楠板本尊に関するこれまでの発表内容

まだ告発途中ですが、拙ブログのタイトルと簡単な内容を記載しています。

(タイトルURLをクリックすると、リンク先に到達する筈です。)

 

 

楠板本尊の相貌 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

読み取れないほど遠慮がち且つ宗史に合わず意味も理解できない腰書きを、どうして大聖人が書かれたと言うのでしょうか。(他の板本尊の裏書と同様に、制作関係者の覚書なのでしょう)

 

 

楠板本尊と有力在家信徒への御文 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

有力在家信徒に贈られた代表3通の御消息文ですが、何故、御供養のお礼を言っておられるのに、「楠板本尊」建立の事を仰せでなかったのでしょうか。

 

 

楠板本尊と日興上人書写本尊の違い | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

日興上人への相伝書や書写本尊とは明らかに異なっている「楠板本尊」は、相伝を受けた日興上人とは無関係であり、後世の模作である事が明らかなのです。

 

 

日興上人への授与本尊 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり」(17世日精上人記「富士門家中見聞上」富要集5巻154頁)より、【日興が跡条々の事】の「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、「弘安二年に日興が身に充て給はる所の大御本尊」と読むべきで、文永11年12月に図顕された「萬年救護御本尊」の事と解釈できるのです。

 

 

大石寺の板本尊 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

他の板本尊の制作には、宗門のトップが関係しており、「本門戒壇の願主」を在家信徒と考えられる「弥四郎国重」とする事は不自然であり、大聖人の己心の表現であるとするのは、更に不可解である。

 


大聖人御在世時の有力在家信徒 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

「楠板本尊」の「本門戒壇の願主」が、何故、此の有力在家信徒の中から現れなかったのか。富木胤継の義父、南条七郎五郎の義祖父として、血縁少しはあれども、社会的地位、信仰心が全く知られていない「勢原弥四郎国重」なる人物を、どうして、「本門戒壇の願主」に祭り上げなければならなかったのか。

此の不可解な事実が、「楠板本尊」が弘安2年ではなく、後世模作である証拠なのです。

 

 

「弥四郎国重」なる人物を探る 2 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

「日蓮門下系図」(興風叢書8)により、弥四郎国重は実在の人物である、と確認できたのですが、御書に一切登場せず、系図から官職名も明らかでない高齢の人物(既に死去しているかも知れない)が、本門戒壇の願主として、永く名を残す事に無理があると、私は推考します。

 

 

「楠板本尊」建立当時の状況 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

一時しのぎの修復もできない状況下で、その2年後に豪華絢爛な金泥文字漆塗り「楠板本尊」を大聖人自らが建立されるでしょうか。

体調を崩され身動きもとれない大聖人が、小氷期の身延山中で、「楠板本尊」の材料調達が可能だったのでしょうか。

大聖人が着物食物にも難渋している時に、豪華な「楠板本尊」を図顕される気持ちになられたでしょうか。

やっと大坊が完成しましたが、それまで「楠板本尊」は何処に格納されていたのでしょうか。誰にも知られずに格納できる場所など無かった筈です。

この時点で大切な「楠板本尊」が図顕されていたのであれば、留守居の波木井殿に不敬・盗みが無いようにお願いするでしょう。

 

結局、大聖人が御在世当時、「楠板本尊」は図顕されていなかったのです。

 

 

干支併記の大聖人御真筆御文 3 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

大聖人にとっては重要であるべき「干支併記」の無い年月日記載だけの「本門戒壇の大御本尊と称する楠板本尊」は、大聖人御真筆とは考えられないのです。

 

 

弘安2年10月前後の御書 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

弘安2年5月から弘安3年12月まで1年7か月間で、計52編が遺されていますが、「楠板本尊」に関する或いは想像させる記述は一切ありません。

 

 

本尊書写に関する日興上人の言 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

日蓮正宗・宗門では、歴代法主の書写本尊は、弘安二年に大聖人が御図顕されたとされる「楠板本尊」の書写だと主張しています。

然しながら、日興上人の御文からは、「楠板本尊」の存在を想像させる語句は見出せず、仏滅年紀の記載は「楠板本尊」の「仏滅後二千二百二十余年」ではなく、「仏滅度後二千二百三十余年」を推奨されているのは明らかです。 

