師匠と我らとの関係 8(持妙法華問答抄)

 

 

持妙法華問答抄における弟子との関係

 

 

本抄は、弘長3<1263>年3月大聖人42歳の御作とされ、短い御文で対告衆不明ながら、問答形式で門下に成仏得道の法理を御教示されていますので紹介します。

 

 

「仏性の種あるものは仏になるべしと爾前にも説けども、いまだ焦種の者作仏すべしとは説かず。かかる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。ただすべからく汝仏にならんと思わば、慢のはたほこをたおし、忿りの杖をすてて、ひとえに一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。ああ、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」持妙法華問答抄 新513頁・全463頁)

現代語訳:「仏性の種子があるものは仏になる」と爾前経にも説いているけれど、いまだ焦種の者(二乗)が仏になるとは説かれていません。この様な重病をたやすく治すのは、独り法華の良薬だけです。ただ、あなたが仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨てて、ひとえに一仏乗の法華経に帰依すべきです。名聞名利は今生だけの飾りであり、我慢や偏執は後生の足かせなのです。まことに恥ずべきであり、恐るべきことです。

※大聖人は「成仏する為には、慢心や怒り恨みを捨てて、名聞名利や我慢偏執は恥ずべきなので考えないで、法華経に帰依するべきです」と仰せです。

 

 

「受けがたき人身をうけ、値いがたき仏法にあいて、いかでか虚しくて候べきぞ。同じく信を取るならば、また大小・権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。持つところの御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり。ここをもって経に云わく「能く是の経を持つ者は、一切衆生の中において、またこれ第一なり」と説き給えり、大聖の金言疑いなし」(持妙法華問答抄 新514頁・全464頁)

現代語訳:受けがたい人身をうけ、あいがたい仏法にあいながら、どうして一生をむなしく過ごしてよいでしょうか。同じ様に仏法を信ずるならば、大小・権実とある仏法中で、諸仏出世の本意であり衆生の成仏の直道である法華一乗をこそ信じるべきです。所持する法華経が諸経に勝れていれば、能く所持する人もまた諸人に勝れるのです。この事を法華経薬王菩薩本事品には「能くこの経を持つ者は、一切衆生の中でもまた第一である」と説かれています。仏の金言は疑いないのです。

※仏法は、自身だけの修行から自他共の幸福を祈願・実践するものと発展してきました。そして究極は、諸仏出世の本意でかつ衆生の成仏の直道である法華一乗(日蓮仏法・御本尊)を信じていきなさい、と仰せですね。

 

 

「経に云わく「経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん。その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と云々。文の心は、法華経をよみたもたん者を見て、かろしめ、いやしみ、にくみ、そねみ、うらみをむすばん、その人は、命おわりて阿鼻大城に入らんと云えり。大聖の金言、誰かこれを恐れざらんや。『正直に方便を捨つ』の明文、あにこれを疑うべきや。しかるに、人皆経文に背き、世ことごとく法理に迷えり。汝、何ぞ悪友の教えに随わんや。されば、邪師の法を信じ受くる者を名づけて、毒を飲む者なりと天台は釈し給えり。汝、能くこれを慎むべし、これを慎むべし。」(持妙法華問答抄 新515-6頁・全465頁)

現代語訳:法華経譬喩品には「経を読誦し書持する者を見て、軽賎憎嫉して恨みを懐くならば、その人は命を終えて阿鼻獄に入るであろう」と説いています。文の意味は、法華経を読み持つ者を見て、軽んじ、賎しみ、憎み、嫉み、恨みを懐くならば、その人は命が終わって阿鼻大城に入るというのです。仏の金言であり、誰がこれを恐れずにいられるでしょうか。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」との法華経方便品の明文をどうして疑うことができるでしょうか。ところが、人は皆、経文に背き、世はことごとく法理に迷っています。あなたはどうして悪友の教えに随うことがあるでしょうか。だから「邪師の法を信じ受ける者を名づけて毒を飲む者という」と天台大師は解釈されています。あなたはよくこの事を考えて慎むべきです。

