『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】


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さて、先日公開しました<私的ハードボイルド概論>なのですが(つったって、前半はパーカーの論文の引用なんですけどね)、数日たって読み返していくつか疑問が湧いてきたので、本日はそれをちょっと考察してみたいと思います。

 

前編におきまして、わたしはパーカーの論文のスタンスを、
”ハードボイルド・ヒーローと言えば、基本的にミステリの登場人物であるわけですが、彼らをデュパンやホームズから今日まで連なる”名探偵”の変種ではなく、アメリカ文学の系譜の中にある”ディアスレーヤー・タイプ”の末裔と見る、非常にユニークなアメリカ人論でもあるわけです”
と書いております。

 
それはいいのですが、では、果たして当の本人たち――ハメットやチャンドラーが自分の創作物の主人公が名探偵のアンチテーゼではなく、レザーストッキングの末裔であるという意識・自覚のもとに小説を書いていたかというと、率直に「それはどうだろう?」と思うのですね。

 

ハメットについては資料らしきものがないので(ハメットはエッセイの類をまったく残していないようなので)何とも言いがたいところです。
論文の中でパーカーは、コンチネンタル・オプの「カウフィグナル島の略奪」という短編の台詞を引用して、それが示すプロテスタントの倫理を指してオプをアメリカ人の原型の一人だとしています。
これは慧眼だと言えなくもないし、事実、他の作品における(特にこういったストレートな倫理表現がない「マルタの鷹」など)ハメットの主人公観を表しているとも言えるのですが、ハメットがナティ・バンポーを意識の隅においていたとはちょっと思えません。これはどちらかというと、ハメット自身の考え方がオプに投影されたと考えるほうが筋が通っているような気がします。

 

一方のチャンドラーですが、こちらはかなり明確に否ということができます。
これもまた、かなり著名なエッセイである「簡単な殺人法」の中で、チャンドラーは長々といわゆる”英国式”の名探偵モノを揶揄した挙句、まるでそれにとってかわるモノであるかのようにハメットのことを賛美しています。それはつまり、彼がハードボイルドの探偵を名探偵の変種――好意的に捉えるなら新種――と考えていたことの証明に他なりません。

 

ただ、ハメットにしろチャンドラーにしろ、私立探偵たちが生きる世界、すなわち我々が生きる現実の世界を、
”ギャング団が民衆はおろか都市までも支配できるような世界、(中略)市長が資金集めの道具として殺人のもみ消しをはかるといった世界、法律とか秩序とかは口先だけで実行されることがないために、だれもが暗い通りを安心して歩けないような世界――あまり芳しい世界ではないが、それがみんなの住んでいる世界なのだ”
というふうに、まるで失楽園のように捉えている点は共通しています。

 
チャンドラーのこのエッセイの中でももっとも有名な一節、
”――だが、こうした卑しい街路を、ひとりの男が歩いていかねばならぬのである。彼自身は卑しくもなければ、汚れても、臆してもいない。この種の小説における探偵とは、そんな男でなくてはならないのだ。(中略)物語は、この男がかくされた真実を探索する冒険譚だが、それは、冒険にふさわしい男の身に起こるのでなければ冒険とはいえないであろう”
は、そういう世界の中でヒーローたり得る人物が、どんな男であるかを示しています。

 
チャンドラーはおそらく、ナティ・バンポーを念頭に置いていなかったと思います。しかし、もはや逃げ込める場所のない現代社会において、高潔さを保ち続けることのできるヒーローを作り出そうとすれば、半ば必然的に”社会の矛盾に背を向ける孤独な男”の特質を備えざるを得なかったのではないでしょうか。

 

そして、ここからが本稿の本題なのですが(えっ?)、この”レザーストッキングの系譜に連なる男”の魅力とは果たして何なのか。

 

パーカーはナティを”本質的には善良で道徳的であるが、彼のその才能は個人の道徳が支配する未開原野でのみ通用するもので、法が支配する文明社会にはそぐわない”男と書いていますが、これはそのまま解釈すると”彼の善良さや道徳性は文明社会で言われている法や正義とは異なる”ということになります。
では、法や正義と異なる善良さとはいったい何なのでしょう。

 

その前にハッキリさせておかなくてはならないのは、社会において”善”とか”悪”というのは決して絶対のものではない、ある事象の見方を変えたものにすぎないという現実です。

もっと言うならば”善”とされる行為の中にも”悪”の要素があり、逆もまたしかりであるということです。
一つ、例を挙げてみましょう。

 

ローレンス・ブロックの代表作、マット・スカダー・シリーズの「八百万の死にざま」の中で、主人公マシュウ・スカダーが夜道で強盗に襲われるシーンがあります。
スカダーは機転を利かせて強盗を撃退するのですが、その後、スカダーは彼の両脚を折ってしまいます。
この行為を咎められたスカダーは、「強盗をそのまま解き放てば、彼は今度はうまくやろうと用心して他の罪なき獲物を襲うだろう」と釈明します。自分はそれを阻止するために彼の脚を折ったのだと。少なくとも、強盗は脚が治るまでは次の獲物を襲うことができず、その間は被害者が減るのだと。
この行為、果たして”善”でしょうか。それとも”悪”でしょうか。

