日蓮仏法の私なりの解釈 1

 

 誰もが、『宗教の目的は人々を幸福にする為である』という事に異論はないでしょう。

しかしながら、他力本願ではなく、各個人が自身の人間的成長を目指して、自己啓発、変革、革命を目的にした宗教は、創価学会以外に存在しているでしょうか。

さらに、真実の世界平和の実現を目指して自宗の拡大を実施している宗教が、創価学会を除いて存在しているでしょうか。

しばらくは、直接三大秘法について解釈するのではなく、副題を設けて日蓮仏法を私なりに、解釈したいと思っています。

 

日蓮仏法への招待

 

「総じて一代の聖教は一人の法なれば、我が身の本体を能く能く知るべし。これを悟るを仏と云い、之に迷うは衆生なり」(三世諸仏総勘文廃立 新718頁・全567頁)

現代語訳:総じて一代の聖教は一人のことを説いた法ですから、我が身の本体をよくよく知るべきです。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのです。

※日蓮仏法は、この自覚を基本として求めているのですね。

 

「汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。しからば則ち、三界は皆仏国なり。仏国それ衰えんや。十方はことごとく宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身はこれ安全、心はこれ禅定ならん」(立正安国論 新45頁・全32頁)

現代語訳:あなたは一刻も早く邪法信仰の寸心(わずかな考え)を改めて、実乗の一善(たる日蓮の法門)に帰依しなさい。そうすれば即ち、この三界(仏教の世界観で、欲望の世界『欲界』、物質の世界『色界』、精神の世界『無色界』の3つ)は皆仏国です。仏国であるならば、どうして衰微することがあるでしょうか。十方の国土はことごとく宝土です。宝土であるならば、どうして壊れることがあるでしょうか。国に衰微なく、国土が破壊されることもなくなれば、あなたの身は安全になり、心にはなんの不安もない幸福生活を送ることができるのです。

※国土は環境であり、破壊されなければ平和となり、個人的には身体は安全、精神も不安なく、幸福を享受できるのです。

 

「信心と申すは別にはこれなく候。妻のおとこをおしむがごく、おとこの妻に命をすつるがごとく、親の子をすてざるがごとく、子の母にはなれざるがごとくに、法華経、釈迦・多宝、十方の諸の仏菩薩、諸天善神等に信を入れ奉って、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、信心とは申し候なり」(妙一尼御前御返事 新1697頁・全1255頁)

現代語訳:信心というのは、特別これといって難しいものではありません。妻が夫をいとおしく思う様に、また夫が妻のためには命を捨てる様に、親が子を捨てない様に、子供が母親から離れない様に、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・諸天善神に信を入れて、南無妙法蓮華経と唱え奉る事を信心というのです。

※信心は、己心の諸仏を尊崇しつつ、日蓮仏法が最高唯一の哲学と信じ唱題を続けることと思っています。

 

「善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う。故に、心の外に善無く悪無し。この善と悪とを離るるを無記と云うなり。善・悪・無記、この外には心無く、心の外には法無きなり。故に、善悪も、浄穢も、凡夫・聖人も、天地も、大小も、東西南北・四維・上下も、言語の道断え、心行の所滅す。心に分別して思い言い顕す言語なれば、心の外には分別も無分別も無し。言(ことば)と云うは、心の思いを響かして声を顕すを云うなり。凡夫は我が心に迷って、知らず覚らざるなり。仏はこれを悟り顕して神通と名づくるなり。神通とは、神の一切の法に通じて礙り無きなり。この自在の神通は、一切の有情の心にてあるなり」(三世諸仏総勘文廃立 新713頁・全563頁)

現代語訳:善に背くのを悪といい、悪に背くのを善という。故に心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのです。善悪無記(善と悪とも記しようがない)、この外には心はなく、心の外には法はないのです。この故に、善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、すべて言語の道は断え、心行も所滅するのです。心で分別した思いを言い表すのが言語ですから、心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声に表したものをいうのです。凡夫は自身の心に迷ってそれを知らず悟らないのです。仏はこの心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのです。神通とは神が一切の法に通じて礙りがないことをいうのです。この自在の神通は一切の有情の心に具わっています。

※仏が悟り顕した「自在の神通」は我々の心にも備わっていると仰せなのです。

 

