稀代の謀略家・山崎正友の悪事年表 5

 

 

 

悪辣なマッチポンプの仲介偽装工作

 

ある状況を自ら仕掛けておいて、その状況に苦慮する相手に近づいてその仲介を買って出る。これが山崎の手口であり、学会内にあって彼は、昭和535月頃、この宗門・学会問題の解決を装う仲介人を自ら買って出る。学会本部では、昭和531月から事態が妙に急変し苦慮していた時であり、事態解決の為に正式なテーブルに着く必要から、妙信講以来いわば“宗門通”であった山崎の仲介の意向を受ける事にしたのである。しかし、結果的には、これが問題解決どころか、ますます抜差しならぬ泥沼的状況となったのである。(趣意、野崎勲著「謀略 山崎弁護士の黒い手口」1412

 

昭和535月 山崎は日達法主の御病状を池田先生や学会首脳に知らせず、右翼大物、笹川良一氏(日本船舶振興会会長)系列下の聖路加病院に一週間極秘入院させる。「どうだ、俺は猊下(日達法主)のカルテまで知っているんだ。猊下の生命は、俺が全て握っている」と得意げに周囲に語る。(旭日の創価学会70256-7頁)

 

昭和536月中旬頃 宗門より「創価学会言論資料」として、過去の学会出版物の中に、宗門伝統教学上から見て行き過ぎ、逸脱であると指摘した文書が学会本部に届けられる。(野崎勲著「謀略 山崎弁護士の黒い手口」143

 

昭和53629日 「月刊ペン事件」で隈部は、東京地裁で有罪判決、但し執行猶予1年の情状酌量がなされる。

 

昭和53630日付 聖教新聞紙上に『教学上の基本問題について』と題して、学会側の見解、訂正を発表する。

学会本部に届けられた文書『創価学会言論資料』の指摘箇所について、学会側が公式見解として回答したものである。しかし、事の経過は、理解に苦しむものであった。こうした問題が指摘され始めたのは52年以降、特に53年に入って顕著になり始めたことであった。池田会長も、日達上人にお目通りするたびに、この問題について学会がどの様にすればよいか、数度にわたって指南を受けていた。それに対し、日達上人は「学会は大きい組織なので、一気にやるのではなく、何かの会合の折りに一つ一つ時間をかけてやってください」と指南され(中略)会長自ら日達上人にお伺いし、その通り徹底してきた過程であるにもかかわらず(中略)6月中旬に突如として一気に訂正を求める流れになったことは、まことに不自然な経過であった。(中略)これらの謎も山崎の陰謀の数々が明るみに出た今日となっては、全て明らかになっている。というのも、彼はこの「6.30」の前に「今後の作戦」なる“作戦進言書”を自筆で書き、学会の教学上の見解と訂正を契機に、更に学会との関係を有利に導く策略を宗門僧侶に授けていたのだ。(野崎勲著「謀略 山崎弁護士の黒い手口」143-4)

 

昭和53年秋 山崎は日達法主周辺に作戦を進言した『現下の情勢について』の中で、「檀徒の信仰の育成のために機関紙(誌)が必要」と提案する。

 

昭和5393日 当時の秋谷会長から山崎が会社経営をしている事を初めて聞いた池田先生は、山崎の将来を心配して「山崎君、君は“武家の商法”様なことをやっていてもよくない。もっと人格を磨いて“妙法の大弁護士”として社会に貢献する人材を期すべきではないか」と忠告するも、山崎は、「いや、先生、これは私の我がままで始めたものです。私も四十を過ぎて考える処があり、社会的裏付けを作ろうと思ってやっている事なのですから・・」と結局、エゴが生み出した厳しい決算書となるのである。(サンデー毎日 ’83.1.2177頁)

 

昭和53914日 山崎正友元顧問弁護士に陰で操られた「正信覚醒運動の活動家僧侶達」は、上記の日達管長の政治決着を了とせず、大分県別府市の寿福寺で活動家僧侶達と原田副会長(当時)、野崎青年部長(同)、原島教学部長(同)が会談する。

 

数日後、山崎並びに日達管長の娘婿の菅野慈雲(当時は正信覚醒運動の活動家僧侶の中枢、正信会結成時には裏切って宗門に戻る)が一計を案じ、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊以外の七体を本山に納めさせる「調停案」を出す。(出典元を忘却した為、未提示)

宗門を外護する立場にあった創価学会は、「謹刻の許可」を失念していた日達管長の権威を失墜させるわけにもいかず、止む無く山崎の調停案をのみ、七体の板本尊を大石寺に収める。(地涌選集 699号、20章 霊山未散、http://www.houonsha.co.jp/jiyu/20/699.html

 

昭和5310月 山崎は、学会脱会者を扇動して、「特別財務の返還」を求める訴訟を起こさせる。

ご丁寧にも、山崎自ら訴状の草案を作り、5百万円もの着手金を立替え、果ては、記者会見で脱会者達が読み上げる「声明文」まで作成するが、後日この裁判は「却下」され終了する。(旭日の創価学会702226頁)

 

昭和53117日 学会幹部代表2千名が総本山に登山して幹部会を開催し、信徒団体としての体質をより一段と鮮明にすることを宗門に誓う。

日達猊下の指南もあり、若手僧侶もともかく半年間学会攻撃はせず、学会側の徹底・深化を見守ろうとの了解が生まれた。しかし、又もやこの了解が無視され、学会の努力にもかかわらず、解決の方向には向かわなかった。

山崎は、自ら仲介してこの「11.7」の内容についても事前に双方に提示して了解を得ておりながら、「6.30」の時と同様に「現下の情勢について」と題する宗門側への作戦進言書を自筆で書いていたのである。「マッチ・ポンプ」という言葉があるが、山崎の場合は、マッチで火をつけ、更に油を注ぐ「火に油」というものであった。 (趣意、野崎勲著「謀略 山崎弁護士の黒い手口」161-3)

 

 

 

 

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