一、三、六大秘法に対する私の解釈 12

 

三大秘法 8

 

仏法語句の再確認

 

 

戒定慧の三学

 

仏教に必ず備わっており、仏道修行者は必ずこの三つを修学しなければならないのです。

戒:(禁戒)身口意の三業の悪を止め、非を防ぎ善を修すること

定:(禅定)心を一所に定めて雑念を払い安定した境地に立つこと

慧:(智慧)煩悩を断じて真理を照らし顕すこと

三学相互の関係は、戒に依って定を扶け、定に依って慧を発し、慧に依って仏道を証得することになります。

 

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり、持つ所の行者・決定無有疑の仏体と定む是は定なり、三世の諸仏の智慧を一返の題目に受持する是は慧なり、此の三学は皮肉骨・三身・三諦・三軌・三智等なり。」(御義口伝巻上 全743-4頁・新1036-7頁

 

「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云」(御義口伝巻下 全760頁・新1059頁)

 

「一つ本門寿量の大戒は、虚空不動戒であり、無作の円戒と名け、本門寿量の大戒壇と名く。一つ本門寿量の本尊は、虚空不動定であり、本門無作の大定であり、本門無作の事の一念三千である。一つ本門寿量の妙法蓮華経は、虚空不動智であり、自受用の本分と名け、無作の円慧である」(大石寺開山 日興 記?『上行所伝三大秘法口訣』富要集1巻45頁より一部改編)

 

※この様に、末法の三学は三大秘法の事であり、この御本尊を信じて、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を唱える我々は、三学を実践している事になります。

戒:禁戒(無得道の権教を止め法華経の真実を修行する)は、本門の戒壇に該当

定:禅定(法華経を持つ行者は決定無有疑の仏体と定める)は、本門の本尊に該当

慧:智慧(世の諸仏の智慧を一返の題目にて受持する)は、本門の題目に該当

 

 

法報応の三身

 

厳密には、仏身の3種の側面を云い、

法身は、所証の真理そのもの、生命自体、

報身は、真理を体得する能証の智慧またその智慧を体得した仏身、

応身は、衆生に慈悲を施す働き、また衆生を救済するために応現する仏身、

を意味します。

 

三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす、譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」四条金吾釈迦仏供養事 全1144頁・新1555-6頁)

 

「四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全563頁・新712頁)

 

「己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来』此れを三如是と云う此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(三世諸仏総勘文教相廃立 全561-2頁・新710-1頁)

 

「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)

 

「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(御義口伝下 全754頁・新1051頁)

 

※これ等を読み解くと下記の如くとなり、

法身は、十界(十方法界・森羅万象、全宇宙)を含み、日蓮が弟子檀那の身体、生命自体

報身は、十界(十方法界・森羅万象、全宇宙)を含み、日蓮が弟子檀那の心性、智慧

応身は、十界(十方法界・森羅万象、全宇宙)を含み、日蓮が弟子檀那の相形、肉体

を意味します。

無作の三身とは寿量品事の三大秘法であり、無作三身の当体蓮華の仏とは末法の法華経の行者つまり日蓮が弟子檀那等なのです。

 

 

空仮中の三諦

 

物事の真理の三つの側面を三諦と云い、仏法の法門は全て三諦を説いています。

空諦とは、万法一切の性分の事で、有りと云えば無く、無いと云えば有るという内相的な存在、

仮諦とは、一切の万法が、仮りの因縁によって和合している外相の面、

中諦とは、空と仮の二面を包含し動かしがたい厳然たる本質、

を意味します。

 

「多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり」(十如是事 全410頁・新355頁)

 

「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此を開会と云い此を自行と云う」(三世諸仏総勘文教相廃立 全573頁・新727頁)

 

「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す」(御義口伝上 全717頁・新998頁)

 

※総の三諦とは、釈迦一代聖教の内、頓(華厳)・漸(阿含・方等・般若)・円(法華経)の三教を総の三諦と云います。釈迦は頓教において空諦を、漸教において仮諦を説き、法華において中道を説いて締め括り総の三諦を完成した。衆生を悟らせる為の仏の説法は、全て三諦の法門であり、衆生が開会(真実を開き顕して一つに合わせること)し悟ると成仏するが、開会するには妙法によらなければならず、究極は南無妙法蓮華経となります。

見方を変えますと、ドイツ観念論のヘーゲルは、一度は全てを信じる(正)が、その限界を見出し(反)、次の段階に上る(合)という能力が人間にはあると指摘していますが、この仏法原理にも一致しています。

 

円融の三諦は、円教(法華経)で説く三諦で隔歴(爾前経で三身等が別々に説かれている)の三諦に対する言葉。空仮中の三諦が、おのおのまた三諦を具するという相即を説き、鏡が物の像を映すことに譬えています。即ち万象の像を映す鏡の前に物を置かなければ像は映らない。万象の姿を映すことを仮諦に、何も映していない状態を空諦に譬え、鏡それ自体は本来空諦でも仮諦でもなくいずれにも偏らない中諦に譬えられるのです。この三諦は別々の存在ではなく鏡と像との姿の中に円融しているので、円融の三諦というのです。

 

 

三観

 

三観の三は、相性体の三如是であり、法報応の三身であり、空仮中の三諦です。観は「明らかに詳しく見る」との意味であり、森羅万象を悉く三如是、三身、三諦と見ていくことが三観になります。