※正法を信仰している人を見て、軽んじ、賎しみ、憎み、嫉み、恨み等を懐く人は、結局、負の価値の人生を送る事になるでしょう、と先師も教えています。

 

 

「一切の仏法もまた人によりて弘まるべし。これによって、天台は『仏世すらなお人をもって法を顕す。末代いずくんぞ法は貴けれども人は賤しと云わんや』とこそ釈して御坐しまし候え。されば、持たるる法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし、しからば則ち、その人を毀るは、その法を毀るなり。その子を賤しむるは、即ち其の親を賤しむなり。ここに知んぬ、当世の人は詞と心とすべてあわず。孝経をもってその親を打つがごとし。あに冥の照覧恥ずかしからざらんや。地獄の苦しみ、恐るべし恐るべし、慎むべし慎むべし。上根に望めても卑下すべからず、下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても憍慢ならざれ、上根ももるることあり、心をいたさざるが故に。(持妙法華問答抄 新516頁・全465-6頁)

現代語訳:一切の仏法もまた人によって弘まるのです。これによって天台大師は「仏の在世でさえ、なお人によって法をあらわす。末代にあって、どうして法は貴いけれども人は賎しいといえようか」と解釈されています。だから、所持する法さえ第一ならば、所持する人もまた第一なのです。そうであれば、その人を毀るのは、その法を毀ることになるのです。その子を賎しむのは、即ちその親を賎しむことなのです。これに照らせば、当世の人は言葉と心とが全て一致しないのです。孝経(儒教の根本である「孝」について孔子が説く)でもって、その親を打つ様なものです。仏菩薩が御照覧されるのに、恥ずかしくはないのでしょうか。地獄の苦しみはまことに恐るべき事であり、くれぐれも慎まなければなりません。上根(三根[上・中・下]の一つで、煩悩に左右されず法をすぐ理解する機根)の人を望みて比較しても、自分を卑下してはなりません。下根を見捨てないのが仏の本懐だからです。下根(上根・中根より機根が劣っている)の人を見て比較しても、高慢であってはなりません。上根も救いに漏れる事があり、心を込めて仏法を求めないからです。

※人によって法は弘まるのです。他抄にも「法自ら広まらず、人法を弘むる故に、人法ともに尊し」(新2200頁・全856頁)「法妙なるが故に人貴し」(新1924頁・全1578頁)とあり、法とそれを弘める人は同体と言えるでしょう。本抄に「『一切衆生皆成仏道』の教えなれば、上根・上機は観念観法もしかるべし、下根・下機はただ信心肝要なり」(同 新515頁・全464頁))とあります。(法華経は)一切衆生の皆が成仏する道、との教えであれば、上根・上機の者は観念・観法でも相応しいが、下根・下機の者はただ信じる心が肝要です、との意味ながら、此処の御文では、上根・上機の人でも真摯な信仰心が必要である、と仰せです。

 

 

「寂光の都ならずば、いずくも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて、何事か楽みなるべき、願くは、『現世安穏、後生善処』の妙法を持つのみこそ、ただ今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。すべからく、心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき」(持妙法華問答抄 新519頁・全467頁)

現代語訳:寂光の都で無いならば、どこも全部苦の世界です。本覚の栖を離れて、どんな事が楽しみとなるでしょうか。願いとしては「現世は安穏であり、後生は善処に生まれる」と仰せの妙法を持つことのみで、ただ今生には真の名聞であり、後世には成仏の手引きとなるのです。全て心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他人をも勧めることが、今生に人間として生まれてきた思い出になるのです。

※妙法を持てば、今生で真の名聞に、後世で成仏の手引きとなり、「我等出生の思い出は、妙法を我も唱え他をも勧めること」なのですね。

 

 

◎題号通り「持妙法華(妙法蓮華経の受持)」について問答形式で書かれた本抄は、妙法蓮華経を受持し自行化他にわたる信心修行に励むことこそ仏意に適った最大最高の人生であり、成仏する直道です、と御教示されています。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村