一、三、六大秘法に対する私の解釈 14

 

 

三大秘法 10

 

 

己身の三大秘法 前編

 

標題について、更に深掘り調査してみました。

あまりにも数多く書かれていますので、見逃しているかも知れませんが、ご容赦ください。

 

「妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり仏性とは法性なり法性とは菩提なり、所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王・上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり」(聖愚問答抄 全498頁・新578頁)

 

現代語訳:妙法蓮華経とは一切衆生の仏性です。仏性とは法性(本来自ら備わっていて不変の諸法の実体或いは悟り)であり、法性は菩提(覚り・成仏の境涯)なのです。即ち、釈迦・多宝・十方の諸仏、上行・無辺行等、普賢・文殊、舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因(帝釈天)、日・月、明星、北斗七星、二十八宿、無量の諸星、天衆、地類、竜神・八部、人界・天界の衆生、閻魔法王、上は非想天の雲の上から、下は地獄の炎の底までの一切衆生の備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるのです。だから、一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身も共に引かれて顕れ出る、これを成仏というのです。

※一切衆生に備っている仏性を妙法蓮華経と云い、唱題により己身の法・報・応三身が顕れ出て、これを成仏と云うそうです。

 

 

「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く『所謂諸法・乃至・本末究竟等』云云、妙楽大師釈して云く『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土』と云云、天台云く『十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ』云云、南岳大師云く『云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に』云云、又天台釈して云く『衆生法妙』と云云」(当体義抄 全510頁・新613頁

 

現代語訳:問います。妙法蓮華経とは、その実体は、どの様なものでしょうか。

答えます。十界の依報と正報が、妙法蓮華経の当体なのです。

問います、もしそうならば、我々の様な一切衆生も妙法の全体であるといえるのでしょうか。

答えます、勿論です。方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とある通りです。この文を、妙楽大師は金錍論で次の様に解釈しています。「実相(真実の姿、森羅万象の本質という事であり、不可説なる実智の境である万法の理を指す)とは、必ず諸法(一切の法を指し示した言葉で、大宇宙における一切の現象、活動、法則のこと)である。諸法(あらゆる現象)は必ず十如という因果の理にかなった生命活動であり、この十如の生命活動も必ず十界の範疇での活動であり、十界は必ず身(生命体の正報、五陰世間と衆生世間のこと)と土(依報、国土世間のこと)が一体不二をなしている」と。天台大師は法華玄義に「生命の完全な本質を明かした十如・十界・三千の諸法は、法華経に説き明かされた法理の本体である」と説いています。南岳大師は安楽行義において「一体、如何なる物を妙法蓮華経というのか。答えて、妙とは衆生の生命の本質が妙であるが故に、法とは衆生の存在そのものが法であるが故に、衆生が妙法の当体なのである」と述べています。さらにこれを天台が解釈して「衆生は法にして、その本質は妙である」と法華玄義で云っているのです。

※此処でも衆生である我々自体が、妙法の当体なのだと仰せなのです。

 

 

「日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は 本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(当体義抄 全518頁・新626頁)

 

現代語訳:日蓮の一門は正直に権教方便の邪法・邪師の邪義を捨てて、正直に正法・正師の正義を信じて当体蓮華を証得し、常寂光の当体の妙理を顕わすのは、本門寿量の教主の金言を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるからです。

※日寛上人は、この文に己身の三大秘法が説かれていると述べています。

「『当体蓮華を証得して』とは本門の本尊に当り、『常寂光の当体の妙理を顕す』等とは本門の戒壇に当るなり。当に知るべし、我等、本門の本尊、本有無作の当体蓮華を証得し、我が身即本門寿量の当体の蓮華仏と顕れ、所住の処は戒壇の寂光当体の妙理と顕われる事は、本門内証の寿量品・本因妙の教主の金言を信じて、本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経と唱売る故なり云云。これ本門の題目に当るなり」(当体義抄文段、日寛上人文段集 701頁)

 

 

「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来』此れを三如是と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全561頁・新710頁)

 

現代語訳:仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心の中に摂める故に、心の外には法はないのです。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来なのです。この事を法華経方便品第二には「如是相(応身如来)如是性(報身如来)如是体(法身如来)」と説かれており、これを三如是というのです。

※己身の本覚の三身如来及び三如是も三大秘法に通じ、如是相(応身如来、外相)は心体、如是性(報身如来、内性)は心性、如是体(法身如来、実体)は己心なのでしょう。

 

 

心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全564頁・新714頁)

 

現代語訳:心の不思議を説き明かす事で経論の肝要となり、この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。これを知らない時を名づけて無明とするのです。無明とは明らかなることは無いと読み、我が心のありさまを明らかに覚っていないことです。これを悟り知る時を名づけて法性と云います。だから無明と法性とは一心の異名なのです。名と言とは二つであるけれども心はただ一つの心なのです。この為に無明を断じてはならないのです。無明である夢の心を断じてしまえば寤の心をも失ってしまうからです。総じて円教の意は一毫の惑をも断じないのです。故に一切の法は皆これ仏法であるというのです。

※我が身、我が心、我が形、それぞれが、法・報・応の三身である事は前述の通りです。

 

 

「今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し、総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全567頁・新718頁)

 

現代語訳:今法華は八教に超えた円教なので速疾頓成(即身成仏のこと)であって、心と仏と衆生と、この三つは我が一念の心中に収まって、心の外には無いと観ることができれば、下根の行者ですら一生のうちに妙覚の位に入るのです。一と多とが相即するので、一つの位に一切の位が皆具足しているのです。故に一生の間に妙覚の位に入るのです。下根ですらそうなのだから、いわんや中根の者は当然なのです。まして上根の者はいうまでもなく、実相の外には更に別の法はないのです。そして実相には順序がないので位はないのです。総じて一代の聖教は一人の事を説いた法ですから我が身の本体をよくよく知るべきです。この自身の本体を悟るを仏といい、これに迷うのが衆生なのです。

※我々の一念の心中に、心と仏と衆生の三つが収まっており、この本体を信・行・学で知る事が成仏への道なのでしょうね。

 

 

「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く『一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ること得る』と已上、此れを観心と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全569頁・新722頁)

 

現代語訳:つまり、己心と仏身と一体であると観ずれば速やかに仏になるのです。だから止観輔行伝弘決には、また「一切の諸仏は、己心は仏心と異なるものではないと観じられた為に仏に成ることができたのである」と述べています。この事を観心というのです。

※日寛上人は、この文を引いて、己心、仏心、観心について、

「仏心も妙法五字の本尊でなり、己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異らず、故に『一』というなり。而し『観』というのは、初心の行者その義を知らざれども、但本尊を信じて妙法を唱うれば、自然に『己心と仏心と一なり』と観ずるに当るなり、故に『観心』というなり」(観心本尊抄文段、日寛上人文段集 471頁)

と解釈されています。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村