 

 

三道と三徳

 

「煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳に転ずる」

法身・般若・解脱の三徳と三身の関係は、法身は法身、般若が報身、解脱が応身となります。

 

「但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり(当体義抄 全512頁・新616-7頁)

 

「此の中に心念口演とは口業なり志意和雅とは意業なり悉能受持深入禅定とは身業なり三業即三徳なれば三諦法性なり」(御義口伝上 全745頁・新1039頁)

 

※煩悩・業・苦の三道は、煩悩による行為が業を造り、業が苦を招き、苦がまた煩悩を呼び起こして、際限ない苦悩の流転となります。しかし、法華経を受持する者はその連鎖を断ち切り、煩悩は仏の智慧としての般若に転換し、煩悩がもたらした悪業は般若によって仏の自在なる解説の働きとなり、業のもたらす苦果は解脱によって法身という究極の真理の当体へと顕れるのです。その法身はまた般若を生み出すというように、悟りの連なりへと変わっていき、この三徳が先に述べたように、そのまま仏の尊い三身となるのです。

 

 

三智

 

道種智・一切智・一切種智の三智のことを云います。

一切智は、一切の思想および経典に通達した二乗の智慧。

道種智は、あらゆる道法により衆生の生命に仏界を涌現させようとする菩薩の智慧。

一切種智は、一切を見通していく透徹した仏智。

 

※止観では「仏智、空を照すこと、二乗の見る所の如くなるを、一切智と名く、仏智、仮を照すこと、菩薩の見る所の如くなるを、道種智と名く。仏智、空仮中を照し、皆実相を見るを、一切種智と名く。故に三智は一心の中に得というなり」と三智が一心に具足している、とあります。

 

 

三因仏性

 

三種の仏性(仏になるべき性分)のこと。正因・了因・縁因の三因仏性をいう。

 正因仏性  一切衆生が本然的に具えている仏性(法性・真如)のこと。

 了因仏性  法性・真如の理(正因仏性)を覚知する智慧をいう。

 縁因仏性  了因仏性を縁助して正因仏性を開発していく全ての善行をいう。

 

「我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし」(妙法尼御前御返事 全1403頁・新2100頁)

 

※金光明経玄義に、三因仏性は互いに相由って仏果を証する妙因となる(趣意)と説かれ、了因は空諦、縁因は仮諦、正因は中諦となる、とされています。

 

 

三軌

 

衣座室の三軌のこと。軌とは法則・手本といった意味です。

 

「四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何が応に説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是れなり、如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり」(妙法法華経法師品394頁、眞訓両読 妙法蓮華経並開結、大石寺版)

 

「衣座室とは法報応の三身なり空仮中の三諦身口意の三業なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり、衣とは柔和忍辱の衣・当著忍辱鎧是なり座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり室とは慈悲に住して弘むる故なり母の子を思うが如くなり、豈一念に三軌を具足するに非ずや」(御義口伝上 全737頁・新1028頁)

 

「如来の室を修するは是れ大慈悲なり、若し同体に就かば即ち法身なり、若し衆生に被るのは即ち是れ解脱なり、能く衆生をして同体に会せしむるは即ち是れ般若なり、如来の衣を修するは、若し所覆に就かば即ち法身なり、若し能覆の厳身に就かば即ち寂滅忍なり、若し和光利物に就かば即ち解脱なり、若し能坐に就かば即ち般若なり、若し所坐に就かば即ち法身なり、身と座と冥に称うは即ち解脱なり」(智顗 著『法華文句』)

 

※衣は柔和忍辱の心を着し・座は一切法空なりとの真理に座して不惜身命の法を説き・室は大慈悲の心を起こして法を弘める・ことを云います。

衣も座も室も共に法報応の三身に約すことができます,

柔和忍辱の衣で云えば、その所覆に就く(衣に覆われた清浄なる生命)は法身、能覆の厳身に就く(あらゆる大難を耐え忍んでいく心)は報身、和光利物に就く(それによって利益する)は応身(解脱)となります。

一切法空なりとの真理に座すれば、能坐に就く(以下略す)は報身(般若)、所坐に就くは法身、身と座と冥に称うは応身(解脱)となり、大慈悲の心を起こす室では、同体に就けば法身、衆生に被るのは解脱、衆生を同体に会せしめるは般若であると解釈されています。

この様に立場と場合で三身も変化するというのです。

同様に、それぞれ空仮中の三諦・身口意の三業に約して論ずることもできると仰せです。

 

 

語句それぞれの関係を示す

 

 三身  三諦  三徳  三業   三智    三因仏性  三如是  三転読誦

 応身  仮諦  解脱  意業  道種智  縁因仏性  如是相  如是相

 報身  空諦  般若  口業  一切智  了因仏性  如是性  是相如

 法身  中諦  法身  身業  一切種智   正因仏性  如是体  相如是  

 

 

◎「この三学は皮肉骨・三身・三諦・三軌・三智等なり。」(御義口伝巻上 全744頁・新1037頁

とありますが、上記の語句と三学のそれぞれの関係を記述できていません。しかし、

「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(御義口伝下 全752頁・新1048頁)

と述べられておられるので、全てこれ等の語句は、三大秘法に結び付いている、と考えられるのです。

 

 

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