従って、法主の書写本尊は「楠板本尊(戒壇本尊)」の書写ではなく、数多ある既存の大聖人御自筆の御本尊の書写である事は明確であり、日蓮の民衆救済の秘儀は歴代の法主の書写本尊にもあるという事を明示しています。

 

 

観心本尊抄文段より『仏滅年紀』 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

弘安二年御図顕とされる「楠板本尊」は、「仏滅後二千二百二十余年」となっており、日寛上人は、「仏滅後二千二百三十余年」を推奨されています。結局、日寛上人御自身は「楠板本尊」が秘蔵の為に真面に見ておられないか、「楠板本尊」の仏滅年紀が変更されているか、のどちらかなのでしょう。

 

 

妙法曼陀羅供養見聞筆記より『仏滅年紀』 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

此処でも日寛上人は「楠板本尊」の御相貌とは、異なる仏滅年紀「仏滅後二千二百三十余年」を主張されています。これは、どういう事なのでしょうか。

 

 

本尊書写に関する日興上人の言 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

日蓮正宗・宗門では、歴代法主の書写本尊は、弘安二年に大聖人が御図顕されたとされる「楠板本尊」の書写だと主張していますが、日興上人の御文からは、「楠板本尊」の存在を想像させる語句は見出せず、仏滅年紀の記載は「楠板本尊」の「仏滅後二千二百二十余年」ではなく、「仏滅度後二千二百三十余年」を推奨されているのは明らかです。従って、法主の書写本尊は「楠板本尊(戒壇本尊)」の書写ではなく、数多ある既存の大聖人御自筆の御本尊である事は明確です。

 

 

楠板本尊と日興上人書写本尊の違い | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

大聖人より日興上人に相伝されたと言われる『御本尊七箇相承』(富要集1巻32頁)で述べられていて、本尊書写で重要なのは、次の通りです。

①    経釈の要文(例:苦悩乱者頭破七分および有供養者福過十号)を書く。

②    「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なり」と書かれたままに、書写する。

これは、大聖人からの付託です。

それ故に、日興上人の書写本尊は、上記の①②の条件を遵守して書かれています。

処が、書写の大元であるべき楠板本尊は、①の経釈の要文は無く、②は「仏滅後二千二百二十余年の間・・・」とあり、日興上人への相伝書や書写本尊とは明らかに異なっているのです。

つまり、「楠板本尊」は、相伝を受けた日興上人とは無関係であり、後世の模作である事が明らかなのです。

 

 

本門寺の本尊について | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

現存する大聖人御筆漫荼羅を分類すると

堀日亨上人の「第三、漫荼羅脇書等」(富要集8巻177-頁)から、

楠板本尊を除いて、弘安2年以前に御図顕された本尊は、15幅

         弘安2年以降に御図顕された本尊は、22幅有る。

「日蓮聖人曼荼羅一覧」(正宗所蔵の曼荼羅含まず)から、

         弘安2年以前に御図顕された本尊は、58幅、

         弘安2年に御図顕された本尊は、13幅、

         弘安2年10月以降に御図顕された本尊は、58幅有る。

次に「本門寺に懸け」「本門寺の重宝」と日興上人添字の本尊は、

                      「本門寺に懸け」との本尊は、4幅

                      「本門寺の重宝」との本尊は、8幅有る 事が判り、

本門戒壇時には、日興上人は、これ等の御本尊を本門寺に懸けるつもりだったのでしょう。

もし、楠板本尊ならば、懸けるのではなく、安置する、設置する等の表現が相応しく、日興上人の時代には、楠板本尊は存在せず、

「弘安2年10月12日御図顕とされ本門戒壇の本尊と称する楠板本尊は後世模作である」という証拠の一つなのです。

 

 

御本尊(文字曼荼羅)について 4 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

大聖人の仏滅表示は、弘安元年七月以前は「仏滅後」と付記し弘安元年七月以後では「仏滅度後」と付記されていますが、弘安2年10月12日御図顕とされる「楠板本尊」は、「仏滅後」と表記されています。此の事実により、「楠板本尊」は大聖人が御図顕された御本尊では無いという証拠となります。

 

 

日蓮大聖人の御生活の状況 後 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

上野殿御返事 全1562頁  弘安2年12月27日 楠板本尊御図顕の2ヶ月後

『米一合もなく餓死するかもしれない。 僧達も養えず、里に送り返した』

①     身延山中の極貧の凄惨な生活を訴える日蓮大聖人が、どうして超高価な金を入手することができるでしょうか?

