出ないってのはそれはそれで寂しくないか?まぁ、年とっても醜いじぃさんの顔を晒さずにすむって事か。」

と僕が言うと

「バカね」

と妻が小さく言い、僕たちはひとしきり声を出して笑った。



大きな公園には沢山の古い桜の木が植えられている。
元々はお城に面した殿様の為の庭だった公園で、ゆっくり歩いて回れば30分ほどの散策が出来る。
観光客や家族連れで公園内は大変な賑わいだ。

「凄い人だねぇ。半分くらいは子供連れかな。」

妻に声をかけ、歩道を歩くときよりも少しだけ僕たちはくっついてゆっくりと歩く。

「桜はね、どうかな5分かな、7分咲きくらいかな。満開だと花びらが風に散って綺麗なんだけどな」
僕は立ち止まって、大きな桜の木を見上げて妻に言った。

「前にそういう時期に一回来たよね。あの時は綺麗だったね。」

妻は桜を見上げるんじゃなく、ちょっとうつむき加減で耳をすませて、風に揺れる桜の花のかすかな音と花の香りを感じているんだろうか。


妻の手を握り、僕は目を閉じてみる。
人々の喧騒にまじって、風に揺れる枝の音が聞こえる。
淡いピンク色の花びらを想像する。
ほのかに桜の香りがしたような気がした。



<おわり>



4/10 言い回しのおかしな部分、主語が統一されていない部分など若干修正
4/17 漢字の間違いを修正「白状」→「白杖」