午前1時15分です。

頑張って起きています。

 

被爆者の血を受け継ぐ者として、今年も原爆投下79年を迎えました。

今回は久しぶりに過去記事から過去にご紹介した被爆建物の紹介をしてみます。

 

その前に。

多くは語りたくありませんが、NHKの超偏光報道、例年通り安定のクソ平和宣言の松井市長。

あまりに許せないので前段言わせてもらいます。

 

本当に悲劇を繰り返してはならないのであれば、松井やごくごく一部の声の大きな自称市民団体の考え通りで本気で平和が訪れると皆さん思いますか?

 

絶対違うと思います。

 

自己否定と核兵器増強をしているごく一部の国(中国、北朝鮮、ロシア)が喜ぶことしか松井は言っていない。将来核廃絶は当然だけど今言って、今それを実現しようとして、一番利するのは誰かを考える必要があるでしょう。何か極一部の声の大きな自称市民団体への気遣いが感じられる似非宣言でした。

 

悲劇を繰り返さない為には、悲劇を起こさない様にしなければならないでしょう。

継続して広島から悲劇が起きた事実を執拗に発信し続けていくことは何が何でも継続してやらなければなりません。そして全ての人類に訴求していく必要があります。

 

でも多くの人間が悲劇を避けたいと出した結論に対し、為政者という言葉を使うのであれば、それはそっくりそのまま松井に返したい。松井はプラスして偽善者だ。

 

尤も本気であのクソ宣言の通りの思考なのであれば頭の中は余程なお花畑なのだろう。

情けない。毎年この松井の宣言にはがっかりさせられる。秋葉よりは少しマシだが、進歩がない。

 

「平和を願うだけでは平和は訪れません。一人一人の意見をよく聴くこと。私たちにもできる平和への第一歩。平和の尊さや命の重みを感じましょう。」

もうね、涙が出ます。小学生の純粋な考え、想いの宣言の方が全然まし。

 

子ども代表の平和宣言こそ松井が言わなければならないこと。

 

なんなんだ、あの極一部の国や自称市民団体のみを利するクソ宣言はムキー

 

 

 

湯崎知事は今すぐ核兵器廃絶に向けた訴えを、例年通り述べられましたが、この方の宣言は本当に身に染みて素晴らしい。短かくまとまっているし。被爆者の想いを本当に代表してくれている。

私たちは真の現実を直視しなければならないのです、に全てが凝縮されていると思います。

そしてもっともっと核廃絶に向けた努力をすべき、本当にそう思う。

 

過ちは繰り返しませぬから、を今一度思い起こしてほしい、という最後の言葉は我々一人一人が噛みしめていく必要があります。

 

 

 

岸田総理の宣言は、その点何故今その政策なのかを丁寧に説明したのであって断然評価できる。流石広島選出の総理大臣。具体的に悲劇を広める取り組みを行い行動を起こしている点では、いい加減な広島市長に比べれば余程評価される。

 

偏光眼鏡ではなく、曇りない眼で、岸田総理の宣言の内容をよく確認すべきだろう。

 

国連代表の宣言もほぼ岸田総理や湯崎知事を同じ内容。何をしてはいけない、という認識はちゃんと届いているし、世界はまだまだ捨てたもんじゃないと感じさせられる。

 

 

 

そして報道関係、特にNHKには毎度のことながら幻滅。

原爆の日に全く関係の無いイスラエルを非難するのはそれはいい。

では、ハマスのテロを非難したことはあるのだろうか。少なくとも記憶にない。

強い疑問を持たざるを得ない。

 

一方を非難し、一方に対してはダンマリを決め込む。

これでは北朝鮮のテレビと同じの極低レベル。

最低。

 

NHKの切り取り偏光報道姿勢には、本当に残念で、こんな極低レベルの解説をするのであれば、Noナレーションで中継してもらいたい。

 

 

偉そうに式典批評から入りましたが、あまりにあの松井の宣言がダメ過ぎて、被爆関係者として悲しくなりました。

 

 

 

前置き長くなりましたが、どれだけの多くの方が、どれだけ酷い想いをしてきたのか、皆さまはもうある程度ご存じのことと思います。

久し振りに被爆遺跡を見ていただき、原爆の恐ろしさを少しでも感じていただければ幸いです。

 

 

陸軍被服支廠。

陸軍被服支廠の鋼鉄の扉は厚さ30mmもあるのに、こんなにひしゃげています。

爆心地から約2.7kmにあったこの建物には、風速200mを超える爆風が襲い、鋼鉄の扉を圧し曲げました。

 

同じ陸軍被服支廠の1945年8月と、2020年8月の同じ場所からの撮影です。

 

広電変電所です。ここは爆心約1.6km。

 

分厚いコンクリート製の広島文理科大学旧校舎。取り壊し危機の筆頭建物です。

 

 

爆心地から僅か170mしか離れていない呉服店の建物。よく核兵器のほぼ直撃に耐えました。

 

その地下室は2020年までは原爆投下時のまま残されていましたが、残念ながら老朽化耐震構造とする為にリニューアルされてしまいました。写真はリニューアル前のものです。

 

日本銀行広島支店。嘘か本当か判りませんが、戦車砲直撃にも耐える壁、窓格子なのだそうで、爆心地から僅か370mしか離れていないのに、中で開店準備していた行員たちは原爆の強烈な放射線、爆風から守られたそうです。特に地下金庫の中の放射線量は、ほぼゼロ。

これが核シェルターの有効性になったと言われています。

 

1949年に入学し、父が通っていた袋町小学校。このコンクリート製校舎外郭は残りました。

父通学当時は、窓も、一部壁も無かったそうですが、壁には被爆者の伝言が数多く書かれていたのが今でも残っています。教室数も圧倒的に足らず、青空教室での授業も多かったそうです。

被爆者の先生もおり、顔にケロイド状態になっていたにも関わらず教壇に立たれていたそうです。

 

爆心地から800mしか離れていない福屋百貨店。

この建物の中では本当に多くの被爆者の方が亡くなられました。

機会があればこの建物の中で起こったことをご自身でお調べください。

 

広島原爆病院とも言われた赤十字病院の爆風でぐにゃぐにゃになった窓枠。

内側には新たに取り付けられた窓枠がありますが、爆風で飛び散ったガラス片がコンクリートの壁に突き刺さった痕跡などが残っています。

 

参考に:

 

 

 

広島に原子爆弾リトルボーイを投下した、ボーイングB-29を改造した、B-2945MO。

アメリカでは、原爆が戦争を早く終わらせるのに貢献した、と考えられていることをご承知の方多いと思います。

 

それは日本人の傲慢であって、ずっと変わらず報道されているにもされている通り、圧倒的な物量で日本軍を圧したアメリカ軍ではありましたが、1945年2月に経済破綻を起こし、戦時国債で乗り切っている状態で継戦は事実上難しい状況でした。

 

更に本土上陸戦などを行えば、少なく見積もっても更に20万人以上ものアメリカ兵が戦死する計算が経っていたことも多くの方の知るところです。

 

それと、北方からは権威主義的なマルクスレーニン主義者が攻撃を開始しており、北半分を彼らに強奪される危険もありました。

 

戦後の秩序を考えた場合、何が最善なのか、何が最善だったのか、どうすればよかったのか、それを俯瞰して考える必要があります。

 

一方的なものの見方はズルく、自分本位になりがち。

アメリカがどういう立場であったかを知らずに被害者ずらだけをするのでは相手にされない。

 

充分解っているつもり。

 

 

 

それでも私の立場からは、だからと言って、無垢な市民の上にあんなものを投下してはいけません。絶対ダメです。

 

としか言えない。