③     日蓮一門の信徒が、身延山中の大聖人に砂金等も含めて金を供養したという御書や記録は全く残っていません。

④    楠板本尊御建立のこれらの作業を完璧に行うには、最低1ヶ月以上かかるだろうと思われ、これ程の大作業を、5老僧を含む御一門が全く知らなかったという事が有り得ますでしょうか。

 

 

日蓮大聖人の御生活の状況 中 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

日蓮大聖人が御弟子達に送られた御消息文より、大聖人の御生活状況を考えてみる。

 

兵衛志殿御返事 全1098-9頁 弘安元年11月29日 楠板建立1年前

この月の11日の辰の時から降り出した雪が大雪となり14日まで振り続き、その後2、3日少し雨が降ると雪が固くなりまるで金剛の様ですが、今もって消えません。昼も夜も寒く冷たい事は並外れています。酒は凍って石の様であり、油は凍って金に似ています。鍋・釜に少し水が入っていると、それが 凍って割れてしまいます。寒さはますます激しくなってきて、衣服は薄く、食物も乏しいので外に出る者もありません。
 庵室(又は御堂)はまだ半分作りかけの状態で、風雪を防ぐこともできず、敷物もありません。 木を取りに表に出る者もいないから、火も焚けません。古い垢のついた小袖一枚くらい着た者は、その肌の色が、厳寒のために紅蓮・大紅蓮のようです。その声は阿波波(あはは)地獄、阿婆婆(あばば)地獄から発する異様な声そのままです。手や足は凍えて切れ裂け、人が死ぬことが絶えません。在家の人の鬚を見ると凍って瓔珞(ようらく、意味:仏堂・仏壇の装飾具)をかけた様であり、また、僧の鼻を見ますと鈴を貫きかけた様になっております。この様に不思議なことはかつて無かった事です。 

 

 

日柱上人の「南無日蓮大聖人」を紹介 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

南無妙法蓮華經南無日蓮聖人について正々堂々と述べられているのに対して、楠板本尊については言及していません。そして本文に使われている語句は、

閻浮第一本門大御本尊 98頁
 本門大御本尊 98頁、210頁(2回)、220頁、235頁(2回)
 閻浮提第一の大御本尊 103頁
 南無妙法蓮華経の大御本尊 217頁
  三大秘法の随一は本門大御本尊 303頁
  一閻浮提第一の本尊 303頁
 三大秘法の随一の大御本尊 303頁

とあり、日柱上人自身が、「本門戒壇の大御本尊」なる名称を認めていないか、重要視していないか、更に論争から逃げている,と解釈できました。

 

 

 

日蓮正宗の過去帖から解る宗義「楠板本尊」の嘘 1 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

日蓮正宗の過去帖から解る宗義「楠板本尊」の嘘 2 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

日蓮正宗の過去帖から解る宗義「楠板本尊」の嘘 3 | 明るい未来へ弟子として生きる (ameblo.jp)

 

我が家の日蓮正宗の過去帖の序文に於いて、「楠板本尊」の記載は無く、また「弘安2年10月12日に建立」「大聖人の出世の本懐」「本門戒壇の本尊と称する」「一閻浮提総与(全民衆に授与)」という記載も、一切無いのです。

更に、過去帳の日捲り部分の12日の頁部を提示しますが、此の日の宗門の出来事として、

  ① 御難 弘長元年5月の伊豆配流

  ② 御難 文永8年9月の龍の口の法難

の記載はあるのですが、不思議な事に、弘安2年10月12日の「戒壇本尊の建立」の記載はないのです。

宗門においては、宗旨建立はさて置き、大聖人出世の本懐とされる「楠板本尊」御建立の出来事よりも、法難及び御両親・大檀那の命日の方が大事であるとしている様です。

 

 

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