「弥四郎国重」なる人物を探る 1

 

 

楠板本尊の腰書(又は脇書)に
「本門戒壇之願主 弥四郎国重 法華講衆等敬白」
と、弥四郎国重なる人物名が書かれています。
茲から、古文書よりこの人の人物像を探っていきたいと思います。


①先ず、大聖人の御書中に二人の弥四郎が紹介されているが、何れも死去されています。

「下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頸を切らしむ」(滝泉寺申状853頁)
通解:(院主代行智は)下方荘の政所の代官をそそのかし、去る四月、大宮浅間神社で行われた流鏑馬の神事の最中に、法華経を信心している四郎を刄物で切りつけ、去る八月には弥四郎の頸を切らせた。

※此処での弥四郎は、富士下方市庭寺に住んでいた農夫で、「熱原の法難」に先立って行智や代官等の偽りの告訴によって捉えられ処刑されている。

「故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母・釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみちびく身とぞ・なられて候らん」(光日房御書931頁)
通解:故弥四郎殿はたとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜になげき・追善供養するならば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがあるでしょうか。ましてや弥四郎殿は生前に法華経を信じていたのですから、悪道へ堕ちるどころか、親を成仏へ導く身となられるでしょう。

※此処での弥四郎は、安房国(千葉県)清澄山下天津の光日房の子息で、両親を大聖人に帰依させたが若くして死去しています。


②次に、正慶21333)年27日に日興上人の葬儀が執り行われ、弥四郎なる人物が書かれています。
「聖人の御時の例にまかせて御葬送あり、其の次第。
先火     三郎太郎入道
次に本居   弥太郎入道
次に大宝華  弥四郎入道
(以下略)  」(17世日精上人記・家中抄、富要集5176)

※これは、弘安21279)年から54年後の出来事です。弘安2年当時では願主として若すぎるでしょうね。


17世日精上人の文書
日蓮正宗の正式文献中で「弥四郎国重」が最初に登場した御文です。

「此処の地頭は南部六郎実長なり後に入道して法寂房日円とぞ申しける、先祖は新羅三郎義光の五男信濃守遠光の三男、南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」(17世日精記・日蓮聖人年譜 富要集5127頁)

「実長子息多々なり、嫡子弥四郎国重、次郎殿、三郎殿其の外原殿を弥六と申す長義なり、其の外、孫次郎、孫三郎、又三郎殿、右馬頭等見聞の及ぶ所此くの如し家の系図知らざる故委細に之れを出たさず。」(同記・日蓮聖人年譜、富要集5128)

「日円の本尊には法寂坊授与とありて年号なし、日番の本尊には年号ありて授与書なし(共に富士久遠寺に在り)、弥四郎国重事 日道を大石寺に移す」(17世日精記・富士門家中見聞抄目録 富要集5215頁)

※日蓮一門中での大檀那である波木井実長は、弘安210月には、まだまだ健在でした。
17世日精は、この波木井実長を差し置いて、長男の「弥四郎国重」を「本門戒壇の願主」に仕立て上げているが、この「弥四郎国重」なる人物は、波木井実長の実子にはおらず、また日蓮の御書にも、日興の「弟子分帳」や消息文などの、どこにも見当たらず、そんな人物は存在していないのです。
つまり17世日精のでっち上げた空想の長男なのである故に、大石寺59世法主・堀日亨は文中の「弥四郎国重の事」に注釈を入れて「弥四郎国重の事、依拠を知らず」(富要集5215頁)と言っています。
すなわち日蓮正宗59世法主堀日亨は、17世法主日精の説を否定して 「弥四郎国重という人物は、どこの誰だかわからない」 と言っているのです。


48世日量上人の文書
「同二年弥四郎国重なる者(一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり)霊端に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ」(48世日量編、富士大石寺明細誌 富要集5320頁)

「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝る云云。」(同編 富士大石寺明細誌、富要集5334)

※戒壇の願主なのか楠材の発見・献上者なのか、二人の大石寺法主が全く正反対のことを言っているが、これ自体が特筆すべき事で、これだけでも、「弥四郎国重」という人物は、日蓮一門の中に存在していない、と考えてしまいます。

 

(続く)



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