「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべきこと、もっとも大切なり。信心の厚薄によるべきり」(日女御前御返事 新2088頁・全1244頁)

現代語訳:「南無妙法蓮華経」とだけ唱えて、成仏していくことが最も大切なのです。ひとえに信心の厚薄によるのです。

※水の流れる様な信心をして行きたいです。

 

「法華の行者は、男女共に『如来』なり。煩悩即菩提・生死即涅槃なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、『与如来共宿』の者なり」(御義口伝下 新1027頁・全737頁)

現代語訳:法華経の行者(即ち、南無妙法蓮華経を唱え折伏を行ずる者)は、男女ともに如来なのです。それは、煩悩即菩提、生死即涅槃の生活を送るからです。今、(南無妙法蓮華経を唱える)日蓮大聖人およびその門下は、「如来と共に宿する」者なのです。

※信仰に依る幸福への道の機会は平等なのです。

 

「『如来』とは、三界の衆生なり。この衆生寿量品の眼開けてみれば、十界本有と実のごとく知見せり」(御義口伝 新1050頁・全753頁)

現代語訳:(経文に説かれている)『如来』とは、(久遠実成の釈尊だけではなく、)三界の衆生のことなのです。寿量品の眼を開けて、この三界の衆生を見れば、そのまま十界本有の当体である、と有りのままに知見できるのです。

※我ら三界の衆生は、仏に成るべき権利があるのです。

 

「一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行なり」(御義口伝 新1099頁・全790頁)

現代語訳:我が一念に億劫にもわたる辛労を尽くして仏道修行に励んでいくならば、本来、自分の身に備わっている無作三身の仏の生命が、瞬間、瞬間に起こってきます。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行(向上心を持って懸命に励む姿及び修行)なのです。

※真剣・持続の誓願(実現させるべく当方が誓いをたてる)によって物事が始まるのです。

 

「六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おえざりしかば、仏にならせ給わず。今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。いわゆる、地獄の一人、餓鬼の一人、乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべきことわり顕る。譬えば竹の節を一つ破ぬれば、余の節また破るるが如し」(法蓮抄 新1420頁・全1046頁)

現代語訳:六道四生(六道に出生する仕方に、卵生・胎生・湿生・化生の四種があるとされている)の一切衆生は、皆我が父母です。孝養を終えないうちは、仏になられなかったのです。今、法華経というのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経です。いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、ないし九界の中の一人を仏にすることによって、一切衆生が皆、仏になることができるという道理が示されたのです。譬えば、竹の節を一つ破れば、他の節もそれにしたがって破れるようなものです。

※一人の人物を救済する事が一切衆生を救済する事に通じ、中でも最も恩のある父母を成仏させることができれば、全ての人を成仏させられると仰せです。

 

「この御本尊全く余所に求ることなかれ。ただ我ら衆生の法華経を持って南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり。これを九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは、十界一界もかけず一界にあるなり。これによって曼陀羅とは申すなり。曼陀羅というは天竺の名なり。ここには輪円具足とも功徳聚とも名づくるなり」(日女御前御返事 新2088頁・全1244頁)

現代語訳:この御本尊は、全く他所に求めてはなりません。ただ、我等衆生が、法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのです。これを「九識心王真如の都」というのです。十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界に納まっているということです。これによって、御本尊を曼陀羅というのです。曼陀羅というのはインドの言葉であり、訳すれば輪円具足とも、功徳聚ともいうのです。

※己心の曼荼羅と同等の紙幅の曼荼羅は、己心を映す鏡であり、己心を鍛えるトレーニングマシンと言えるのではないでしょうか。

 

◎私ごときが、偉大な大聖人の仏法を解釈するなど、大変おこがましい事ですが、どうしても言わずにはいられなく、あえて申し上げる事にしました。

御書を拝読すれば明らかですが、大聖人は妙法の力で我々を成長(人間革命)させ、この身のままで成仏させよう(即身成仏)と法を説かれたのです。

仏教は幸福探求の為の宗教であって、決して葬儀や故人の法事を実施する為だけではないと教示されています。しかも大聖人は、楠板本尊を建立されていないし、戒壇本尊なる言葉も無かったのです。

 

 

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