 

要するに善悪というのは立場の違いでしかありません。それは直接の被害者/加害者だけでなく、利害の及ばないところにいる野次馬の無責任な道徳も、また別の善悪を作り出します。
何だか哲学的な話になってきましたが、それくらい善悪というのは不明瞭で不安定なものなのです。なのに、ハードボイルド・ヒーローたちは個人の善良さを支えに社会の軋轢に耐えてゆかねばなりません。
彼らが信じる善良さとはいったい何なのでしょう。

 

もちろん、それは以前に「小説における主人公の魅力とは」 で書いたことと同様に”作家によって違うし、また、そうであるべき”なのですが、チャンドラーやロス・マクドナルド、その他のハードボイルドの作家たち、ロバート・B・パーカー、ローレンス・ブロックやマイクル・Z・リューイン、ひいては探偵・真木シリーズの結城昌治、矢作俊彦、大沢在昌(あくまでも初期の作品)、そして原尞へと連なるハードボイルドの中の正義、善良さには一つの類型が見られます。

 
それは「魂の救済」です。

 

すべての作品がそうだとは言いませんが、ハードボイルド・ミステリの多くはあまりハッピーエンディングとは言えない終わり方をします。事件は解決し、犯人は命を落とすか、司直の手に委ねられます。主人公(多くの場合、探偵)は受けた依頼を無事に果たし、失われた物はあるべき場所へと戻っていきます。
しかし、それでも主人公が見せる感傷的な態度とは裏腹な、苦い結末が待っていることのほうが多いのです。
そんな中で何が彼に――そして読者にカタルシスをもたらすのかと言えば、それは「事件の後に残されるわずかばかりの救い」なのですね。

 

(ここからネタばれ引用なので反転文字にて)

 

人によってはチャンドラーの最高傑作は「長いお別れ」ではなくこっちだ、とさえ言われる「さらば愛しき女よ」のラスト、事件後に姿を消した容疑者ヴェルマ・ヴァレントが自分を追う(おそらくは悪徳であろう)警官を射殺し、自分の命も断ったことをランドール警部から聞かされたマーロウは、その動機をヴェルマが自分を愛した富豪の夫を窮地から開放する――彼女が死ねば裁判は開かれない――ことであっただろうと推測します。それが彼女の最後の恩返しだったんだろうと。
そしてラストはこういう一文で結ばれています。
”私はエレヴェーターで一階まで降り、市役所の正面の階段に立った。一点の雲もなく晴れあがり、空気が冷たく澄みきっている日だった。はるか遠くまで見とおすことができた――しかし、ヴェルマが行ったところまでは見えなかった”

 

ロス・マクドナルドの「ウィチャリー家の女」のラストシーン、フィービ・ウィチャリーと自分自身の立場を守るために殺人を犯した男と対峙したアーチャーは、心臓に持病を抱える彼の願い、致死量のジキタリスが入った上着をとってやることを、供述書をしたためることと引き換えに承諾します。
本来であれば――アーチャーが法の番人たる警察官であれば――それは許されないことです。
しかし、事件が明るみにでれば、もはや犯人の男とアーチャーしか知るもののいないフィービの出生の秘密は白日の下に晒されてしまいます。アーチャーは犯人の、
”私は醜い現実からフィービを守ってやりたかった。今、現実は更に醜いものになってしまったけれど、それでも私はフィービを守ってやりたい”
という訴えに「救われるべきは誰なのか」という自問と決断を下すのです。

 

これをもっと発展させた形で提起しているのが、パーカーの「儀式」です。
両親に反発して家を飛び出した不良少女エイプリルを連れ戻したスペンサーは、そのまま親のところへ返しても彼女にとって何の救いにもならないばかりか、余計に傷つけるだけだという事実に困惑します。結局、悩んだ末にスペンサーはかつての事件で知り合ったニューヨークのコールガール組織の女性にエイプリルを預けるという決断をします。
これは「何がエイプリルにとって救いであるのか?」という問いに対するスペンサーの苦渋の決断なのですが、これも真っ当な社会常識からはちょっと出てこない結論ですよね。

 

”救われるべきは誰なのか?”という問いの答えもまた、立場によって大きく異なってくるでしょう。
多くの場合、それは主人公側に立つ誰かということになるのですが、それだって見方によっては異論があるわけで(特にその救いが同時に誰を傷つける場合など。上のヴェルマの場合がそうですね)一概に、そして簡単にこうだと言うことはできません。
”何が救いであるのか?”も救われる本人とは関係ないところで主人公が下すものに過ぎず、また、結局どうだったのかも結果論でしかない部分があります。

 
いずれにしても明確な答えはなく、また、正解もないわけですが、大切なのは”より適切に問うこと”ではないかと思うのですね。個人的には、現代におけるハードボイルド小説はそういう事柄に対して、作家が物語の形を通じて訴える一つの答えのような気がするのですが、いかがなものでしょうか?

 

 

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